残響ユートピア07
その日、奏は玄関の呼び鈴が鳴る音で目が覚めた。
その鳴り方は今までに聞いたことのないもので、ピンポンと鳴り終わる前に何度もボタンを押しているのだろう。電子音が連なり、聞くに耐えぬ旋律が生まれて、よい目覚めとは言えなかった。
部屋の時計を見ると八時二十七分。人の家を訪ねるにしては早すぎる時間に、奏は眉を顰めた。その間にも呼び鈴は鳴り続けている。
「うるせえ……どこの馬鹿だ……」
悪態を吐きながら、のそりと体を起こしてカーテンを開ける。奏の部屋の窓からは玄関が見えるため、寝ぼけ眼のまま視線を下に向けてこの不快な旋律の演奏者を確認した。
そこにいたのは予想外の人物で、パチリと大きな瞬きとともに目が覚めるような感覚だった。
「かなちゃん!!」
玄関を開けると、そこには緑谷が立っていた。彼は口角を無理やり上げて、泣きそうな目をしていた。やけに興奮気味なのは聴こえてくるものでわかる。
「おはよう出久、こんな時間にどうしたの?」
「ごめんおはよう!あの、昨日のうちに電話しようかとも思ったんだけどやっぱり直接言いたくてついこんな時間から家まで……」
「ああ、うん、いいけど。とりあえず入りなよ。寒いでしょ」
奏は扉を大きく開けて、緑谷を家の中に招く。三月に入ったとは言え朝はまだまだ寒い。緑谷の鼻の頭も赤かった。あの呼び鈴の旋律は興奮と寒さからくる震えが原因だろう。緑谷は「お邪魔します!」と言いながら靴を脱いで上がった。
「おばさんたちは……」
「もう仕事行ってる。出久朝ごはんは?」
「あ、食べてきたよ」
「そう」
リビングに通して、ソファに座らせる。座らせても落ち着かないのか、ソワソワと体を揺らしている緑谷をキッチンのカウンター越しに見ながら客用のカップを準備する。
「コーヒーとココアどっちがいい?」
「あっ、ありがとう。じゃあココアで」
「ん」
お湯を沸かしながら、奏はカウンター越しに緑谷に声をかけた。
「で、どうしたの?」
「あの……!」
緑谷はきつく握りしめた両手を膝の上に置いたまま、奏の方に顔を向けた。緑がかった黒い瞳が、なにかを堪えるように揺れて見えた。
本当は想像がついていた。緑谷が奏を訪ねてきた意味に。ボコッ、と沸騰が始まる音がした。沸騰した水泡が弾ける音。
「っ……昨日、来たんだ。雄英からの、合否通知……!」
「……うん」
「それで、あのっ、僕……!」
声の震えを誤魔化すためか、緑谷の声量が上がっていく。目の周りと頬が赤くなっていくのは寒さからではないのだろう。水分を増していく瞳に、奏は胸の奥が重くなっていく。
緑谷は一度歯を食いしばって、振り絞るように言葉を紡いだ。
「っ……受かったんだ、雄英……!」
一瞬、呼吸を忘れた。
聞き間違いかと思った。けれどこの耳は無駄に出来が良い。聞き間違いなんてことはない。
ボコボコと沸騰する音と自分の心音がやけに響いて胸が詰まる。気がつけばふらりとキッチンから出ていた。足元がふわふわしている。
緑谷の座るソファの横に立つと、緑谷が奏を見上げてくる。その面持ちはどこか緊張しているように見えた。なんて、なんて言うんだっけこういうとき。僕はなんの言葉を準備していたんだっけ。
奏の心中を知らず、緑谷は言葉を続ける。
「あ、あの、それでかなちゃんももう通知が来てるかなって……」
「……うん、昨日来た……」
「だよね!それでその……結果は……」
自分を見上げる緑がかった黒い瞳が、間抜けな顔をした自分を映している。それを見るとなんだかもう駄目で、奏はへたりとその場に蹲み込んだ。ソファに座っている緑谷よりも頭の位置が低くなる。蹲み込んで目元を片手で覆いうつむく奏に、緑谷はギョッとして、アワアワと手を宙で動かした。奏のこんな姿は見たことがなかった。
「かなちゃん……?」
奏は目元を覆ったまま、長く息を吐く。言いたい言葉がありすぎて、ひとつも言葉にならない。それでもどうにか絞り出す。
「……春からも、一緒だ。出久」
ようやく出た言葉は、奏も自分で驚くほど小さくて弱かったと思う。それでも緑谷にはしっかり届いて、伝わった。一瞬表情をなくして、ゆっくりと口と目を大きく開いて表情を解いていく。奏も顔を上げると、緑谷は先ほどよりも泣きそうな顔で、頬を蒸気させていた。ついに目尻に涙が浮かぶ。
「かなちゃん!かなちゃんも……!」
「うん」
「うわあ!うわあぁ……!」
「ふ、うん」
つい口元が綻んでしまう奏の後ろで、ケトルがお湯が沸いたことを知らせる電子音を鳴らした。
△▼△
ココアの甘い匂いが、張り詰めていた感情を柔らかく溶かしてくれるようだった。じんわりと口に広がる優しい甘さが、詰まる胸に沁みていく。
「美味しい……」
「それはよかった」
奏は隣で「朝ごはんまだだったからさ。悪いね」とマーガリンを塗ったトーストを齧っている。そこは早く来すぎた自分が悪いので気にしないで欲しいと思いながらココアをちびちびと飲む。
あ、駄目だ。気が緩むとまた泣きそう。
ガバガバになった涙腺が、隙あらば涙を流そうとしてくる。それを誤魔化すようにココアを飲む。少ししょっぱく感じた。
どこからかミャオ、と鳴く声が聞こえた。部屋を見回すといつの間にかテレビの前に一匹の黒猫が行儀良く座っている。
「お、ノア。おはよう」
奏が微笑むと黒猫は返事をするようにもう一度ミャオと鳴いた。奏は食べかけのトーストを皿に置いて席を立つ。「朝ごはん出すからおいで」と声をかけると、それに従って軽やかな足取りで奏のあとを追う。途中緑谷の横を通るときには目を鋭くして尻尾を立て、毛を逆立てながらシャア!と鳴いた。奏のときとはえらい違いだ。緑谷は思わずビクリと体を震わせた。
「相変わらず嫌われてるねえ」
「なんでだろ……」
奏はカラカラとキャットフードをお皿に出しながら困ったように笑った。黒い艶々とした毛並みに、青みがかった灰色の瞳。ノアと呼ばれた彼は音波家で飼われている猫で、どういうわけか緑谷には一向に懐く気配がない。なにもしていないはずなのに。
「まあ勝己にもそんな感じだからな」
奏はノアの頭を撫でながらそんなことを言った。奏曰く、ノアは緑谷と爆豪にだけ懐かないと言う。音波家にお邪魔して顔を合わせるたびに威嚇をされているのだ。
「でも勝己よりマシだよ。あいつノアが威嚇すると威嚇し返すからさ。引っ掻かれたりしてるし」
「ひえ……」
自分は決してノアの機嫌を逆撫でないようにしようと心に誓う。ノアが朝ごはんに出されたキャットフードを食べ始めると、奏も席に戻って朝食を再開した。
サク、サクリと奏がトーストを齧る音、エアコンの微かな機械音、ノアがカリカリとご飯を食べる音。どれもが心地よく部屋に流れて、緑谷はぼんやりと部屋の壁を見ていた。なにも考えずにこうやって過ごすのは久し振りな気がして、ほろほろと時間が流れいてくる。
トーストを食べ終えた奏が、緑谷の方を見ないまま切り出した。
「あのさ」
「うん?」
奏の方に顔を向けると、カップに注がれたコーヒーの水面を見ながら、奏は硬い声で続けた。
「……ごめん、僕は、出久は不合格通知を知らせに来たんだと思った」
カップの取っ手を握る手に力を入れながら、奏は言う。その横顔は、いつもと変わらぬ表情で、でも少し苦しそうだった。
「一緒に雄英に行けたら嬉しいとか言っておいて、いざ試験を受けたとき、出久には無理かもしれないって思った。だから今日までその話をしないようにしてて……さっきも、慰める言葉ばかり考えてたから、祝う言葉が出てこなかった」
ごめん、と奏はもう一度口にした。緑谷は慌ててカップを机に置いて、大きく手と首を横に振る。
「それは……!仕方ないよ!それが普通だよ……!」
「違うよ。周りの人たちならそれが普通かもしれないけど、僕には違う」
奏がわずかに眉を寄せた。うつむく奏に合わせて紺色の毛先が下を向く。
誰が自分の雄英合格を想像できただろう。無個性の木偶の坊がヒーロー科に受かるなど、誰が。誰もできるはずがない、するはずがない。夢物語だ。なのに奏は。
「僕にとって出久は……ずっと、ヒーローになって欲しい人だった」
奏の言葉に、緑谷は動きを止めて目を見開く。奏の声は平坦で、落ち着いていた。ただ言葉を探すように、時折視線をさまよわせた。手繰り寄せるように、脆い場所に触れるように、その口振りは丁寧で優しかった。
「ずっと……お前を見てきて何度も思った。出久みたいな人がヒーローになるならって」
聞いたことのない話だった。今まで一度も。
「し、知らない。聞いたことないよ、そんなの……」
声が震えた。奏は目を細めて、困ったように薄く笑う。この顔を知っている。自分の無茶や無謀な行いのあとに見せる顔だった。
「言えないよ。言うつもりもなかったし」
唇が震えた。目の奥が熱い。聞いたことがない。奏から一度だってそんな話を。もう何年も友人として過ごしてきたはずなのに。
「心の話だ。体じゃない。出久の誰かを思って動ける気持ちが、ずっとヒーローみたいだと思ってた。ずっと……お前に会ったときからずっと、そう思ってきたよ」
声は優しい。絡まった糸を丁寧に梳いてほぐしていくような繊細さがあった。寝る前の読み聞かせのような温かさがあった。
「ずるいよね……言うつもりはなかったのに、出久が雄英に受かったって聞いて、今こんな話をしてる。お前になにもしてやれないのに、いつだってお前がヒーローになる姿に焦がれてた」
奏は今まで一度だってそんな風に思っていることを語りも、態度にも出さなかった。ただ幼馴染として、友人として、隣で自分の夢を否定せず聞いていただけだ。それだけで救われた。それだけで脆い夢をここまで繋いでこれた。
なのに、それだけで十分だったのに。
奏は緑谷へ顔を向ける。紺青の瞳はいつだって静かに自分を映す。映る自分は、頬に涙を伝わせていた。
「出久、この先もお前がヒーローを目指して進むなら、僕らは同じ道を歩いていくよ」
いつだって自分はみんなが歩む道の一番後ろを歩いている。誰も気にしない。後ろにいることすら気付かない。そんな中で奏だけが自分の手を引いてくれた。繋いでくれた。掴んでくれた。後ろを歩いていても離れないように、何度も振り返りながら。
それだけで十分すぎるほど、救われていたのに。
「ゔゔ……!」
「お前はほんと、泣き虫だね」
うつむき、拭っても拭っても溢れてくる涙をこぼす緑谷の頭を、奏は優しく撫でる。
ずっと憧れていた。いつか君の隣を歩けたらと。手を引かれるんじゃなくて、自分の力で、対等に、隣を歩める日を。ずっと。
鼻と喉が痛い。視界はずっと膜に覆われてぼやけたままだ。奏は頭を撫でる手を一層優しくしながら、迷うように言葉を続けた。
「出久が雄英に受かったのは嬉しいけど……前も言った通り、雄英はゴールじゃない。むしろお前にとってはここからがより過酷で……心配だよ」
それは自分が無個性だからだろう。緑谷は慌てて涙を拭って、しゃんと背筋を伸ばして、体ごと奏と向かい合った。緑谷が今日、奏の家にまで直撃したのは、合格を伝えるためだけじゃない。
もうひとつ、伝えなければいけないことがある。
「かなちゃん!」
「うん?」
「あの、その、僕、君にもうひとつ伝えなきゃいけないことがあって」
膝の上に拳を乗せ、いやに畏まる緑谷の姿を見て、奏も緑谷の方に体を向けて座り直す。緑谷は奏にバレないように細く息を深く吸って長く吐く。
落ち着け!声をなるべく震わせない!かなちゃんに嘘なんてついてもすぐバレる!嘘と事実をを織り交ぜて、悟らせないように……"個性"の話をする!
「かなちゃん、僕、実は」
奏から目を逸らさず、まっすぐに見つめ合う。ドッ、と重く重く心臓が鳴る。いざ伝えようとすると緊張と不安が勝ってしまう。緑谷は両手をきつく握り締め、息をするのも忘れたまま、放った。
「僕……っ、"個性"が出たんだ」
言い放つとき、緊張のあまり両目をきつく瞑った。心臓は馬鹿みたいにうるさく鳴っている。これは奏にも聞こえているだろうか。どうしよう、大丈夫かな。
「……?」
いつまで待っても奏からの反応がなくて、緑谷はそろりと肩瞼を持ち上げた。奏は目を見開き、瞬きもせずに緑谷を凝視していた。体も表情もカチリと固まったままの奏に、これは一体どういう反応なんだろうと、緑谷は内心で冷や汗をかく。
「ああああああ、あの、出たって言ってもまだ全然使いこなせなくてね!?だから実技試験も……」
捲し立てるように言葉を連ねる。沈黙が痛くて、それを埋めようと必死になる。
不意に、奏がゆらりと立ち上がった。突然立ち上がった奏に、緑谷もビクッと体を強張らせる。表情が動かなすぎて恐怖すら感じていた。
「……出久」
「は、はい!」
「チョット、タッテ、ソコニ」
「はい!」
なぜか片言で話す奏に気圧されつつも、緑谷は指示通り立ち上がり、言われてもいないのに気をつけの姿勢でピシリと直立した。それを見て、奏はやはりゆらりと、どこか不安定な動きで緑谷の方に寄ってくる。これから自分はなにをされるんだろう。そんな不安と恐怖に襲われながらも、緑谷は直立のまま、ゆらゆらと近寄ってくる奏を見ていた。奏は未だ瞬きの一つもしないまま、ゆっくりと緑谷に近付き、慣れない動きなのか、両腕をぎこちなく広げて、その腕で、緑谷を抱きしめた。
「……!? かなちゃ……」
突然の奏の行動に、緑谷は目を白黒させる。背中に回された腕が、ぎゅうと柔らかく締めつけた。緑谷はどうすればいいのかわからずに、拒絶も享受もできない。
「……僕は、本当に駄目だな……」
耳元で奏の、少しざらついた、低く深い水の底のような声がする。声が微かに湿っているような気がした。
「こんなに嬉しいのに……言える言葉がひとつも、ないんだ」
足りない言葉を埋めるように、奏が腕の力を少しだけ強めた。
そこでようやく、緑谷はああと思う。ああこれは、そうかこれはかなちゃんなりの、精一杯なんだ。
奏はお世辞にも表情豊かとは言えないし、なにを考えているのかわからないことの方が多くて、感情表現だってきっと得意ではない。長い付き合いで、それくらいは緑谷にだってわかる。そんな彼が、言葉では足りないからと行動で示している。
「嬉しいよ。本当に嬉しい。お前が……!お前が夢を追えることが、こんなに……!」
「かなちゃん……」
またじわりと視界が滲む。緑谷はそっと両手を奏の背中に回し、奏が着ているカーディガンをギュッと掴んだ。
こんな、こんな僕なんかのためにこんなに喜んでくれている。嬉しい。どうしようもなく嬉しいのに。
同時に罪悪感が胸を覆う。こんなにも心から喜んでくれている奏に、自分は嘘をついている。彼を騙している。"個性"は得た。嘘じゃない。オールマイトから無事に受け継いだ。ただし使いこなすにはまだかかりそうで、実技試験ではパンチ一発でバキバキに骨が折れた。
嘘と事実をないまぜに。たとえ奏相手にも、真実は話せない。
ごめんね。ありがとう。心の中で繰り返す言葉は当然奏には伝わらない。
奏は緑谷の肩に手を置いて、ゆっくりと体を離し、緑谷と顔を合わせた。笑っている。眉間にしわを寄せて眉を下げ、まるでなにかを堪えるように。眩しさに目を細めるように。そうして無理やりに口角を上げた口で言う。
「おめでとう、出久」
そう言ってから、いつもより大きく笑う奏に、緑谷の涙腺がついに決壊する。
「っ……かなちゃん!!」
「あっ、待ってスプラッシュはまずい。床濡れる。待って」
滝の如く緑谷の両目から流れる涙が、止まることなく床を濡らしていく。奏は緑谷の目元を拭おうとしたが、涙の勢いに負けて手を引っ込め、泣き続ける緑谷を見てまた笑った。
窓の外の桜の木には薄紅色の蕾が細やかに膨らんでいて、春が来ると告げていた。
07:芽吹け、春
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