残響ユートピア47






 拍手が鳴り止むよりも先に、奏は立ち上がった。立ち上がると爆発により狂った視覚と聴覚がまだ万全ではないのか立ち眩む。それを堪えて、破損の大きいステージを見下ろす。

「音波くん?」
「……医務室に行ってくる」

 飯田と麗日が自分を見上げたことがわかっていた。けど二人の方を上手く見られなくて、口から出た声は自分で思う以上に硬い。

「デクくんとこ?私も!」
「俺も行こう」

 二人の言葉を背中で聞きながら、奏は足早に観客席を抜けた。きつく握り込んだ拳を開けないまま。意識して握る拳に力を入れていないと走り出してしまいそうだった。
 室内に入ると日の光が入らなくなった。その分目に映るものの彩度が失われて、空気が冷える。逸る心臓を抑えるように足を進める。後ろから聞こえる足音はいつの間にか増えていた。

「緑谷ぁ〜、大丈夫かよあいつ〜……」
「それを今から確かめに行くのよ」

 峰田と蛙吹も加わり、音が増した通路は長く感じた。医務室なんてそう遠くもないはずなのに。その距離が、一歩がもどかしかった。
 リカバリーガール出張保健所、というファンシーでポップな書体の、まるで幼稚園児に向けた描かれたかのような入口の看板が見えて、麗日たちが奏を追い越して駆け寄っていく。奏は努めて、歩く速度を速めないようにした。

「デクくん!」
「緑谷くん!」

 扉を開けると同時に名前を呼ぶ声がいくつも重なっている。その声に乗っているのは純粋な心配からだとわかる。そこにもし自分のものが混ざっていたら、それはみんなと同じ色をしたものだっただろうか。きっと違うと思った。
 誰よりも最初に立ち上がったのに、誰よりも遅く医務室に足を踏み入れる。
 簡易的な医務室の造り、真っ白なベッドが二つ並び、空間を仕切るための薄桃色のカーテン。そのベッドの一つの上で、緑谷は仰向けに寝転んでいた。上半身を起こした状態で体を預けられるように角度のついたベッドの上、緑谷は上半身裸で両腕に包帯を巻かれて動かせないように固定されている。顔色は汗と血、それから砂埃で汚れていた。
 緑谷のそばにはリカバリーガールと、見たことのない男性がいた。体に合っていないぶかぶかのスーツを見に纏い、蛍光灯の光を受けて鈍く光る金髪。目は窪み頬は痩け、骸骨を彷彿とさせる。けど今は知らない誰かがいようが、そんなことはどうだってよかった。握り締めていた手から、ふっと力が抜ける。

「みんな……次の試合……は」
「ステージ大崩壊のため、しばらく補修タイムだそうだ」

 緑谷の掠れた声に、飯田が簡潔に答える。麗日は眉を下げて緑谷の怪我を心配そうに見ていた。
 その横で、峰田が眉を寄せながら小さな手で緑谷を指差す。その表情は暗い、と言うよりは先ほどの試合に引いているようだった。

「怖かったぜ緑谷ぁ。あれじゃプロも欲しがんねーよ」
「塩塗りこんでいくスタイル感心しないわ」
「でもそうじゃんか」

 峰田を、蛙吹が舌で刺しながら嗜める。緑谷は反応を返すのももはや辛いのか、ゆっくりと瞬きをひとつだけ返した。その姿を見て、胸の奥が焼け焦げるように痛いのに、まだ冷静さを残している部分が痛みを抑え込む。

「うるさいよホラ!心配するのはいいがこれから手術さね!」
「「シュジュツーー!?」」

 リカバリーガールの言葉に飯田たちが大きく驚く。その声を背中で聞きながら、奏は緑谷の枕元に立った。奏の影が、緑谷の顔に落ちる。

「……かなちゃん……」

 まだ血の滲む唇の端から、緑谷が奏の名前を呼んだ。目が上手く合わせられない。視界には緑谷しかいないのに。緑谷のことが見られない。静かに息を吸った。バレないように腹に力を込める。

「……言いたいことは、色々あるけど」

 落とした声が震えていなくて良かった。代わりに硬く冷えた声になったけれど、それくらい許せと思った。緑谷が自分を見上げている。なのに自分は上手く緑谷を見られない。どんな顔をしているのかもわからない。どんな顔でいればいいのかもわからない。それでもどうにか、煮えたぎるような感情を理性で抑え込んで言葉を紡ぐ。

「……後にする、ちゃんと治してもらえよ」

 奏の言葉に、緑谷が頷いたのかわからなかった。奏はすぐに背を向けて、飯田たちと合流する。リカバリーガールに背中を押されて、部屋を出る。扉が閉まる直前まで、麗日たちは励ましの言葉を緑谷に掛けていた。手術と聞いた飯田は緑谷にエールを送るように大きく腕を振る。奏は背中を向けたまま、扉が閉まる音を聞いた。




「デクくん大丈夫かなあ」
「うむ……まさか手術になるとは」

 麗日と飯田の後ろを歩く。医務室を出てどのくらい歩いたのか、あとどれくらいで会場に辿り着くのかもわからない。
 手術になる、と言ったリカバリーガールの言葉に嘘はないとわかった。最大限の治療を、あの保険医ならしてくれるだろうとわかっている。でも、それはどんな気持ちで。
 事故でも病気でもなく、自らが自らの意思で壊した体の手当をさせられる。それってどんな気持ちなんだろう。少なくとも良いものじゃないと思う。今の自分が抱えているような、やるせなさと歯痒さと不快感をごちゃ混ぜにしたようなものじゃないか。
 足が重い。今すぐに振り払いたいのに、感情のやり場がない。言いたいことなら山ほどあった。言うつもりだった。リカバリーガールがいようと飯田や麗日がいようと、全部ひっくり返してぶち撒けて、全部ぶつけて楽になりたかった。それなのに自分の理性はそれを止めた。それでいい。それでいいはずだ。感情よりも理性で動ける。そういう自分を求めて、望んで形作って生きてきたのだから、間違いはない。
 感情に振り回されない。自分はそれができる。それなのに、腹の奥で渦巻く昏いものが晴れてくれない。

「音波ちゃん、大丈夫?」

 不意に、横から声が掛かる。蛙吹が黒々とした大きな目で奏を見上げていた。反射的に口角が緩やかに持ち上がる。

「大丈夫だよ。ありがとう梅雨ちゃん」
「ケロ……ならいいのだけど」

 なにを大丈夫と問われたのかわからなかった。わからなかったけど掘り下げたくなくて、触れられたくなくてわかったふりをする。蛙吹からの音はきちんと奏に向けられている。心配してくれているのも音でわかる。それはわかるのに、今の奏にそれを受け止めるだけの余裕がなかった。
 
「俺はここで」

 前を歩く飯田が、ピタリと足を止める。奏たちの視線を受けながら、飯田は真面目な表情ですぐ近くにある扉へ視線を向けた。

「このまま控え室にいようと思う」
「そっか、次の試合は飯田くんと……」

 麗日の視線が奏に向けられた。自然と蛙吹と峰田の視線も奏に向く。二回戦第二試合、次の対戦カードは飯田と奏。今は補修中のステージが直れば、二人の試合はすぐに始まるだろう。
 そうか、試合か。じゃあ僕もこのまま控え室に向かおうかな。
 どこか靄がかった頭で、ぼんやりとそう思う。重たい感情がぐるぐると腹の底で滞留していて、上手く現実に意識が向かない。いつもとは違う剥離の感覚。
 飯田はゆっくりと眼鏡のブリッジを押し上げた。そのレンズ越しに、正面から奏を見据える。

「音波くん」

 声にはどこか硬さがあった。それは奏が緑谷に向けたような、外側の硬さよりも内側の、芯の強さが表れたようなものだった。

「先の試合のことと……緑谷くんの手術のことを考えれば、互いに思うことはあるだろう」

 奏は黙って飯田の言葉を聞いた。普段なら相槌のひとつくらい返せたはずだが、それさえも上手く紡げなかった。剥離した感覚のせいで、思考と挙動が上手く反映されない。
 奏の反応を窺いながらも、飯田は言葉を続けていく。

「君の心中は察する。だが……俺は全力でいく」
「……!」

 飯田の目はどこまでもまっすぐに、奏だけを映していた。そこでようやく、奏の焦点が飯田に合う。
 意思を強く宿した瞳と、正面から向き合う気概。剥離していた思考と身体が、飯田の声に強く引っ張り上げられる。そうして思考と身体が完全に一致した奏に、飯田はより強い言葉で言った。
 
「俺は君に勝つぞ」

 そのたった一言が眩くて、体温が上がる。重たかった足が、振り払いたかった緑谷への感情の中を、飯田への感情が吹き抜けていく。
 自分の心音が一音一音、まるで息を吹き返したように強く鳴る。高揚していると自分でわかる。
 思えば、この体育祭が始まってずっと……僕は飯田くんに触発されてばっかりだな。

「やっぱり飯田くんって最高だ……」
「ん?なんの話だ?」
「いやごめん、こっちの話」

 首を傾げる飯田に、ふっと息が漏れるように笑みを浮かべる。反射的に返すものではなく、自分がそうしたいと思って、感情を唇の端に乗せる。
 今度は奏が正面から飯田を見据えた。

「僕も君に勝ちにいくよ。全力を尽くして」
「……!ああ!」

 互いに不敵に笑い合う。緑谷のことを思い出すと胸の奥がいまだに燻っている。それでも今目の前にいる友人を思うと、燻りが薄れて胸が弾む。その感覚だけを、今は追いかけていたかった。



▽▲▽



『さ〜て、ステージの補修も済んで!再開するぜ二回戦!』

 プレゼント・マイクの言葉に呼応して、観客席が沸き立った。セメントスの個性によりステージはすっかり元通りになり、そのステージ上で相対するのは飯田天哉と音波奏。
 奏は薄く微笑んで、「よろしく」と一言飯田に告げた。轟と緑谷の試合から、奏の様子がおかしいことに気付いていた飯田は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべる奏に、表には出さずに安心した。
 この体育祭で、挑みたいと思っていたのは緑谷だけじゃない。互いに万全の状態で、奏にも挑みたかった。

『そんじゃあいくぜ!飯田天哉VS音波奏……スタート!』

 開始同時に飯田のふくらはぎのマフラーが震え、エンジン音が空を裂く。迷う素振りも見せず、一直線に奏へと向かっていく。

『飯田!開始同時にスタートダッシュ!先手を取る気かあ!?』

 音を操る個性……!音波くんの不可視の攻撃……!音波くんの個性の情報は少ない。ならば先手必勝。彼が攻撃を仕掛ける前に攻め切る!
 迫る飯田を見て、奏はその場から動かずに、右足を強く踏み鳴らす。するとそこを起点に、ステージに亀裂が入り、飯田の進行上の地面が隆起した。
 飯田は冷静に距離とタイミングを測り、走る勢いのまま踏み切って高く飛んだ。どこからか「立ち幅跳び!」という歓声が揚がる。隆起した地面を軽々と飛び越える。空中で奏と目が合った。鋭い目つきで、奏が両手を打ち鳴らそうと空中の飯田に向けて構える。
 訓練と、ここまでの戦いを見るに、音波くんは個性を使用する際、必ずなんらかのアクションを起こす。地面に超音波を放つ際には足で地面を踏み鳴らし、催眠波や攻撃力のある超音波を放つときには指を鳴らすか手を打ち鳴らす!だからその手を!

「レシプロバースト!」
「!」

 蹴り落とす!
 エンジンの回転数を上げると、ひときわ強くマフラーが震え、エンジン音が低く唸るように鳴る。加速した勢いのまま身を捻り、着地に合わせて奏の両手を蹴り付ける。

「っ……!」
 
 鈍い音と確かな感触。蹴り付けられた衝撃で奏が体勢を崩した。その隙を見逃さない。
 

『僕からすれば、飯田くんが委員長になってたら、それは十分"正しい"ことだったと思うよ』
『君はちゃんとA組の委員長だよ』


 飯田の脳裏に、奏から貰ってきた言葉が蘇る。奏から貰った言葉はいつも飯田の胸の奥を温めてきた。信頼と呼べるような、丸みを帯びた、握ると少し冷たいけれどすべすべとした、手に馴染む綺麗な石を貰ったような気持ちになった。それらを噛み締め、今この試合に臨んでいる。
 何度君から身に余る言葉を貰ったか……だからこそ勝つ!君に貰った言葉に相応しい人間になるために!!
 飯田は着地した足で踏み切り、体を回転させる勢いでさらに加速した蹴りで奏の後頭部を狙う。
 レシプロバーストを使ってエンジンが止まるまでに約十秒ある!その間に……!

「決める!」
「っぐっ!」

 先ほどよりも強く攻撃が入り、奏が短く呻いた。蹴られた衝撃で体を沈ませる奏の背中部分のジャージを掴んで引っ張る。

「すげえ!速すぎだろあの蹴り!」
「だいぶ重そうなの入ったぞ!」

 勝利が近付いていることを理解した脳が、心臓を逸らせる。エンジン音と自分の心音が入り混じってぐちゃぐちゃだった。でも思考は回っている。
 あと八秒!行ける!このまま場外へ投げ飛ばせば――

「ゲホ……さすがだね、飯田くん」

 引きずられて、されるがままの奏が焦る様子もなく静かに切り出した。
 その声が窮地に立たされているとは思えないほど穏やかで、いつも通りだったから、飯田は背筋が寒くなる。
 
「でも……」

 思わず肩越しに奏を振り返る。されるがままの奏も、肩越しに飯田を見た。目が合う。いつもの声色のまま、穏やかな口調のまま、でも奏の顔にいつもの笑みはなかった。

「――僕にもあるんだ。まだ誰にも言ってない裏技」

 奏が言い切るのと同時に、全身に痺れが走った。ガクンと膝が落ち、走ることができずにそのまま地面を転がる。手にも力が入らなくて、奏も飯田が転んだ勢いでステージに放り出された。

『飯田転倒ーー!?折角のチャンスにどうした!?足がもつれたか!?』
『いや……これは……』

 勝利目前に大きく転んだ飯田に実況席もざわつく。足がもつれた?なにかに躓いた?そんなはずはなかった。急に全身の自由が効かなくなった。今も体に力が入らない。ただ地面に這いつくばっているしかできない。心臓が急速に冷える。

「いてて……レシプロ……警戒してたんだけどね。いざ目の前にすると避けられないね。凄いや」

 奏が左手で頭を押さえながらゆっくりと起き上がる。わずかにふらつきながらも立ち上がった奏は飯田を見た。飯田も目だけを動かして、自分に近付く奏を見た。プスン、と音を立ててマフラーの振動が止まる。黒煙だけが狼煙のように上がっていた。

「僕が個性を使うとき……必ず音を出すモーションを挟んでたの、気付いてた?だから最初に手を狙った……さすがだよ飯田くん。正直、もうしばらくは隠せると思ってた」

 奏はいつも通りだった。口元に笑みを湛えて、穏やかな口調で話す。
 真っ青な空を背負った奏が、一歩飯田に近付く。だらりとおろしたままの右腕には血が滴っていた。飯田の最初の蹴りが効いているのか上手く動かせないようだった。

「僕の個性……超音波は、僕自身を発音体として音波を操る。でもさ、別に手を叩いたりしなくたって、人間生きてるだけでうるさいんだよ」

 奏の声と、自分の心音が混ざってぐちゃぐちゃだ。右耳を下にして横たわっているからか、地面を伝って奏の足音や会場の音が直接脳に響くようだった。奏の右腕から真っ赤な血が地面に滴り落ちる音まで拾えた。周囲の音と、奏の声と、奏の出す音、それから自分の呼吸や心臓の音がうるさくて、どれがどの音なのか段々とわからなくなってくる。それは思考を掻き乱して、飯田から冷静さを奪っていく。

「っ、なにを……!」
「手を叩くなり、指を鳴らすなりして、動作を介して出した音の方が操りやすいから、いつもはそうしてる」

 奏は一度だけ視線を上げて観客席の方を見た。なにを見たのか、その動作に意味があるのかはわからなかった。

「飯田くんみたいに賢い人は僕のモーションに気付くだろうから、狙いを誘導できるっていうのもあったけどね」

 奏が飯田と目を合わせて、にこりと笑った。
 エンストしてから一分は動けない……!音波くんが喋り続ける理由はわからないが、エンジンがかかればまだ勝機はある!体の痺れが抜ければ……!
 心音が強く鳴る。けれど思考は回っている。いまだに体は動かせない。段々と思考がクリアになっていく。体が動けば、エンジンがかかれば。

「本当は必要ないんだ。個性を使うのにモーションなんて。声だけで、心音だけで僕は個性を使えるから」

 奏の声がよく聞こえた。自分の心臓の音も。それ以外の音がわからなくなるくらいに。そこまで自覚して、息を呑む。わからないんじゃない。奏の声と、自分の心音、それ以外の音が聞こえない。
 ドッ、と汗か噴き出して心音が痛いくらいに鳴る。目だけを忙しなく動かした。辛うじて視界に入る観客席。誰かしらが口を動かしているのが見えるのに、あれだけの歓声が聞こえていたのに、今はそれらがひとつも聞こえない。奏の腕から血が滴り落ちる。その音ももう聞こえない。地面はただ冷たく、横たわる飯田の体を支えるだけだ。

「それじゃあ、飯田くん」

 教室で見せる、いつもの微笑み。別れ際の挨拶のように、奏は短く、けれど丁寧に言葉を紡いだ。

「"おやすみ"」

 その言葉を最後に、瞼が耐えられないほど重くなる。目を閉じる瞬間に、兄の顔を思い出す。兄さん、と動かした唇からその言葉を紡げたのかはわからない。視界が真っ暗になる頃には、すべての音が遠ざかって、なにも聞こえなくなった。



▽▲▽



「飯田くん、行動不能!三回戦進出音波くん!」
 
 主審であるミッドナイトの宣言が揚がると、一気に観客席が沸いた。奏が視線を落とすと、飯田は洟提灯を膨らませて眠っている。

「音波くん、リカバリーガールに出血を止めてもらいなさい。医務室まで行ける?」
「はい、大丈夫です」

 ミッドナイトに声をかけられて、奏は小さく頭を下げてからステージを降りようと踵を返した。足を踏み出すと、ぐらりと視界が揺れたが、踏ん張ってそれを耐える。そして誰にもばれないようにぎゅっと顔の中心にしわを寄せて表情を歪めた。
 飯田くんに頭蹴られたところがかなり痛い……!ぐっと唇を噛んで、視界が落ち着いたところで歩き出し、医務室に向かう。
 左腕は動かせるが、右手にはほとんど力が入らない。おまけに出血も止まらない。動かせる左手で後頭部に手をやると、ぬるりと生温かいものに触れた。手のひらを見るとべたりと血がついている。
 こりゃ痛いはずだ……個性使うと体が振動するから出血止まりづらくなるしそのせいで腕の出血も止まらない。モーションなしに個性使うと体への負荷が大きくなるから普段はモーション挟むんだけど……仕方ない。使わないと勝てなかったし。
 廊下に血を垂らさないように、ハンカチを使って左手で傷を押さえる。
 そんなに傷は深くないから、個性使わなきゃすぐ止まっただろうな……あ〜痛え〜〜……!
 痛みを誤魔化すために、少しでも気を紛らわせるために奏はなにかを考え続けようと頭を回す。
 本当はノーモーションで個性発動できること、もう少し隠せると思ってたな〜、まあいいか……知られたら知られたで戦いようはあるし……ていうか飯田くんのレシプロ速すぎるよ……あんなの早々避けられる人いないだろ……あ〜反射神経にはそこそこ自信あったのにな〜。次の試合は誰だっけ……?え〜っと……?芦田さんと常闇くんか……?
 思考を一転二転させながら、どうにか痛みをやり過ごす。出張保健所のファンシーな看板が見えるとホッとして、それを嘲笑うように誤魔化していた痛みが一層強くなった。
 あと少し、と足を進めると、不意に医務室の扉が開いた。「失礼しました」という聞き覚えのある声がして、思わず足を止める。扉の影から見覚えのある姿が出てくる。その姿が視界に入ると、痛みがどこかへ消えた。代わりに、忘れられていたはずの燻りが熱を持つ。

「……!かなちゃん……」
「……出久」

 忘れられていた熱を思い出してしまったなら、もうそれから目を逸らすことは無理だと思った。




47:火のないところに煙は
 
 


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