残響ユートピア50






 さむい。
 寒いのは苦手だ。指がかじかんで鍵盤を上手く叩けない。音を思うように鳴らせない。思考が内側にばかり向いて、考えなくていいことを考える。
 寒い、寒い。手を擦り合わせても戻ってこない熱に、体の中は空洞で、そこにすら乾風が吹き抜けているんじゃないかと思った。

『寒いねえ』

 誰かがすぐそばで、笑いかけてくれたような気がした。冬の陽だまりを思わせるような、暖かな声だった。

『手を繋ごうか。きっと少しは温まるから』

 そう言って握られた右手から、じんわりと熱が広がっていく。寒さはなにも変わらないのに、繋いだ手には熱を感じる。硬くなった指先がゆっくりと解けるように温かくなる。
 この手なら、どんな音だって鳴らせる気がした。なんだって掴める気がした。




 瞼の向こうに光を感じた。その光を確かめるように、重たい瞼をこじ開ける。視界はぼやけていた。ただぼやけた中で一色、鮮やかに映る赤色がある。それに焦点を合わせていくと、いつか子供の頃に持っていたビー玉と同じ色の瞳があった。
 二度、三度と瞬きを繰り返す。段々と明瞭になっていく視界。

「っ、リカバリーガール」
「おや、目を覚ましたかい?」

 轟の切迫した声に、リカバリーガールが返事をした。二人の動向をぼんやりと耳で追う。にゅ、と蛍光灯の光が遮られて、視界いっぱいにリカバリーガールの顔が映り込んだ。思わず声が出そうになったが、喉が渇いていたせいか音にはならず、奏は主張を激しくした心音を無理やり落ち着ける。

「気分はどうだい」
「……寒いです……」
「だろうね、アンタ低体温症を起こしかけてたんだよ」

 はあ、と半分寝言のような返事をした。そして体温が巡るようにゆっくりと、自分は今、医務室のベッドに寝かされているのだと理解が追いつく。
 顎のあたりまですっぽりと覆われるように厚手の布団をかけられている。そして右手が温かい――右手?

「轟が自分もろともアンタを氷漬けにして、そのまま意識を失ったから氷を溶かすのに時間がかかってね。耐性があった轟はともかく、アンタは低体温症の一歩手前。体温を上げるのにも体力を使うから、治癒もできなくてね」

 やれやれ、と言わんばかりに眉を寄せて話すリカバリーガールの言葉は思考の海には留まらず、ゆっくりと流されていく。奏は自分の右手を見た。目だけを動かすが、布団の下にしまいこまれた手は見えない。

「轟が半燃の個性で温めてくれてたんだよ」

 リカバリーガールの言葉を聞いて、奏はゆっくりと視線を轟に映した。目が合って、すぐに逸らされる。そうか、じゃあ今、僕の手を握ってくれているこの温かい手は、轟くんか。

「水分は取れそうかい?」
「はい……」
「あったかいものを淹れてあげるから待ってな」

 シャッ、と勢いよくベッドカーテンを引かれて、リカバリーガールの足音が少し遠くなる。余計な光が遮られて、真上に設置された蛍光灯の人工的な光が降り注ぐ。簡易的な密室の中で、轟と二人きりになった。

「……悪かった。最後、凍ったままにさせちまって」

 轟は、布団の下で握られたままの手のあたりに視線を落としてそう言った。奏は瞬きを忘れて、彼の横顔をじっと見る。
 轟くんって謝れるんだ……!?
 口にはしないが内心で失礼極まりない感想を抱きながら、奏は咄嗟に「あ、いや」と意味もない言葉を返す。それから息を吸い直して、言葉を選んだ。

「それを言ったら僕も……最後、上手く調節できなくて必要以上の超音波浴びせちゃったから、ごめんね」
「……すげえ痺れた」
「だろうね。あと」

 奏が言葉を区切ると、轟は顔を向けた。目が合ったままの状態で、奏は言う。

「謝らなきゃいけないことがもう一つある。昼に……出久と話してるの、聞いちゃったんだ。ごめん」

 轟の両目が、わずかに見開かられた。目を逸らさずに、渇いた喉から声を引っ張り出す。

「不本意とはいえ、君の事情を知った。知った上で煽った。本当に八つ当たりなんだ、ごめんね」

 許してもらうつもりはない。罵られる覚悟もあった。けれど轟はなにも言わず、薄く開いた口を一度閉じて、そしてまた開いた。視線をわずかに落として。

「いや、いい。音波に言われたことはその通りだと思ったから」

 こうして近くで会話をしていると、本当に憑き物が落ちたような、どこかすっきりとした顔をしている。これが緑谷の愚行の先に得たものだとするなら、なんとも言えない気持ちになった。
 握られたままの右手は温かい。握り返すことができないまま、奏は口を開いた。

「……君は、お父さんと同じ左側が嫌なのかもしれないけど……」

 言って、なんの意味があるのだろうと思った。頭の隅で意味はないとわかっている。でも慰めでもなく、叱咤でも激励でもなく、ただ思ったことを口にする。

「僕にとって君の左側は、こうやって僕を温めてくれる優しいものだよ」

 ゆっくりと、轟が瞳を見開いた。左右で色の違う、孤独な色。戦いの中で言いたいことを好き放題言ったおかげが、意識を失ったせいか、あれだけあふれて止まらなかった感情は凪いでいた。荒れた海が嵐を超えて、穏やかな水面を見せるように。
 奏は指先だけで轟の手をほんのわずかに握り返した。

「余計なお世話かもしれないけど……そうやって、少しずつでも、お父さんに関係なく、自分の力だって思えたらいいね」

 自分の個性を嫌って、恨んで、憎んだまま生きるのは辛すぎる。これから先、一生付きまとうものだから。奏には轟の気持ちがわかった。音を聴いたから。いくらか覚えのある感情だったから。
 轟の左の瞳は、いつか手にしたビー玉のようだった。それは澄んだ色をしていて、陽光を受けてその色の影を落とす。光を反射させる。この瞳が憎しみに染まるのは惜しいと思った。
 右手が強く握られた。同じだけの力で握り返すことは無理だった。代わりに薄く笑って見せる。
 右手から伝わる熱が、体中を巡っていく。心地のよい温度に、瞼が段々と重たくなってくる。沈みかけた意識を引っ張り上げたのは医務室の扉を叩く音だった。

「失礼します。音波くん、轟くん、いるかしら」

 ヒールの靴音と、大人の女性の声。轟が片手でベッドカーテンを開ける。その隙間からミッドナイトの姿が見えた。

「音波くん、目が覚めたのね。よかったわ」
「ありがとうございます」

 ミッドナイトはベッドに近づくと、赤い唇で緩やかに弧を描いた。その弧をまた緩やかに解いて、真面目な面持ちで言う。

「試合結果は覚えてる?あなたたちは引き分け」
「はい。そこまでは」
「今フィールドを補修していて……終わり次第、常闇くんと爆豪くんの試合を始めます。その後、あなたたちには決勝戦進出を賭けて腕相撲で勝敗をつけてもらうわ」

 ああそうだったな。切島くんたちも腕相撲してたもんな。奏はぼんやりとした頭のまま、自分と轟が向かい合って腕相撲する様を想像する。それはなんというか、少し、いやかなり面白い絵面な気がした。
 けどその通りにはならないんだろうなと奏はわかっていて、それを残念に思いながら口を開いた。

「そのことですけど……僕、辞退します」
「は?」

 奏の言葉に、最初に反応したのは轟だった。奏を見る目は鋭さを帯びて、なにを言っているんだと目だけで訴えてきた。
 ミッドナイトも目を瞬かせたが、すぐに冷静に「理由は?」と問う。

「轟くんとの試合で、個性を使用超過した反動が出てます。手足がほとんど動きません」

 轟が目を丸めて、握ったままの右手を布団越しに見た。辛うじて指先くらいなら動かせるが、握るという動作すらろくにできない。

「時間経過で治りますが、決勝までに動けるかどうかもわかりません。動けたとしても万全ではないと思います」
「そればかりは治癒ではどうにもできないね」
 
 リカバリーガールの口添えもあり、ミッドナイトはスラリとした指先を口元に当てて考える。目を伏せ、睫毛が白い肌に影を落とした。

「わかりました。音波くんの辞退を認めます。決勝戦進出は轟くん」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあこのことをアナウンスしなきゃいけないので私はこれで。お大事にね」

 ミッドナイトが踵を返すと、長い黒髪が揺れて、ふわりと薔薇の香りだけが残った。リカバリーガールも離れて、また轟と二人になる。
 轟はなにか言いたそうな顔をしていた。けれどなにも言ってこない。だから奏の方から口を開いた。

「轟くん」

 名前を呼ぶと、ゆるりと奏に目を向ける。その目はどこか不満と後ろめたさを抱えた、子供のような色をしていた。それがまた少しだけおかしくて、笑う。

「僕はさっきの試合で君に負けたとかはまったくこれっぽっちも思ってないんだけど」

 一息に言い切ると、轟は勢いに驚いたのか「お」と短く発して肩を跳ねさせた。瞼が落ちてきそうになるのを堪えて、口を動かす。動かさないとまた眠ってしまいそうだった。

「でも見ての通り動けなくて、仮に僕が決勝に出たとしても……満足に動けない状態で戦ったら、多分決勝戦の相手にも怒られるからさ」

 想像しただけで笑ってしまう。まだ決勝進出の生徒は決まっていないのに、それでも奏の中では確信があった。

「だから君が出てよ」

 ここまでの戦いの中で、応えたい想いがたくさんあった。元々本戦には出場する資格のなかった身だ。それなのに繋いで託してくれた人たちがいて、ここまでこれた。
 なら、自分は轟に託すべきなのかもしれない。僕の分まで戦って欲しいと言うべきなのかもしれない。でもそうはしなかった。みんなからの想いを受け取るのは自分だけがよかったし、今の轟には、自分自身のために戦って欲しいと思った。
 笑った奏を見て、轟は一度硬く唇を結び、それから「わかった」と頷いた。
 いよいよ瞼が落ちてくる。意識と現実が形を失っていく。沈んでいく、静かな思考の中で思う。
 ああ、怒られるだろうな。
 轟に譲ったつもりはない。けれど結果として、奏は爆豪の想いに応えてやれない。
 尾白くんにも、梅雨ちゃんや障子くん、峰田くんにも悪いことしたな。僕なりにやることはやったけど、飯田くんに並べたかは微妙だな。
 足りないものばかりだな、と思った。競い合っていく中で、自分の中にない熱を知って、自分以外の熱を知って、その熱が移って、自分の中にもほんの少しだけ、火が灯ったような気がした。
 瞼を閉じると世界は無になった。それでも試合の中で一瞬だけ上がった炎が、瞼の裏で揺れた気がした。右手はまだ温かかった。



△▼△



 走ると振動が腕に響いて痛みが断続的に走った。痛みを無視して走る。
 ようやく辿り着いた部屋の扉を、ノックもせずに音を立てて開く。

「かなちゃん!」
「音波くん!」

 医務室に駆け込むと、リカバリーガールから「静かにお入り!」と喝が入る。飯田が「申し訳ありません!」と謝る言葉を背中で聞きながら、緑谷は医務室の中を見回した。

「あの、かなちゃんは……!」
「誰だいそりゃ」
「あ、お、音波くんです!音波奏!」

 自分しか呼ばない愛称では伝わらないとわかると、緑谷は慌てて訂正する。フルネームを出すと、リカバリーガールは「ああ」と眉を上げて頷いた。

「あの子ならそこのベッドだよ」

 リカバリーガールの杖が指す先には、ベッドカーテンの閉じられた寝台があった。礼を言って、ベッドに駆け寄る。開けたままだった医務室の扉から、麗日たちが入ってくるのがわかった。
 準決勝第一試合、轟対奏の試合は引き分けで幕を閉じた。奏の超音波を至近距離で浴びて動けなくなった轟は、自分もろとも奏を氷漬けにした。そのまま両者が意識を失ったことで、会場はしばし騒然とした。
 轟が気を失ったことで、氷を溶かすのに時間がかかってしまった。氷を溶かすのに有効な個性を持った教師陣を集めてどうにか二人とも救出されたものの、意識を失ったまま動かない奏が担架で運ばれていく姿は、緑谷の心臓を冷やした。
 それでも医務室に運ばれ、安心したのも束の間、フィールドの補修作業中に、ミッドナイトが宣言したのだ。

「音波くんは先程の試合による後遺症が大きく、試合続行は不可能と判断しました。よって決勝戦進出は轟くん」

 喉の奥が締まって、頼りない音が鳴った。
 緑谷は観覧席を立ち上がり、怪我も忘れて飛び出した。そこに飯田、麗日、蛙吹、峰田、障子も続いて、大所帯で医務室を押しかけて今に至る。
 緑谷は息が整う前に、薄桃色をしたベッドカーテンを勢いよく引いた。

「かなちゃ――ぁぁあ寝てる!!」

 ベッドに横たわる奏は、きっちりとアイマスクで目元を覆い、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。規則正しく上下する胸元。耳を澄ますと微かに聞こえる寝息。その姿はいつもとなんら変わらない奏の姿で、緑谷は急に体の力が抜けていくのを感じた。

「音波くん!無事なのか!?」
「寝てんじゃねえか!無事だろ絶対!」

 飯田たちが緑谷の後ろから覗き込むと、気配に気付いたのか、「ん……?」と奏が微かに声を漏らした。そしてゆっくりとアイマスクに手をかけて、額へとずらす。重たそうに瞼を開くと、奏の深い色をした瞳が緑谷たちを見た。

「……あれ、みんなどうしたの」
「お見舞いに来たのよ」
「音波くん大丈夫?」

 蛙吹、麗日の言葉を聞いて、ぱちりぱちりとゆっくりと瞬きをする。それから堪えられなかったのか、目を細めてあくびをひとつこぼした。

「寝ちゃってた。お見舞いありがとう。どう伝わってるかわからないけど元気は元気だよ」

 生理的な涙を滲ませたまま、奏は薄く笑った。奏の笑みに対して、飯田が眉を寄せる。強張った表情で口を開いた。

「後遺症が大きく、試合に出られないと聞いたぞ。本当に大丈夫なのか?」
「ああ、そういう感じで伝わってるのか……」

 奏は一度視線を外す。彼の言葉よりも先に、無機質な音声が会話に割り込んだ。

「邪魔ダ、人間ドモ」
「わっ!」

 緑谷は肩を跳ねさせて振り返る。そこには車椅子を押す一機の雄英ロボがいた。
 緑谷が退くと、ロボは前進し、奏のいるベッドの前で車椅子を停める。

「ありがとう」

 奏が礼を言うと、ロボは角張った金属の手で器用にサムズアップだけして医務室を出た。

「足をやられたのか!?リカバリーガール!!」
「いや違う。違うから落ち着いて飯田くん」

 慌ててリカバリーガールを呼びつけようとする飯田に、奏がやはり慌ててストップをかける。その動作もどこかぎこちなく、緑谷は違和感に眉を顰める。本人は大丈夫だと言うが、とてもそうは見えなかった。動きは緩慢で、口調もいつもよりゆっくりだ。動くのが辛いのかもしれない。
 緑谷の心配も知らず、奏は眠たそうな目を擦る。

「試合の後遺症って言うのは、個性を使用超過した反動のことだよ」

 反動、と口の中で繰り返す。それすら聴き取ったのか、奏は微かに頷いた。頷き、と言うよりは、ただ視線を落としただけに見えた。

「僕の個性は、僕自身を発音体にして音を操る……音は振動。出力を上げすぎたり、長時間使いすぎると身体機能が麻痺してくる」
「そうなの!?」
「言ってなかったっけ?」

 目を剥く緑谷に、奏はコトン、と首を倒した。聞いてないよ!と叫びそうになるのを堪えて、グッと唇を噛む。じゃあ今やたらと動作が緩慢なのも、体が痺れてるせい……?

「手足の末端から痺れがくることが多い。今もそう。時間経過で治るけど、今は歩けないから車椅子を用意してもらった」
「なるほどそれで……」
「歩けなくなるほど個性を使うのなんて何年振りかな……」

 自嘲を口元にだけ乗せたような笑みで奏が言った。ゆっくりとベッドから降りようとする奏を、麗日が浮かせて、障子が車椅子に乗せる。
 車椅子に座った奏は、器用に車椅子を操り、障子たちの方を向いた。その目はいつもの通り、温度の低い瞳だったが、声は湿った熱があった。

「障子くん、梅雨ちゃん、峰田くん。せっかく君たちが託してくれたのに……こんな、不甲斐ない結果で申し訳ないよ」

 ごめん、と続けた奏は項垂れるように頭を下げた。すかさず峰田が奏の脇腹に拳を入れた。奏の口からは鈍い声が漏れる。

「ウッ」
「馬鹿言ってんじゃねーや!三位だぞ!表彰台だぞ!もっと喜べ!」
「轟との試合、素晴らしいものだった」
「ええ、お疲れ様。音波ちゃん」

 脇腹に手を当てたまま、奏は三人を見て固まる。みんなそれぞれ違う表情をしていた。痺れた体のせいで、峰田の脇腹への攻撃が地味に効く。
 奏は腹をさすりながら、ぱち、ぱち、と瞬きをして、それから困ったように笑った。痺れているのか弧を描く唇は普段よりも歪だ。それでもその笑顔は、今日の空のように晴れていた。
 音波奏。ベスト3、棄権により敗退。
 


50:その左手は温かく

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