残響ユートピア49
細かな光の粒が空気中を舞う。その光と見紛うほど細かく砕けた氷が観客席に冷気をもたらし、その冷たさの中で、芯に宿る熱だけが勢いを増していった。
『アイスダストーー!!数々の対戦相手を苦しめてきた轟の氷結を!粉、砕!』
プレゼント・マイクの実況がそれを後押しして、プロヒーローたちの注目が奏に集まる。
「あの氷結を正面突破か……!」
「機転だけじゃなくパワープレイもいけるのはいいな」
「問題は轟の炎にどう立ち回るか……」
奏のプロヒーローたちからの評価が上がる中、A組の観覧席で、緑谷出久はただ一人、顔を青くしていた。それだけではなく、額には冷や汗が滲んでいる。震える緑谷の視線の先にはステージに立つ奏がいて、彼の吐く息が白くなったことでステージ上の寒さを知った。観覧席はそれほど寒くない。決して震えるほどではない。緑谷のこの体の震えは刻み込まれた恐怖からくるものだ。
かなちゃん……なんか怒ってる……?
「どうした緑谷くん!顔色が悪いぞ!」
「怪我痛む?」
「だい、大丈夫だよ……ありがとう……」
飯田と麗日に心配され、緑谷は弱々しく首を横に振る。少し離れた席から、「爆豪お前汗すげぇぞ!?大丈夫か!?」という切島の声が聞こえて、すぐに「うるせー!なんともねーわ!」と返す爆豪の声が聞こえた。恐らく爆豪も奏の怒気を感じ取ったのだろう。
緑谷と爆豪、そして奏は幼馴染みだ。奏に対する認識の中で、数少なく、緑谷と爆豪の中に共通するものがある。
音波奏を怒らせてはいけない。
それだけは、言葉にしなくても互いに共有している。二人の中で強く根付いた共通の認識だった。
奏は基本的に温厚である。面倒ごとに巻き込まれればさりげなく手を貸し、誰かが揉め事を始めればやんわりと仲裁をする。面倒見が良く、人当たりがいい。怒らせなければ。
奏を怒らせる人間など相場が決まっている。自分か爆豪。大体その二択だと、緑谷は自覚している。
現に先ほど緑谷は奏を怒らせた自覚がある。轟との試合内容が原因で。まさかまだその余韻を残しているのだろうか。いやでも、かなちゃんはそういうの他人にはぶつけない人だし……じゃあ、轟くんに怒ってる?
奏に叱られるのには慣れている。無茶をして、次から気を付けなさいと言われることは今までも何度もあった。けれど奏は今怒っている。怒っているときの奏の迫力はその比じゃない。
まず空気が重くなる。それに気付いてしまうと呼吸がしづらくなる。そこからは正論と己の過ちを突きつけられて言い返せる言葉などひとつもなく、ただただ首を垂れるしかない。普段穏やかな奏の、非難するために練り上げられ研磨された言葉の数々を一身に受けるのは辛い。切れ味が鋭く致命傷になる。けどそれも自分が間違っているせいなので反論もできない。
怒らせた記憶を思い出しては背筋が震えた。普段温厚なだけに、一度怒らせると烈火と氷点下を同時に浴びせられるような恐怖があるのだ。
そんな奏が、鋭く轟を見据え、静かに両手を構えた。その構えを理解した轟が、瞬時に自身の目の前に高く氷壁を張る。
かなちゃんの超音波を警戒して防御に入った……!さすがの反応速度だ。
目を見張るほどの氷結の生成速度。けれど奏は、構えた手を打ち鳴らすことはなく、そのまま轟への距離を詰め始めた。接近したところで氷壁に向かって手を鳴らし、超音波で氷を砕く。轟が壊れた氷壁の向こうから奏が攻撃してくることを予想して体を硬くするのがわかった。しかし砕けて崩れる氷壁の向こうには誰もいない。轟が目を瞠った瞬間に、右から回り込んでいた奏が、赤い頭部を狙って蹴りを入れた。
『入ったぁーー!音波、轟の氷壁を利用して距離を詰めた!』
『音波が轟の氷結を誘ったな……ここまでの戦いで、音波のモーションに対する警戒心は高まっていたはずだ。わざと手を叩くような構えを見せて、轟に氷壁を作らせることで視界を奪った』
『その隙に接近&氷壁の破壊で轟の意識を奪ったところで死角から奇襲ってか!』
『轟の左側を狙うあたり、だいぶ冷静だな音波は』
実況席からの声が降る中で、プロヒーローたちもまた沸く。ギリギリで奏の蹴りを腕でガードしたものの、轟の体勢は大きく崩れた。そこを狙って、奏がまた距離を詰める。
息を呑む。自分に向けられたわけではないであろう奏の怒りを察知して震えていたのが嘘のように。ステージ上での戦いから目を離せない。
そもそも緑谷は、奏の戦い方をまだ詳しくは知らない。飯田との試合中は治癒を受けていたので観られなかった。そして今になって思い返せば、轟の最初の攻撃を、奏はノーモーションで打ち破らなかったか?
無意識に手を口元に添えようとして、痛みを思い出した。手を動かすのを諦めて唇を噛む。
今までの試合や訓練で、かなちゃんは個性を使うとき必ずモーションを挟んだ。あれは誘導……!?ノーモーションでは個性は発動できないと思い込ませるために……!
心臓が早鐘を撞くように高鳴る。戦う奏の姿に、胸の奥が沸き立つ。
距離をさらに詰めようとする奏に、轟は咄嗟に地面についた右手を宙に向かって大きく振る。するとそこから曲線を描いた氷壁が生まれていく。迫り来る奏に襲い掛かるように氷が曲がるが、奏に届かないまま塵となった。それでも一瞬、奏の意識を奪った隙に轟は体勢を立て直す。
「音波くんが優勢や……!」
麗日が興奮を抑えきれない様子で言った。拳をぎゅっと握り締めつつも、親指だけは握り込まないようにする仕草に、個性由来の癖なのだと悟る。頭の隅でそんなことを考えながらも、麗日の言葉に、緑谷は頷けなかった。視線をステージに向けたまま、「いや」とこぼす。
「ペースはかなちゃんが握ってるけど……攻めきれてない。轟くんの氷結を超音波で無効化しているように、かなちゃんの超音波も氷結が邪魔で有効打になってないんだ」
轟が氷結で攻めようとすれば、奏はそれを超音波で破壊する。奏が超音波で攻めようとすれば、轟が氷結で防御する。二人の攻防はまさに一進一退だった。
「なぜ音波くんは轟くんを眠らせないんだ……?」
飯田が競い合う二人から目を離さないままに言う。誰に言ったわけでもないだろう声を拾った緑谷はステージ上の奏に注目した。
恐らく、かなちゃんは複数の超音波を同時に発動できない。もしくはかなりのリスクか制限があるんだ。同時発動が可能なら上鳴くんとの試合の時点で使っていたはず……さすがに同時使用の情報を隠す理由はないはずだ。
緑谷の思考は巡る。本人も意識していない速度で、今までに得た幼馴染みの情報が収束していく。ノートを開けないのが辛かった。
かなちゃんの超音波攻撃を回避するために轟くんは絶え間なく氷結を繰り出して防御あるいは攻撃に回してる。かなちゃんはその氷結を砕くために超音波を放って、催眠音波を放つ隙がないんだ。このままじゃ持久戦になる。
試合は動かない。どちらかがこの均衡を崩さなければ。
▽▲△
吐く息がどんどん白くなる。頬を撫でる空気が冷たくなっていく。目の前に迫り来る氷結に右手をかざすと、奏の近くから砕けていった。
「さっ、むいなあ!」
言葉を発するたびに凝結した息が視界を薄く遮った。個性で細かく砕かれた氷の粒は霧のように舞っている。
轟に意識を向けて強く地面を踏み鳴らす。轟に向かって地面に亀裂が入っていく。その亀裂のタイミングを見計らってもう一度強く踏み鳴らした。隆起した地面に足を取られてバランスを崩すのを見逃さない。
「寒いのは苦手なんだよ!」
「そりゃ……悪かったな!」
悪い、と言いつつ、轟はバランスを崩しながらも足元から氷を生成した。それを連ね、奏に向かって一直線に迫る。氷結での高速移動に、奏は反射的に手を叩く。轟を押し出す氷が崩れて減速する。その隙を今度こそ逃さずに、奏は左足で強く踏み切って、右足で轟を蹴りに行く。今度は左腕でしっかりとガードされてしまった。が、それくらいは予想の範囲内だった。奏が後ろに跳んで距離を取ると、轟の左腕がダラリと落ちる。
蹴る瞬間に、右足に超音波を纏った。麻痺してしばらくはろくに動かせないだろう。
呼吸が乱れている。互いに。吐く息が白くて熱くて邪魔だった。その不快感が、試合開始と同時に轟が言った言葉を思い出させる。
「苛ついてるかって……?」
奏の声に、轟が視線を止めた。その目を見据えると、自然と口角が上がった。眉間が寄ってしわができる。
「心配しなくても、クソみたいな気分だよ」
一瞬、ぴくりと轟の瞼が震えた。視線を走らせる。フィールドにはいくつもの氷塊が転がっている。轟が奏に向かわせる氷結は、奏に近付けないとわかると途中で生成をやめてしまうので、奏も深追いはしない。生成が止まれば超音波も止める。超音波に影響されずに残った氷塊の根本が、まるでフィールド上だけを別の国にしたみたいだった。
舌を打ちそうになるのを堪える。氷の障害物。壊すのも躱すのも簡単だが、ここまでの数と大きさ。なにより轟が動ける以上いくら壊しても意味がない。
氷塊が邪魔すぎる……!壊しても増える障害物。その都度変化する障害物のせいで音の反射を把握するのに時間がかかるし、把握したところで轟くんが右の個性を使えば無意味。催眠音波で眠らせるのは不可能と判断した方がいい。
奏は長く息を吐いた。
「別に君が出久を負かしたことに苛立ってるわけじゃないよ。ただの八つ当たりだ」
奏はにこりと笑った。教室で見せるような穏やかな笑みに、轟が目を瞬く。けれど薄く微笑むその瞳は冷え切っていた。
「個性もまともに使えない奴と、個性をまともに使う気のない奴の試合見せられて、気分が悪いだけ」
色の違う眉が寄る。不本意にも轟の事情を知ってしまった。でもそれがなんだっていうんだ。向こうが先に散々好き勝手言ってきたんだから、こっちにだってその権利はあるだろ。ただでさえ苛ついてるんだからこっちは。
「はは、不満?でも言われて当然のことしてるって自覚ぐらいあるでしょう。ないなら随分楽観的だ」
言葉にするたびに、胸の奥底から這い上がる煮えた感情。よくないとわかっているのに止まらない。
轟の右足から氷結が迫ってくる。轟の右半身には霜が降り始めていた。それでも氷結の生成速度は相変わらず目を見張るものがある。けれど奏の扱う音速には敵わない。虫を払うように迫り来る氷結に向けて右手を払えば、氷が細く高い音を立てて崩れていく。砕氷が地面に落ちる硬い音を無視して耳を澄ませる。
わずかに苛立ちを乗せた音がする。自分からじゃない。轟からだ。彼もまあまあ沸点が低いなと思うと少しだけ口元が緩んだ。だけどまだ言い足りない。
「……君にも事情はあるんだろうし、僕は出久じゃないから、別にいいんだけど」
冷静さを装って、言葉を紡ぐ。
「でも僕に君の氷結は通用しない。それでもまだ左の個性を使わないの」
音もなく、奏の笑みが消える。轟が不意を衝かれたような表情で固まった。
音が変わる。パチ、と可燃物が小さく爆ぜる音。轟の中でなにかが燃える音。
轟の音が、緑谷との戦い以降、ほんの微かにだが変わったことに奏は気付いていた。焦げついていた煤がいくらか払われたような音になった。焔が風に揺れるような音。緑谷の言葉に、行動に、熱に当てられたように、轟は最後に左の個性を使った。だけど奏に対して使う素振りは見せない。他人の感情を音で理解できる奏だからわかる。轟はまだ、すべてを振り払ったわけじゃない。
わかるよ。と奏は声に出さずに思う。
わかるよ。今まで封じてたものを、嫌悪していたものを、そう簡単に開けられないよな。わかるよ。考えたいのに思考と気持ちが伴わない。わかるよ。
轟の唇が薄く開いた。酸素を吸って、その唇の隙間からは吐かれずに閉じる。なにか言葉を返して欲しいわけではなかった。だから奏は一方的に続ける。
「別に、半分の個性だけで僕に勝てるって言うならそれでいいんだ。――ああ、それとも」
一度は消した笑みを、再び作り直す。人差し指の背で、するりと唇の下を撫でた。
「負けたときの言い訳が必要?半分の力しか使わなかったからって」
瞬きの間に氷結が目前に迫っていた。あらかじめ纏っていた超音波の出力を上げる。砕けていく氷の破片の隙間から、轟の顔が見えた。鋭い目つき、向けられる音。思わず笑みがこぼれる。
「はは!使わないくせに怒るなよ!」
空気が冷たい。吸った息が肺を凍らせる。でも体の表面は汗ばんでいる。肺は冷えるのに、それでも胸の奥の苛立ちは冷めない。砕氷の中を走って、轟に向かう。踏み出した足からコンクリートにヒビが入った。まずいな、コントロールが下がってきてる。
迫る奏を、轟は氷結で迎撃した。その氷結も、勢いは弱まっている。氷を砕き、また氷ができる。それを繰り返す中で、言葉を交わす。
「うるせぇな……!普段そんなに喋んねえだろ、お前」
「喋りたくなるときだってあるさ」
そうだね。普段からこんなに喋らないし、本当なら僕は苛々したり怒ったりもしたくないんだよ。こんな気持ちを抱えたまま個性を使いたくないんだよ。なのに、雄英に入ってから、喉の奥につかえるような苛立ちが増えた。本当に嫌だよ。でも止まらない。
「使わないって選択肢があるなんて随分余裕なんだね。それいつまで続けるつもり?プロになっても?」
「っ……お前に関係、」
「ないよね、ただの忠告だよ」
関係なんて微塵もない。あるのは轟に対する苛立ち、緑谷に対する怒り。
「誰かを救けるときが来てもそんな判断するつもり?炎を使えばすぐに解決するような事件にも氷結だけで対応するの?それ救われる側からしたら最悪だよね。君の都合で苦しむ時間が長引くんだよ」
轟が目を瞠った。色の違う瞳が揺れている。想像の範疇外からぶん殴られたような表情は初めて見る顔だった。教室では見たことのない、幼さの際立つ表情。そして動揺の音。
めちゃくちゃなことを言っている自覚があった。リカバリーガールにはあんなことを言っておいて、轟には嫌悪すら呑み込めと言っている。轟の事情を一方的に知ってしまって、自分が口を挟むべきことではないとも思う。思うのに、なんでこんなに苛立ちが止まらないんだ。次から次に湧き出てくる。濁った感情。早く全部吐き出してしまいたい。
「左側を使えばさっさと決着をつけられただろうに。あんな大怪我をせずに済んだだろうに」
これは本当に八つ当たりだった。だから放った言葉を咄嗟に個性で掻き消した。同時に自分を見損なう。こんな風に思う自分が、そしてそれを口にしてしまう自分がいることに嫌気がさした。
本当は気付いていた。何度か、轟が炎を使うか迷っているときがあったことに。
左の個性と右の個性、使うときに意識が少しブレるのか、体内の構造かわからないけど、左右の個性はそれぞれ別の音がする。何度か左に意識を向けていた。炎を使うか迷っていた。出久にだけ使うわけじゃない。僕にだって使おうと思えば使えるはず。なのに使ってこない。
そう思うとまた胸の奥から濁ったなにかがあふれてくるようで、気付く。
ああ、そっか。クソ、だから僕は苛ついてるのか。
怒っている。個性を使いこなせないまま、自分の身を削って戦った出久に。
腹が立っている。自分の都合だけで出久に喧嘩ふっかけて、個性を使わない選択肢を残している轟くんに。
轟くんが炎を使えば、僕に勝ち目はない。僕の個性で炎は防げない。使われれば負けは濃厚。彼の気分ひとつでこの戦況は覆る。そんな自分に、吐き気がするほど苛立っている。
あふれて止まらない濁った感情。源は自分の不甲斐なさ。嫌なのに本当は。こんな感情を抱えたまま個性を使いたくない。よくないってわかるのに。なのに不思議と思考が冴え渡っていく。
ああ、くそ、腹立つな。勝てるくせに勝ちに来ない彼も、その彼に勝敗を握られている自分も。使いたくない気持ちなら十分にわかるのに。それでも。
奏はぐっと奥歯を噛んだ。頭の中に、声が浮かぶ。
『完全勝利以外いらねんだよ!』
『俺の分まで、頑張ってくれな』
『君に挑戦すると!』
『これは私たち三人の総意よ』
――僕も君に勝つ!
浮かんだ声はどれも強い響きを持っていた。多分これが自分にはないものだと、奏は悟る。自分にはない熱を持った言葉たちが、奏に進めと叫んでいる。
「君にも事情はあるんだろ……!」
砕けた氷が降り注ぐ中で、奏は轟に声をぶつけた。
「それは僕には関係のないことだけど……!今、この戦いの間だけは!そうじゃないだろ!」
出久のように、彼の中にある哀しさをどうにかしたいとは思ってない。僕はそんなに優しい人間じゃない。あいつみたいにはいられない。
氷結を壊しながら進む足は止まらない。足を踏み出すと意思に反して地面が割れた。個性の使用超過によるコントロールの低下。轟の体を覆う霜の面積も広がっている。互いにギリギリの状態だと悟る。指先の感覚が鈍いことに気付いた。寒さのせいじゃない。それを無視して、叫ぶ。
「今僕が戦っているのは君だし!君の前にいるのは僕だぞ!」
轟が息を呑むのが聴こえた。砕けた氷と、白く染まる息に視界を遮られながらも轟から目を逸らさずに強く言う。
「その氷も、炎も!君だろ!」
轟の氷結の勢いがさらに弱まる。それを見極めて、壊して残った氷塊に足をかけて踏み切って高く跳んだ。
まだ腹は立ったまま。苛立ちは消えないままだ。自分にも、彼にも。それでもここで譲ってしまったら、中途半端に勝ってしまったら、ここまで繋いでくれたみんなになんて言えばいいんだ。どの面下げて会えばいいんだ。どんな顔で、あいつとの決勝戦に臨めばいいんだ。
炎を使われたら勝てない。わかってるけど!!
「使えよ!!左も!!」
声の限りに叫んで、声に乗った超音波で地面に残ったままの氷が高い音を立てて軋む。自分を見上げる轟の、アイスブルーの瞳がよく見えた。その瞳に映り込む自分すら見える気がした。
轟が歯を食いしばる音がした。食いしばったまま、その場にしゃがんで両手を地面につけた。次の瞬間に、轟の左半身に炎が上がる。
目を見開く。赤い炎が眼前で揺れている。熱い、と思った。立ち上る熱気に、みるみるステージ上に残った氷が溶けていく。蒸気が一層ステージの視界を悪くしていく。冷えた空気が熱されて、突風が吹く。緑谷戦のときほどではない。でも今炎を向けられたら、宙にいる自分では避けることもできない。
轟が奏を見た。視界が悪い中で、目が合ったと確信した。瞬間、視界全てを遮るほどの氷結が襲ってきた。ガガガ、と氷がひしめき合う音を立てて迫るそれは、試合の最初に向けられた攻撃と同じだけの勢いと規模。奏は咄嗟に顔の前で腕を交差させる。まるで氷の津波だった。すべてを呑み込もうとする氷を、自分の周りだけ超音波で砕きながらガードする。バランスを崩しながらもなんとか着地をした。目の前も、頭上も、ステージの半分以上は氷で覆われている。自分の防御に徹するしかなく、氷結のほとんどがそのまま残っている。ステージを呑み込む波が、そのまま凍りついたように残されていた。
炎、使わなかった。なら――……
ヒュ、と空気を切る音がする。後ろ、上から何かが落ちてくる。いや、降りてくる。
視線を向けなくてもわかる。音で空間把握はできている。後ろ、降りてくるのは轟だ。
『轟が背後を取った!!』
『規模の大きい氷結で音波の意識と視界を奪った。その氷結を足場にして新しい氷結を足元に連ねて移動……背後を取って頭上からの奇襲か』
プレゼント・マイクと相澤の声。後ろを見る。肩越しに落下しながら右手を伸ばす轟が見えた。
轟の右手が奏の背に届く、その直前。
言い表せない音がステージ上に響いた。キィンと頭の中で直接鳴り響くような、高く、捉えようのない音だった。その音は残っていた氷結を砕き、ステージのコンクリートを砕いた。金属を切るような感高く不快な音に、観覧席にいるプロヒーローや生徒たちも顔を歪ませ、耳を塞ぐ者もいた。
不揃いに砕けた氷が、奏と轟の頭上に降り注ぐ。ステージは細かく砕けた氷が宙を舞い、太陽の光を反射させ、砕けたコンクリートで砂塵が舞う。砕けきらなかった氷塊が鈍い音を立てながら落ちていく。
キン、ガガ、と、実況席からノイズの入った音が漏れる。
『なんだどうしたなにがあったぁ!?』
マイクの声量に応えられなかった電子機器が、キィンと細い音を立てた。相澤が煩わしそうな声音で答える。
『音波の超音波だな。振動数と出力をかなり上げたんだろう。ここの機材も馬鹿になったんじゃないか』
ゴン、と鈍い音を拾って、マイクが『だからって叩くなよ。つーかこれ二人はどうなった』と言うのが観覧席に届く。
砂塵と氷が晴れていく。ゆっくりと薄くなっていく様子を、観覧席にいる者たちは息を飲んで見守っていた。ガラ、と大きな氷塊が崩れ落ちていく音が静かな空間に響く。
「……氷結、で……勝ちに来るなら、手段は限られてる。距離を取ったまま、氷責めなんて僕相手に通じる手じゃないから」
声は途切れ途切れだった。荒い呼吸を繰り返しながらも、その口調は落ち着いていた。
奏は、氷舞う中で立っていた。ふらつく体を意地で保って、地面に転がる轟に声をかけ続ける。
「だから、直に触れて凍らせに来るのは読めてた。氷漬けにされた状態で超音波を使えば僕ごと割れる危険もある」
うつ伏せに倒れた轟の肩が上下に動く様を見る。乱れた呼吸の隙間に、「ぅ、ぐ……」と掠れた声が漏れるのが聴こえた。「ごめん、舌も痺れてる?強すぎたなやっぱり……」と、奏は返事がないとわかっていながら続けて話す。
「……左を攻撃に使われてたら、手も足も出なかったけどね」
その瞳にはどこか寂しさと哀しさが滲んでいた。一歩、轟の方に足を出す。ガクンと膝が落ちそうになるのを堪えて、ほとんど足を引き摺るようにして歩く。
距離を詰めると、ズガガ、と氷柱が現れた。全身麻痺しているはずだが、個性の発動はできるらしい。
ちらりとミッドナイトの方を見る。試合終了の宣言がないと言うことは、轟のこの状態はまだ行動不能とはみなされないようだ。麗日のときとは違い、動けずとも氷結と炎の攻撃を可能としているからだろう。舌が痺れているみたいだから「参った」とは言わせられない。恐らく本人も言わないだろう。眠らせて行動不能とするか、場外にするしかない。
奏は息を弾ませながら、自分の状態を測る。心臓が壊れたみたいにうるさかった。自分の呼吸の音が耳の奥で響いて不快だ。
また一歩、氷を避けながら近付く。パキ、と高い音がして、氷柱の先端の尖りが欠けた。
駄目だ。個性のコントロールが著しく下がってる……この状態で催眠作用のある音波を使うのは危険すぎる。
催眠音波が使えなければ、残るのは場外の一手しかない。奏は重たい体を引きずり、氷を迂回して轟の襟を掴んだ。右半身に触れないように体をひっくり返し、そのままずるずると引きずりながら歩く。手足が痺れていて上手く力が入らない。それでも最後の力を振り絞って轟を運ぶ。
あんなに煩わしかったはずの観覧席の声がぼやけて上手く拾えない。呼吸が整わない。個性の許容範囲を超えた反動が出ている。くそ、と顔を顰めながら重たい足を動かしていく。
グン、と急に後ろから引っ張られるような感覚があった。引っ張られているんじゃない、轟が急に動かなくなった。いよいよ引っ張る力もなくなったか?と後ろを振り返る。
轟は奏に引っ張られるがままだ。当然だ。近距離でかなりの超音波を当ててしまった。あと十数分はまともに動けない。無抵抗、そのはずなのに引きずられて地面に触れる右手が、地面に張り付くようにして凍りついている。
一瞬、理解が追いつかなくて反応が遅れた。その一瞬が命取りだった。
轟の右手から始まり、その氷は瞬きの間に轟の下半身を呑み込んだ。
こいつ……!自分ごと……!
超音波で防ぐ。コントロールの下がった状態で調整が効かない。轟に取り返しのつかないダメージを与える可能性がある。手を離す。指先が上手く動かない。氷結の方が早い。
奏の思考が一瞬のうちに巡る。答えが出るより先に、氷結が轟の襟を掴む奏の手を伝い奏の半身を呑み込んでいく。胸元まで覆った氷に、奏はギリ、と奥歯を噛んだ。
『これは――……!』
『轟!自分ごと音波を氷結したぁあ!』
寒い、よりも先に痛いと思った。露出した皮膚が氷に張り付き、鋭い痛みが走る。急激に下がっていく体温に眩暈がする。
ミッドナイトが近づいて来る。奏に動くなという意思を伝えるために向けられた手のひらが霞んでいる。ミッドナイトは轟の前にしゃがみ込んだ。
「……気を失ってる。音波くん、動ける?」
「ハッ、ハッ……っ、壊そうと思えば、壊せますけどね……ハ、さすがに……僕も轟くんも無事じゃ済まないですよ……」
寒さに呼吸が震えて、奥歯がカチカチと鳴る。視界がほとんど滲んでよく見えない。ミッドナイトのシルエットが立ち上がるのがわかった。
「両者行動不能!よってこの試合、引き分け!」
ミッドナイトの宣誓に、会場の至る所から音が鳴るのがわかった。恐らくは人の声であろうそれは、輪郭がぼやけて言葉として聞き取れない。近くで誰かが話しかけている。恐らくはミッドナイトだと思うが、なにを言っているのかわからなかった。
寒さに感覚が遠のく。視界がゆっくりと狭まっていく。
そのままゆっくりと、深海に潜るように奏は意識を手放した。
49:焔の揺らぎ
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