残響ユートピア49






 あの試合を見て、心の内を最初に塗り潰したのは赤色だった。真っ赤に染まって、徐々に炙られたように黒を纏うその感情は、きっと怒りだった。
 掻き毟りたくなるような、爪を立てたくなるような、衝動的な怒り。観覧席から観ているときはそれだけだった。いや、違うかもしれない。怒りの感情ばかりが今こうして残っているだけで、あのときはもっと、もっと複雑な色が混ざり合っていた。でもそれは結局、最後には混ざり合って黒になる。
 ベッドで動けない緑谷を目にしたときには、その黒の温度を知った。体の中心では吐き出したくなるほど熱く燃えているのに、体の表面では恐ろしく冷えていた。もうぐちゃぐちゃだ。熱いのに冷たくて、脳と心はしっちゃかめっちゃかで。
 どうするべきだっただろうか。最初に、試合前にもっと釘を刺しておくべきだったか?それとも褒めればよかった?いつもみたいに頭を撫でて、頑張ったねと。すぐに違うと頭を振る。あれは、あの試合だけは絶対に、間違っても褒めちゃいけない。それだけははっきりしている。こんな激情を緑谷に向けるのは初めてだった。



 目が合って、そのまま数秒見つめ合う。静まり返った通路の静寂を破ったのは緑谷だった。

「かっ、かなちゃん!?どうしたのその怪我!」

 ワッ、と捲し立てた勢いとは裏腹に、顔を青くした緑谷は見開いた目を白黒させながら奏に駆け寄る。その足取りはふらついていて、中途半端に開いたままの医務室の扉がキィと高い音を立てた。
 
「流血!?なんで……!あっ!試合で!?」

 ワタワタと奏の正面で怪我の具合に驚く緑谷に、奏は心の底から苛立った。この感情を緑谷に向けるのも初めてかもしれない。奏は低い声で言う。

「人の心配してる場合か……!?」
「ヒッ」

 奏の怒気を感じ取った緑谷は、肩を振るわせた高い声を漏らした。
 緑谷の右腕は包帯と器具で固定されていた。それだけではなく左腕も固定こそされていないものの包帯が幾重にも巻かれている。胸にも巻かれた包帯と、ジャージの裾を捲り上げた左足にはギプス。左頬は大きなガーゼで覆われて、辛うじて肩からジャージの上着を羽織っていた。リカバリーガールの個性と手術を以てしても、この有り様。
 腕と頭部から多少の流血はあるものの、奏よりもずっと緑谷の方が重症だ。
 奏の気迫に、緑谷が一歩後ずさる。

「……言いたいことが山ほどある」
「っ……うん……」

 奏は右腕を押さえていたハンカチを外して、そのまま強く握り締めた。まだ血は滲んでいるが、滴るほどではない。そのことを視線だけで確認してから、奏は正面から緑谷を見据えた。

「あんな戦い方はもうやめろ」

 奏の言葉に、緑谷が身を硬くするのがわかった。一度抑え込んでいた言葉を発してしまうともう駄目だった。心の内側が真っ赤に染まる。燻っていた熱が温度を上げる。それでもどうにか冷静にと理性を働かせた。

「戦闘訓練のときも……今回も、自分ぶっ壊すような戦い方をして……あれで勝っていたとして、今その状態なら次の試合には出られなかった。相澤先生だって最初に言ってだろ。一人救けて終わりじゃない」
「っ……」

 緑谷が閉じたままの唇を噛む。反論する気はないのか、黙って奏の言葉を聞くつもりらしい。それがわかったから、奏は言葉を続けた。

「……三回しかないチャンスだ。焦るのはわかる。でも限度があるだろ。試合前に、僕が体育祭だって言った意味がわかってるか?体育祭で、学校の行事で身を滅ぼすなって意味だよ」

 結局あの言葉は緑谷に届かなかったのだろう。遠回しだった自覚はあるが、あそこまでになるとは思わなかった。
 緑谷は唇を噛んだまま目を伏せる。叱られた子供のような表情を見ても胸は痛まない。燻ったままの感情から出た黒煙が身の内を黒く染める。次第に火がついて焦げ付くような痛みが胸を這う。

「毎回……なにかある度にそんな大怪我して……」

 声に憂いが滲んでしまった。それを嫌だなと思いながらも口を閉ざしておけない。奏はハンカチを握ったままの手で、ぐしゃりと前髪を崩した。下がった視線には自分の影しか映らない。

「このままじゃ卒業まで持たないだろ……!」

 ヒーローになって欲しい。ここまで来たなら。ちゃんと、将来活躍して、民衆に愛されて応援されて求められるヒーローに。その素質があると知っている。けれど素質があったって、結局ヒーローの資本は肉体だ。怪我ばかりを繰り返して、いつか取り返しのつかない怪我を負ったらどうなる。その瞬間に、積み上げてきたものが崩れてなんの形も成さなくなったら。
 
「かなちゃん……」

 緑谷が呼ぶ声は、夜のさざなみのように静かで消え入りそうだった。浜辺に作った砂の城を壊さないように、細心の注意を払って寄せては返していく波のような声が癪に触る。

「……轟くんと戦ってるとき、なに考えた?」

 前髪を崩したまま、緑谷に目を向けられないまま問う。緑谷が喉を震わせたのがわかった。

「勝ちたいだけじゃなかっただろ」
「っ」

 あの試合で、緑谷の中にあったのは勝利だけじゃなかった。十年近い付き合いだ。それくらいわかる。わかってしまう。
 昼に轟が告白した自身の背景、それを聞いた緑谷がなにを思うかなんて。

「轟くんが半分の力しか使わないのが腹立ったか?それとも哀れんだか?それとも……」

 勝ちたい気持ちに嘘はなかった。それもわかる。半分の力しか使わないのに腹が立つのも、悔しく思うのもわかる。それだけならまだよかった。でも違う。あのとき出久は、本人に自覚がなかったとしても、頭の片隅にあっただけのものかもしれなくても、轟くんを救おうとしていた。
 そのことにこんなに腹が立つなんて。

「煽って、自滅するような戦い方しかできなくて。その結果がこれか?」

 ずっと責めるような口調になってしまっている。怒りをぶつけるのは違うとわかるのに、叱って、諭すべきだ。あの戦い方を、もうやめろと言いたいだけだ。わかって欲しいだけだ。
 できるはずだ自分なら。理性と感情を切り分けられるはずなのに。それなのに緑谷を前にすると上手くいかない。
 奏は前髪を崩した手に力を入れる。

「だとしたら笑えない……!他人のことばっかり気にして……!お前……お前は、笑って期待に応えられるような人になりたいなんて言ってたけど……!」

 出血のせいか、声を荒らげると視界がくらりと揺れた気がした。それすらも煩わしい。怪我の痛みよりずっと、焦げついた胸の奥が痛い。
 奏は顔を上げて緑谷を見た。一瞬、緑谷が怯む。

「お前が笑ってたって!僕らは笑えねえよ!」

 通路に反響する自分の声は必死だった。静かに目を見開く緑谷を見て、言いたかったことを伝えて、少しだけ溜飲が下がる。声を張ると、また視界が揺れた。
 キュ、と靴底が鳴って、緑谷が控えめに奏の方に手を伸ばす。

「か、かなちゃん……」
 
 包帯で覆われたその手が、奏に届くのを遮るように、緑谷の背後でバンッ!と大きな音が響いた。奏と緑谷の肩が揃ってビクリと跳ねる。

「うるさいよアンタ達!」
「わっ!?」
「リカバリーガール……」

 大きく音を立てて開いた扉から現れたのは、眉をつり上げたリカバリーガールだった。彼女は注射器の形を模した杖を振り上げて嗄れた声を張る。

「部屋の前で喧嘩するんじゃないよ!アンタは治癒を受けに来たんじゃないのかい!?」
「はい……」
「すみません……」
「まだ次の試合もあるだろうに!さっさとお入り!」

 二人揃って小さくなりながら頭を下げれば、リカバリーガールは「まったく」と呆れ混じりに小言をこぼしながら杖をついて中へ戻っていく。奏もあとに続いて医務室に入ろうとした。
 扉の前で、外に出ようとする男性とすれ違う。金髪の、骸骨を彷彿とさせる痩せ細った男性だ。サイズの合わないスーツがやけに気に掛かった。
 「失礼」とすれ違いざまに掛けられた声に、思わず顔を上げる。
 目が合った。窪んで落ちた影の奥に、青い瞳を見る。冴え冴えとした、冷たい瞳の色の奥では途方もない熱が燃えているように感じた。通り過ぎるはずだった足を止めて、つい口を開く。

「……どこかでお会いしましたか?」
「エッ!?」

 声をかけると、男性はギョッとしたように目を丸めた。

「気のせいじゃないカナ!?初めましてだと思うよ!」
「吐血!?大丈夫ですか!?リカバリーガール!」

 喋りながら、ドバッと鮮血が男性の口からあふれて、今度は奏が目を丸める。慌ててリカバリーガールを呼ぶと、「いつものことだから気にしなさんな」と適当にあしらわれた。
 吐血がいつものことってなんだ!?そんなことあるか!?
 しかし男性も「ごめんよ驚かせて」となんでもないように口元をハンカチで拭った。ワイシャツの襟元やスーツを血で汚していないことから、確かに手慣れているように見える。どうやらこの吐血は日常的なものらしく、奏は一人困惑する。

「本当に大丈夫ですか……?」
「大丈夫、大丈夫!じゃあおじさんはこれで!」

 ピッ、と軽快に片手を上げて、笑顔で男性は医務室を出た。何者なんだあの人。なんか……見覚えはないけど、聴いたことのあるような音だった気がしたんだけど……あんな人と出会ってたら忘れないだろうし、やっぱり僕の勘違いかな……吐血する知り合いはいないはずだし。プロヒーローかな……知らない人だけど、まあ積極的に露出しないヒーローもたくさんいるし。

「ほら、アンタも座りな。治癒するよ」

 丸椅子を杖の先でペチペチと叩きながら、リカバリーガールが奏を呼ぶ。返事をして、後ろ手にドアノブを掴んだ。

「かなちゃん!」

 扉を閉める直前に名前を呼ばれて、閉めようとした扉を少し開いて顔を出す。緑谷がまだそこにいて奏を見ていた。一瞬だけためらったように視線を落として、それを振り払うように顔を上げる。

「あの……っ、試合、見てるね!頑張って!」
「見んでいい……!休んでろお前は……!」
「ええっ……」

 扉の影から声を低くして凄むと、緑谷は口元を引き攣らせた。その様子を一瞥して、今度こそ扉を閉める。
 人の試合を観てる場合か。休めお前は少しでも……!と扉の向こうに念を送りながら、奏は「すみません」と一言告げてから丸椅子に腰をおろした。
 リカバリーガールの小さくてしわしわの手が腕に触れる。

「腕と頭部に出血。あと打撲だね。もう血は止まっているみたいだから、消毒をしたら体力を削らない程度に治癒するよ」
「はい、ありがとうございます」

 リカバリーガールは奏に背を向けて、薬品の準備を始めた。医務室独特の、消毒液の匂いが強くなる。金属同士の擦れるような音がカチャカチャと高い音を立てた。沈黙と消毒液の匂いが充満した部屋で、その隙間にメスを入れるようにリカバリーガールが息を吸う。
 
「……あの子には、今後ああいう怪我は治癒しないと言った」
「……!」

 リカバリーガールの、白衣を纏う背中を見た。奏の視線にきっと気付いているだろうに、リカバリーガールは背を向けたまま話を続ける。

「右手の粉砕骨折、破片が関節に残らないよう摘出して縫合したが、あれはもう綺麗には治らなかった。手術後に歩けるくらいには治癒を進めてある」
「……そう、ですか」
「……あの子がどういうつもりで、どんな意図があってあそこまでの戦いをしたのかあたしにはわかんないよ」

 金属の擦れる音が止んだ。リカバリーガールの視線が、一段下に落ちて、静かに息を吐き出す。吐く息と一緒に、言う。

「でも憧れだけで、ああも身を滅ぼすなんて……普通じゃない。あたしゃあ……嫌だよ。あの子はもっと別のやり方を探すべきだ」

 憧れだけで、身を滅ぼすなんて普通じゃない。
 リカバリーガールの言葉を、口の中で繰り返し、噛み砕く。下を向いたリカバリーガールとは反対に、奏は上を向いた。白い天井が見えて、蛍光灯が少し眩しかった。
 本当にその通りだなと思った。普通じゃない。あいつは。多分僕はその片鱗をずっと昔から知っていたし、知っていて、どうにもならないと思っていた。だって出久は無個性だったから。
 蛍光灯の光を遮るように、瞼を下ろす。瞼の裏に残った残光を追いやるように、自分の感情にも整理をつける。
 他人を思いやれるやつだった。他人のために自分を差し出せてしまえるやつだった。そういうところが好きだ。尊敬すらしている。けど僕はこうも思っていた。いや、正確には今までそう思っていたのだと自覚した。
 優しくて、怖がりで、泣き虫で、無個性の出久にできることなんてたかがしれていると、心のどこかで思っていた。なにかあれば僕が助けてやればいいと思っていた。傲慢にもほどがある。最悪だ。
 腕を瞼の上に乗せて、闇を呼び込む。まだ光が、血だらけで戦う出久の姿が消えてくれない。
 そこで気付く。真っ赤に染まった怒りが黒に染まった。怒りが赤なら黒は恐怖だ。僕は怒りと同じくらい怖かった。自ら身を滅ぼす出久が怖かった。怒りで赤く染まったのに、最後に支配したのは黒だ。恐怖だ。
 怖かった。勝手に出久を決めつけて自分が助けてやればなんて考えを持っていたのに、僕は出久に障害物でも騎馬戦でも負けた。負けたやつがなにを助けてやれるんだ。なにを止められるんだ。怖い。僕がなにもできないまま、あいつが自分の夢のために、誰かのために身を滅ぼして取り返しがつかなくなることが、どうしようもなく。
 突きつけられた現実に、奏は目眩がしそうだった。意識的に長く息を吐き出す。吐く息がやけに熱くて余計に嫌になった。リカバリーガールが動く気配を感じて居住まいを正す。彼女は目頭から眉間にかけていくつもの細いしわを寄せながら話を続けた。

「アンタからすりゃ、治癒しないだなんて気掛かりが増えるだけかもしれないけど」
「いえ……助かります」

 自分でも意外なほどに、嫌だとは思わなかった。いよいよ退路を絶たれたような気持ちにはなったけど、それで良いと思った。奏は膝の上に肘を乗せて、背中を丸めて前屈みになりながら手を組む。

「怪我をしても治してもらえるとわかっていたら、きっとあいつは同じことを繰り返す」

 自分の影を見ながら吐いていく言葉は自然と口からこぼれて落ちていく。落ちた先が自分の影なら、結局この感情は自分の中から抜けていかない。

「……リカバリーガール、僕、思うんですよ」

 ポツリ、と締めた蛇口から水滴がこぼれているのを眺める心地で喋る。

「ヒーローだって、自分の個性を使う相手は自分で選んでいいんじゃないかって。仕事とか、役目とか、責任とかじゃなくて」

 嫌だとリカバリーガールは言った。治癒をしたくないという意味なのか、あの戦い方が嫌なのかはわからない。どちらもかもしれない。けれど前者だった場合、自分で自分の体を壊す人間に治癒の力を使う。そんな虚しいことがあるだろうか。治したってどうせまた壊すとわかっているのに、治さなきゃいけない。穴の空いたコップに水を注ぐような行為。
 嫌だって思うなら、その感情が優先されたっていいんじゃないか。たとえそれが役目の放棄だとしても。
 
「あいつの……あの怪我は自ら選んで、作ったものです。自分で治せる力もないのに、貴方に頼るしかないとわかっているのにあの選択をした」
 
 奏は組んだ手にぎゅっと力を入れる。無意識だった。指先がそれぞれの手の甲を強く押す。力を入れた勢いで、言い切る。

「あまりにも愚かで無責任だ」

 自分で後始末もできないような、最後は人頼みなんて顛末。今時どんなB級ヒーロー映画にだってそんなラストはない。入学式から相澤に言われていたはずだ。一人救けて木偶の坊になるだけ。距離は延びた。でも最後はいつも同じだ。動けなくなるほどの怪我をして、誰かに助けてもらう。助けられる内はいい。でも救けられなかったら?傷を負うのは救ける側だ。

「あいつはもっと、自分のことや、周りのことを考えるべきだ。誰かに救けてもらうつもりでヒーローになる気なら、浅はかにもほどがある」

 自分の行動がどれだけ人に心配と恐怖を植え付けるか。というか今日の様子って中継されてるはずだからきっとおばさんも観てる。というか子供とかだって観てる。大丈夫かあれは。放送していいのか?ほぼほぼ放送事故だぞあんな大怪我。
 こぼれそうになるため息を堪えて、代わりに言葉を連ねた。

「自分の選択が、誰かを傷つけるとわかった方がいい。誰にでも救けてもらえるわけじゃないと理解して動けるように。それを学ぶためにも、リカバリーガールの判断は適切でありがたいことです」

 そう締め括って、薄く微笑む。あいつのあの考え方は根本的に直さなきゃ駄目だ。
 リカバリーガールの眉間のしわの数は変わらないまま、ふう、と肩を下げながら息を吐いた。

「……アンタも難儀な子だね」

 声は呆れと、こちらを心配するような温度があった。部屋の空気に慣れたのか、段々と消毒液の匂いがわからなくなっていく。

「幼馴染みなんだって?自分だってヒーローを目指す同じ学生だろうに……あの子を咎めて道を探して、無茶苦茶だよアンタも」

 リカバリーガールの中で、もしかしたら緑谷と自分は同じように見られているのかもしれない。けれど同じなんてことはない。自分はあんな戦い方をしない。あんな、誰も幸せになれないような戦い方。
 無茶苦茶でも、難しくても苦しくても、これでいい。それを裏付けるように、奏はリカバリーガールに向けて微笑んでみせた。





「チユ〜〜〜!」

 頬に生温かいものが押し付けられて、思わず体が硬直する。少し寒気がした。と思ったら次の瞬間には体の内側から熱が巡るような感覚。そして気付いたら痛みが消えていた。
 これがリカバリーガールの治癒の個性か……聞いてはいたけど凄いな、とすっかり傷の塞がった腕を見る。

「次の試合が控えてるから、体力を削らないように擦り傷なんかはそのまま、出血の酷かったところだけ治癒したよ」
「ありがとうございます」
「ラムネをお食べ」
「ありがとうございます……?」

 手のひらに、セロファンに包まれたラムネが落ちてくる。入試のときもくれたし、出久も治癒してもらう度になにかしらのお菓子を渡されているらしいけど、これもしかして治癒で使った体力が早く戻るようにくれてるのかな。
 透けた黄色の包みを開いて、三粒入った薄水色のラムネを一粒口に入れた。口の中でホロ、と崩れて、溶けて消える。甘みだけが口の中に残った。そのまま残りの二粒も口に入れて、溶ける食感を楽しんだ。
 頭を下げて、医務室を出る。僅かな疲労感はあれど、立ち眩みやふらつきはない。次の試合に出るには十分なコンディション。
 観覧席に出ると、爆豪と切島の試合に決着がつくところだった。眼下で何度も爆破が瞬く。いくつもの爆発を伴う打撃を、爆豪が切島に打ち込んでいた。とどめと言わんばかりに「死ねえ!!」と爆豪が叫ぶ。死ねとか言うなよ……!
 奏は唖然としたまま試合を見守る。火傷と打撲の痕が目立つ切島の体が、仰向けにゆっくりと倒れた。

『爆豪エゲツない絨毯爆撃で三回戦進出!これでベスト4が揃った!』

 プレゼント・マイクの実況に、そう言えば芦戸と常闇の試合を見逃したなと気付く。トーナメント表を見ると勝ち上がったのは常闇のようだった。
 奏、轟、爆豪、常闇。この四名が準決勝に進出。障害物競走が随分と遠いことのように思えた。天気は崩れることなく、爽やかな心地よい風を吹かせ、青空はその穏やかさを保っている。この日のためにあつらえられたような青空だなと、改めて思った。
 空に向けた視線を、フィールドに落とす。フィールドに立つ爆豪と、目が合った気がした。
 気がしたじゃない。合っている。爆豪が奏を見上げている。ここからでもよくわかる夕焼け色の瞳が、奏を貫く勢いで見据えていた。その目は忘れていないだろうなと訴えているようだった。だから奏は、覚えているよと、伝わるかはわからないが、意味を込めて頷く。

『俺はこの体育祭で、てめえに勝つ』
『受けるよ。お前の宣戦布告』

 決勝で会おうと、そう言った。
 奏が頷いたのがわかったのか、爆豪は意外そうに夕焼け色の瞳を瞬かせた後、すぐに上等だと言わんばかりに口角を上げた。退場するために爆豪が動いたことで、交わっていた視線が途切れる。
 奏は、いまだに爆豪が宣戦布告をしてきた意味がわかっていない。この体育祭の中で見つけられればと思ったが、そう上手くはいかなそうだった。申し訳なさと、仕方ないかという開き直りが半々ずつある。
 爆豪と決勝戦で戦いたいなあという願望は、正直なところあまりない。奏の中で勝ちたいという感情は相変わらず意味が薄いままだ。それでも決勝には行く。勝ちたいはない。けれど応えたいはある。爆豪の想いに、障子たちの決意に、尾白の覚悟に。
 爆豪が退場するのを見送って、奏は踵を返してスタジアム内に戻った。準決勝、最初の試合は自分と轟だ。控え室に向かう。
 足音が響く。自分だけの音だ。努めて、息をゆっくり長く吐く。肺の中を空にするように吐き切る。今度は肺を満たすためにゆっくりと吸う。脳に酸素が回ると少し思考がクリアになる気がした。
 応えたいという想いだけを持って試合に臨みたい。不純物を抱えたまま次の対戦相手と向かい合いたくない。
 勝てれば決勝。お互いに勝ち進めば、勝己と戦える。
 何気なく右手を見る。ゆっくりと握り込んで、そして開く。余計な力は入れない。余計な思考も入れない。感情をならすために、頭の中に次の対戦相手を思い浮かべる。赤と白のツートンカラーの髪に、左右で違う目の色。火傷の後。氷、炎。
 次の相手は轟焦凍。半冷半燃の強個性。緑谷を負かした相手。

「……飯田くんと先に戦えてよかったな」

 一人で言葉を散らす。飯田との試合を経て、思っていたよりもずっと冷静でいられている。飯田に対する敬意があったからこそだ。敬意を払って、試合に挑む。そうすれば勝ち進む理由は応えたいという、奏の望むものだけで臨める。
 大丈夫だ。やれる。普段通りの僕で、轟くんに勝つ。
 長く息を吐き切って、奏は先を見据えて前へ進んだ。



▽▲▽



 フィールドに上がると、先ほどよりも陽射しが強く感じた。ぐるりと囲んだ客席の歓声が質量を伴って落ちてくる。肌がやけにひりついて、落ち着かない。けれど思考はクリアだ。目の前に立つ、端正な顔立ちのクラスメイトと目を合わせた。陽の光の下で、左右の瞳の色の違いがより鮮明になる。赤と白のくっきりと分かれた髪色も、左目を覆う火傷の痕も同様だった。それを認めても、心は凪いでいる。
 それを証明するように、奏は口元に笑みを浮かべた。轟が目を瞬く。

『さて準決!サクサク行くぜ。二回戦でお互い手の内明かしての進出!轟VS音波!』

 プレゼント・マイクの言葉の通り、轟はここまで使ってこなかった炎を、奏はノーモーションでの超音波を見せた。互いに意図的に伏せてきた手の内を明かしながら準決勝へと駒を進めた。この試合では伏せてきた個性の使い方、それを踏まえた相手の出方も大事になってくる。

「よろしくね」

 奏が穏やかな口調で言うと、轟は不思議そうに奏をその目に映す。表情が乏しい分、轟は感情が目に出やすいな、と思った。奏がわずかに首を傾げると、それに促されたのか、轟が口を開いた。

「……意外だな」

 言葉は短く、それだけでは意味が汲み取れなくて、奏は深く首を傾げた。轟は続ける。

「開会式の前みたいに、もっと苛ついてるもんだと思ってた」

 轟の言葉の裏で、マイクが会場を盛り上げるようななにかを言っている。圧倒的にそちらの方が大きく聞こえるはずなのに、奏の耳には轟の声がよく聞こえた。

「緑谷との試合があんなになっちまったから」
「――――あ?」

 沸き上がる客席からの歓声が、応援が、ノイズに変わる。凪いでいた心に波が押し寄せてくる。押しては返して、止まらずに大きくなっていく。
 僕は、いつも通りに。心を波立たせずに、不純物を持ち込まずに、この試合に、轟くんに。

『スタート!!』

 開始の合図と同時に、轟が姿勢を低くした。瞬間、彼の足元から生成された氷結が奏に向かう。氷が軋む音を立てて、冷気を放ちながら奏に襲いかかるそれの規模は、おおよそ瀬呂のときと同じ程度だった。スタジアムから飛び出すほどの氷結は、大波のように、奏を呑み込まんとする。
 それがフィールドの中央に差し掛かかった部分から、音を立てて粉砕していった。
 バキバキと高く擦れるような音が立ち、細かく砕かれ、陽に曝されて細やかな光をいくつも反射させた。光の欠片が降り注ぐような光景に、観覧席からはいくつかの感嘆のため息が漏れる。
 轟が繰り出した氷結は、奏に届く前に粉砕された。意味がないと判断したのか、氷結をやめる。氷塊は残らず塵となり、光の粒が降り注ぐ中で二人は再び向かい合った。
 一気に冷やされた空気の中で、奏が白い息を吐く。

「……人が、せっかく切り替えようとしてんのに……」

 ぐしゃぐしゃと乱暴に前髪を崩した手を、額から離す。深い色をした色の瞳が、轟を貫かんばかりの鋭さを持って向けられた。

「煽ってんだか、天然なんだか知らないけどさあ……」

 凪いでいた胸の中で、波が高く、低く、何度もうねる。嵐が来る予兆のように、暗く底の見えない水が波打っていく。自然と顔が強張って、頬が痙攣を起こす。赤と白が、左右で違う瞳の色が、胸の波の淵を白く泡立たせた。

「苛つくなあ……!」



48:黒の温度




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