▼ あなたのぬくもりが好きなだけ


※何年も前に煕子(史実の正室)に憑依トリップ。平和な世界。





「奥方様、光秀様が戻られました」

 一人の侍女が襖の外から報告を入れる。外は暗く、月の光と燭台の灯火だけが頼り。こんな時間なのだから、きっと先に湯船に浸かってくるはずだ。それにしても眠い。暗くなれば眠りにつき、明るくなれば起床するような時代。夜になってから、どれほどの時間が経っただろうか。最近の光秀様はいつもこのくらいの時間に帰ってくる。体を壊してはいないだろうか。
 煕子という少女に憑依してから早数十年。疱瘡という病気に掛かり、生死をさ迷っていた煕子と中身が入れ替わり、病は全快。荒れていた肌もツヤツヤになり、それはそれは周りに驚愕された。しかしまあ、まさかあの明智光秀と結婚することになるとは思わなかった。金柑頭と呼ばれるくらいだから、若いうちからハゲなんじゃ…不細工なんじゃ…と不安に思いながらも、政略結婚なのだからと、これがどれだけ我が家に利益を齎すのかを朝から晩まで母に熱弁され、いつの間にか自分で結婚に賛成していた。洗脳こわい。そして式を挙げたその日に光秀様と出会ったのだが、驚きである。何がって?あの明智光秀が髪の毛サラサラの美青年だったのだ。美青年の微笑みにコロッと落ちた私はそのまま光秀様にひたすら尽くしている。
 一度光秀様が浪人となってしまい、困窮した生活を送らなければならなくなってしまったとき。連歌会を催すために自分の髪を切って売り、そのお金で席を設けたことがある。私としては未来でショートヘアにしていた頃もあり、特に気にせず切ってしまったのだが、光秀様はそうではなかったらしい。これに痛く感動し、他に嫁を娶らないと心に決めてくださった。光秀様が喜んでくれたなら、もう何でもいい。それで良い。
 光秀様は私のことをナマエと呼んでくれる唯一の人。こちらの父親も母親も決してナマエとは呼んでくれなかった。それは仕方の無いことなのだけれど、出来ればナマエ、と私の名前で呼ばれたい。その願いを叶えてくれた光秀様は最高のお方だ。

「ナマエ、入っても?」
「はい、どうぞ」

 ゆったりと落ち着いた口調で声をかけてきた光秀様に襖を開けて返事をした。
 おかえりなさいませ。ただいま、寝ていても良かったのですよ?私が待ちたかったから待っていたのです。
 いつもと同じ会話を今日も繰り返し、二人で顔を見合わせて笑う。ここまでがいつもの流れ。髪をしっとりと濡らした光秀様が胡座をかいたので、机に置かれた手拭いで髪を拭いてあげる。やさしく、やさしく。髪を傷つけないように。光秀様は自分の髪がとても大切なようで、よく気にしているから。

「本日もお勤め、ご苦労様です」
「この程度、大したことは…」
「ありますからね」
「…ふふ、はい。 ありがとう」

 あ、絶対に今柔らかく微笑んだ。見たいなぁ。けれど今は光秀様の髪を乾かすというお勤めの最中。我慢しなくては。
 手を動かしながら、今日あったことを光秀様にお話する。娘の珠が私をお花畑へと連れて行ってくれたこと。そこで年甲斐もなくはしゃいでしまったこと。珠はその姿が衝撃的だったのか、とても楽しそうに笑っていたこと。そんな話を光秀様は幸せそうに相槌を打ちながら聞いてくれる。それが私は嬉しくって、ついつい話しすぎてしまうのだ。

「楽しかったのなら何よりです。ですが、あまり遠くには行き過ぎないよう…」
「心配症ですね…。大丈夫ですよ」
「珠のお転婆はナマエに似ましたね」

 それは否定できない。光秀様は普段から冷静な方。そしてとても優しく温かい心を持っている。それに対して私は幼い頃はやんちゃで、口論で男の子たちをよく泣かせていたものだ。そんなことが出来たのは精神年齢が周りよりも高かったからなのだけれど、それでも体に心が引っ張られていたような気がする。走るのは苦手だったはずなのに、何故だかよく駆け回っていたから。当時の話を光秀様は知っているので、くすくすと笑っていた。少しだけ恥ずかしい。
 その話を絶対に子どもたちにはしないようにと厳重に注意をすると、分かっていますと本当に分かっているのかどうか分からない雰囲気で返事をされる。実はお茶目な一面もあるため、信用ならない。
 髪が乾いたようなので、次は櫛で梳かすことにした。サラサラと流れる髪は私よりもずっと綺麗だ。男のくせに。羨ましい。うとうとし出した光秀様を見て、そろそろ寝た方がいいなと両肩をポンッと叩いた。これは終わりの合図だ。

「明日も早いのですよね。もう寝ましょう?」
「…いえ、もう少し話していたいです」
「だめです」
「どうしても?」
「そんな目で見てきても、だめなものはだめです」

 光秀様の腕を引っ張って、布団まで歩いていく。そしてそのまま先に私が寝っ転がり、隣を二回叩いた。するとゆっくり布団に入ってくる。いい子ですね、なんてふざけて頭を撫でてあげると擦り寄ってきた。もう私も光秀様も結構な年のはずなのに、どうして可愛く見えてしまうのだろう。惚れてしまっているからそう見えるのだろうか。

「ナマエ」

 名前を呼ばれたかと思うと、ぎゅっと抱きしめられた。私を包む体温に安心感を覚える。ああ、幸せだ。

「おやすみなさい」
「はい、光秀様おやすみなさい」

 目を閉じればもっと近くに感じる。大好きです、光秀様。ずっと側にいさせてください。ずっと隣に。最期のときまで。
 ふっと燭台に灯っていた火が消えた。
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