残響ユートピア38
黒い、墨汁よりも黒い水が、ボタボタと落ちていく音がする。それは染みを作り、広がって闇を作り出す。轟の足元に広がった闇が、濃くなり広がっていく。奏の足元にもあるそれと、共鳴する。
奏は咄嗟に、バチンと音がするほどの勢いで、両手で耳を塞いだ。これ以上、轟の奥から漏れ出る音を聴くのはまずいと思った。隣いる爆豪が、奏が急に動いたことに肩を跳ねさせ、訝しむように目を向ける。その視線に気付きながらも、奏は爆豪の方を見られなかった。
轟が動く。小さな足音が奏には大きく聞こえた。
「言えねえなら別にいい。お前がオールマイトのなんであろうと、俺は右だけでお前の上を行く。時間取らせたな」
なにも言わない緑谷に対して、轟は特に苛立つ様子もなく、淡々と言ってのけた。開会式前の宣戦布告も、今も、全部、父への憎しみを晴らすためだけの足掛かり。
結果的に出久を利用することになるから律儀に話したのか?自分の復讐のために出久よりも上に行くなんて、説明したところで身勝手であるのは否めないけど。まあなにも知らずに目の敵にされるより、事情知ってるだけ気が楽か……
「僕は……」
緑谷の声だ。控えめで、轟の心情を慮るような躊躇いを含みながら言葉を紡ぐ。声の響き方が変わったから、きっと二人とも通路から出たのだろう。
「ずうっと助けられてきた。さっきだってそうだ……僕は、誰かに救けられてここにいる」
迷いながら言葉を探す様子が音でわかる。ひとりごとのようにも聞こえるそれは、それでも確かに轟に向けられている。
風が流れる音がした。枝を揺らす音が、葉が擦れる音がザァと鳴る。
「オールマイト……彼のようになりたい……そのためには一番になるくらい強くなきゃいけない。君に比べたら些細な動機かもしれない……」
風の音が強くなる。緑谷の声も相俟って、息苦しさから解放される。緑谷の声は、躊躇いを振り払い徐々に強さを帯びていく。芯ができあがっていく。
「でも僕だって負けらんない。僕を救けてくれた人たちに応えるためにも……!さっき受けた宣戦布告、改めて僕からも……」
出久……
それはきっと奏では聞けなかった彼の想い。もう、ただオールマイトに憧れてるだけの出久じゃないんだな。雄英に来て、ヒーローになることが現実味を帯びて……オールマイトのようなヒーローになるための、現実的な道筋を考えている。体育祭はそのための一歩と言っても間違いではない。
「僕も君に勝つ!」
緑谷のまっすぐな言葉が響いて、なぜだか奏は爆豪に言われた言葉を思い出す。似たようなことを言われたからかもしれないし、勝つと言い放った声のトーンも、勢いも爆豪とはまるで違うのに、同じ音に聴こえたからかもしれない。
もしかして出久は、轟くんに同情して勝ちを譲るとか、そういうことを言いかねないと思ったけど、さすがに考えすぎだったな。
轟はなにも言わずに去って行った。しばらくして緑谷もこの場を離れたのだろう。二人分の気配がなくなって、奏は個性で消していた音を解き放つ。しばらくは爆豪も奏も、互いに動かず黙ったままだった。
嫌な沈黙ではなかった。轟と緑谷がこの場を去ったことで得られた開放感と安堵は確かにあった。爆豪もきっと同じようなものを感じていたと思う。ただ、轟の語ったものを呑み下すには互いに少し時間が必要だった。
足元にできた黒い水溜まりは、今ではもう凪いでいる。人が放つ、感情由来の音を深く聴きすぎると、奏はそれに引っ張られることがある。とは言っても、個性をコントロールできなかった頃の話だ。今ではもう、よほどの音量でなければそんなことは滅多にない。
ああいうの久々だったから、ちょっとびっくりしたな。そして疲れた。体育祭終わったら直帰で即寝だなこれは。
奏はゆっくりと背中を壁から離す。いつまでもここにいるわけにもいかない。爆豪はまだトーナメントが残っているのだからきちんと昼食は取らせなければ。
「そろそろ行く?」
「……おー」
奏が尋ねると、爆豪も壁から離れた。そのままなんとなく並んで、なんとなく歩き出す。言葉は少なかった。
思い返すのは、轟の思いを正面から受け止めた緑谷だ。あの一方的で、理解のできなかった宣戦布告を受け止めて、そしてそれに応えた。勝つと、真正面から。
奏はちらりと爆豪を見た。その横顔は静かだ。
自分は爆豪からの宣戦布告を受け止めることも、応えることもできなかった。そういう考えすら浮かばなかった。そうか、だから勝己はあんなふうに苛立って怒ったのかな。
爆豪の言葉の意味を推し量ろうとするばかりで、その気持ちを汲み取ろうとしなかった。悪かったな、と思う。けど自分は今も爆豪に勝ちたいだとか、負かしたいという感情は湧かない。それ以前に自分はもう敗者だ。爆豪とこの体育祭で相見えることはもうない。
勝ちたいも負けたくないもない。けれど。
勝己に応えられる機会を一つ失ったということだけが、惜しいと思ってるんだな、僕は。
昼食を取り、昼休憩が終わると雄英体育祭午後の部が始まる。たとえ最終種目に勝ち進めなくても、全員が一度開会式のときと同じようにフィールドの中央に集められた。
最終種目に進めず、予選落ちした者でも見せ場を作られるように全員参加のレクリエーションが用意されてるらしい。その辺はちゃんと体育祭なんだな。奏もあくびを堪えながらフィールドに入る。客席の脇にはわざわざアメリカから呼んだと言うチアガールたちがこの場を盛り上げていた。
お金かかってんなあ……という感想を抱きながらチアガールを一瞥し、フィールド中央に目を向ける。そこに映る異様な光景に、奏は「ん?」と目を眇めた。
『どーしたA組!?』
どういうわけだがクラスメイトのA組女子全員が、チアガールの格好をしている。格好とは裏腹に全員の表情は暗い。
「上鳴さん!峰田さん!騙しましたわね!?」
八百万が憤慨した様子で、チアガールの必須アイテム、ポンポンを振り上げる。どうやら上鳴と峰田の策略にまんまとはまったらしい。当の二人は本場のチアガールを見て目をぎらつかせていた。
「二人ともよくやるねえ……」
「見ろよ音波!チアガールだぜ!本場の!」
「あの足!へそ!くぅ〜!たまんねえぜ!」
自分たちで騙しておいて、二人が見るのは学校側の呼んだチアガールばかりだ。その様子に苦笑いしながら、奏はフィールド中央に並ぶ。
他のクラスの生徒たちもゾロゾロと集まりだして、場が落ち着くまでの繋ぎをマイクが務める。
『さァさァみんな楽しく競えよレクリエーション!それが終われば最終種目!進出四チーム、総勢十六名からなるトーナメント形式!一対一のガチバトルだ!』
フィールド内に立っている奏たちよりも先に、観客席が沸き上がった。午後も熱気は冷めず、それどころか上昇している気がする。けどまあ当然か、スカウトする側からすれば一対一でより個人の実力が見られる機会だもんな。
客席に目を向ける奏の前で、噛み締めるように少し掠れた声で言ったのは切島だ。
「毎年テレビで観てた舞台に立つんだぁ……!」
「去年トーナメントだっけ」
「形式は違ったりするけど例年サシで競ってるよ」
芦戸の投げかけに瀬呂が答える。去年はスポーツチャンバラだった。それに比べれば今年はまさに王道な競い方だ。
生徒たちが揃ったのを見計らって、ステージ上からミッドナイトが呼びかける。
「それじゃあ組み合わせ決めのくじ引きしちゃうわよ。組が決まったらレクリエーションを挟んで開始になります!」
レクリエーションに関しては、最終種目進出者の参加は本人の意思に委ねるとのこと。レクで息抜きをしてもいいし、体力を温存してもいい。
レクリエーションか、なんの競技があるんだろうな。玉入れとかがあればいいな。
そんなことを考えながら進行を待つ。一位チームから順にくじを引きに来るようにと、ミッドナイトが指示を出したときだった。
スッと、誰かが静かに手を挙げた。
「あの……!すみません」
この声は尾白だ。奏の斜め前に立っていた彼は、うつむき気味に短く言う。
「俺、辞退します」
硬い声が紡いだ言葉に周囲はざわめき、奏も目を丸くした。みんなの視線が一斉に尾白に向く。尾白は顔を上げず、目線を斜め下に落とすようにしたままでいる。
「尾白くん!なんで……!?折角プロに見てもらえる場なのに!」
緑谷が当然の疑問をぶつけた。尾白はこの選択が正しいと思いながらも、迷いがあるような表情で答える。
「騎馬戦の記憶……終盤ギリギリまでほぼボンヤリとしかないんだ。多分、やつの個性で……」
記憶がない?奏は眉を寄せる。確か尾白が組んでいたのは……青山と、B組の生徒、それに普通科の例の人だったはずだ。中々に珍しい組み合わせだったからよく覚えている。
奏はちらりと普通科の――心操の方を見た。奏の視線に気付かないのか、彼は両手をズボンのポケットに入れたままこちらを見ようともしない。
記憶がないって、どんな個性だ?操られてた……ってことか?
クラスメイトたちがざわめく中で、誰よりも冷静な声で、尾白が話を始めた。奏も視線を戻す。
「チャンスの場だってのはわかってる。それをフイにするなんて愚かなことだってのも……!」
「尾白くん……」
尾白は静かに右手を握り締めた。そしてその拳を見つめて、迷いを振り払うように強く言う。
「でもさ!みんなが力を出し合い争ってきた座なんだ。こんな……こんなわけわかんないままそこに並ぶなんて……俺はできない」
言葉は至って冷静だった。口調も語気も、いつもの優しい彼のまま。けどだからこそ尾白の誠実さと決意がひしひしと伝わってくる。まっすぐで、気高い決意。
「気にしすぎだよ!本戦でちゃんと成果を出せばいいんだよ!」
「そんなん言ったら私だって全然だよ!?」
「違うんだ……!俺のプライドの話さ……俺が嫌なんだ。あとなんで君らチアの格好してるんだ……!」
励ますように声をかける葉隠と芦戸に、尾白は目元を押さえながら答えた。気にしすぎだとは思う。こんな形でなくとも、尾白が本戦まで進めていた可能性は十分にあり得るのだから。けどプライドの話だと言った。そしたらもう、奏にも他の誰にもなにも言えなくなってしまう。
不測の事態に周囲がざわめきを落ち着けられないまま、再び声が上がった。B組の方からだ。
「僕も同様の理由から棄権したい!実力如何以前に……なにもしてない者が上がるのは、この体育祭の趣旨と相反するのではないだろうか!」
そう言うのはB組の、騎馬戦で尾白と同じチームだった男子生徒だ。彼も記憶がないのだろう。そうするともしかして青山くんもか?もしそうなら三人まとめて操って騎馬戦勝ち抜いたことになる。相当な個性だな。
「なんだこいつら……!男らしいな!」
「だね……」
目尻に涙を浮かべながら、二人の姿勢に胸を打たれた切島が声を上げる。奏も小さくそれに同意した。辞退を認められるか否かは主審のミッドナイトの采配によるらしい。彼女はピシャン!と鞭を一振りして打ち鳴らすと「そういう青臭い話は好み」らしく二人の棄権を認めた。
雄英って校則もそんなに厳しくないし、自由が売りとはよく言うけど、こういうとき一番理解するよね。雄英教師の姿を見てると本当に自由なんだなってさ。
「そうなると……」
ミッドナイトは一度A組とB組の生徒たちを見回した。その際にパチリと奏と目が合う。
「繰り上がりは同点五位の音波チーム、拳藤チームだけど……」
え。
奏は一人、大きく瞬きをした。そうか繰り上がり。B組の人たちと同点五位で棄権が二人なら各チームから一人ずつ、本戦への進出資格がもらえることになる。なんてこった。これは予想外だぞ。
「そういう話でくるんなら……ほぼ動けなかった私らよりアレだよな?な?」
髪を左サイドで一つにまとめたB組の女子生徒が、クラスメイトたちに確認をしながら頷き合う。彼女が拳藤さんか。
彼女は惜しみもなく、さっぱりとした口調で言う。
「最後まで頑張って上位キープしてた、鉄哲チームじゃね?馴れ合いとかじゃなくさ、フツーに」
「お……おめぇらぁ!!」
拳藤の申し出に、鉄哲と呼ばれた男子生徒が男泣く。彼を見ながら苦笑いをしていた拳藤が、ひょこりと顔を出して奏の方を見た。
「そういうわけで……ウチらの分の一枠はこっちのチームから出すよ。本当なら二枠ともそっちに譲るべきなのかもしれないけど……悪いね」
「いや、君たちの権利だから、僕らに断りはいらないよ」
奏も微笑み、軽く手を挙げて返す。なんだ、B組、いいクラスみたいだな。寧人が上手くやれてるかは心配だけど……いや、今はあいつのことより自分のことか。
奏はくるりと体の向きを変える。すでに障子、蛙吹、峰田の三人は集まっていた。
「さてじゃあ……まさかの事態だけど、僕らはどうしようか。ジャンケンかくじ引きか――」
「音波」
奏の言葉を遮ったのは障子だった。彼は蛙吹、峰田と目を合わせて、それぞれと頷き合う。そして最後に奏と真正面から目を合わせた。
「音波、お前が出ろ」
「――え」
その一言に、奏の表情が抜け落ちる。微かに持ち上げていた口角は下がり、細められていた目は瞬きを忘れて睫毛が震えた。
「……いや、いやいやいや、ジャンケンしようよ。あ、くじ引きがいい?」
眉を下げながらも口角を持ち上げて、奏は茶化すように障子の言葉を流そうとする。それを他の誰でもない障子自身が堰き止めた。
「騎馬戦の最後……あの状況から、あのメンツを相手にハチマキを奪えたのはお前の采配があったからだ」
「これは私たち三人の総意よ」
「今回ばかりは譲ってやらぁ!」
三人が揃って奏を見る。その視線に一瞬たじろぎながらも、奏は喉の奥から言葉を引っ張り出す。
「三人の気持ちは嬉しいけど……そもそもが僕のミスだったし…それに」
それに、きっと自分よりも三人の誰かが出た方が相応しい。
そうとは言えず、口を閉ざして拳を握り締めた。蛙吹は奏一人のミスではないと言ってくれたけど、やはり戦犯は自分だ。
みんなにはある熱が、僕にはない。この体育祭でそれを改めて突きつけられたような気がした。熱の有無が正誤を決めるわけではない。頭ではわかっている。周りに触発されてそれらしく立ち振る舞うだけで、根本的に自分は欠陥している。そんな自分が繰り上がりで本戦に進むのは間違っている。
「やっぱり僕は……」
「音波ちゃん。あなたは自分のミスだと言うけれど、そもそもあなたがいなければ私たちにこのチャンスも巡ってこなかったわ」
今度は蛙吹が奏の言葉を遮って強く言った。その言葉につられるように、下げていた視線が上がる。蛙吹も障子も峰田も、まっすぐに奏を見る。こんなときなのに、そういえば三人は誰かと話すときに目を逸らしたりしないなと気付く。
「俺たちはお前が本戦に進むべきだと思う」
「他の誰でもない。私たちはあなたが相応しいと判断した」
「行けよ音波!そんで優勝してオイラに美人紹介しろ!」
三人がそれぞれ力強い言葉を奏に向ける。自分にはクラスメイトたちにある熱がないから、ないからこそわかる。この三人の決断が、意思が、どれだけ尊いか。
この場でみんなトップを狙って戦っている。チャンスを掴もうとしている。それなのにそれを自分に差し出せる、勇気とも言える高潔さ。
自分が相応しくないからと繰り上がりを蹴るのはただの逃げだ。自分で自分を認められないから。これ以上周りとの温度差を自覚したくないから。だから誰かにと楽な方に走ろうとしている。けど三人のそれは自分のものは違うとわかる。逃げじゃない。葛藤の上に積み上げられた決断だ。いいのか?それを、逃げ出すために踏み躙っていいのか?
相応しくないなら、認めてくれた三人の評価に相応しい人間であるように挑むべきじゃないのか。
みんなにあるものが、僕にはない。勝ちたいもない、負けたくないもない。でも並び立ちたいと思ったあのときの感情は嘘じゃない。なら、それなら。
「――三人とも、ありがとう」
気を抜くと言い訳じみた言葉が意味もなくあふれてしまいそうだった。
並びたいと思った。応えたいと思った。一度は引いたはずの感情が押し寄せてくる。
「出るよ。トーナメント」
短く伝えた一言に、三人の表情が明るくなった。
「そうでなければ」
「ケロ!」
「優勝だぞ!」
障子が頷き、蛙吹は微笑み、峰田が握った拳を突き上げた。
こうありたいと思う姿がある。そうあるために与えられたチャンスを無駄にしない。その覚悟を見失わないように、奏は右手を強く握った。決意と呼ぶには大袈裟で、けれど確かな一歩として。
38:はじめの一歩
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