▼ 圧倒的『美』には敵わない


※未来軸。アラサーのつもりで書いています。



 糸師冴の一番はいつだってサッカーだ。酒も煙草もサッカーをする上で邪魔にしかならないから全て摂取していない。食事制限は徹底していて、休みの日だって、より自分の望むプレイが出来るように下手な休み方はしない。
 だから外食は殆どせずに栄養士を雇っているし、遠出も旅行も明日の体に響くからしない。オフシーズンに日本へ帰ることもあるけれど、それは家族に会うためであって怠けるためじゃない。
 サッカーに文字通り命を賭けている冴の予定に私が合わせるのが当たり前だと自分でも思っていた。

 多分、ずっと昔から。下手したら出会った頃に無自覚ながら一目惚れをしていた私は、冴本人が認知すらしていないファンに嫉妬して名前呼びを始めた。
 ぼんやりと冴のことを思い浮かべて栄養士の勉強をし、違う!好きじゃない!と意地を張って資格試験には挑まなかったり。かと思えばサッカーの試合会場でバイトをしたり。最終的には一般企業に入社したものの、スペインに支部のある会社を選んでしまったり。
 私の人生は糸師冴に左右されている。

 会社の話をすると、ならばスペインに来れば良いと言われ、入社から数年でスペイン支部へ異動。スペイン語は冴から教わり、加えて彼に誘われて一緒に暮らすことになった。
 いくら幼い頃からの仲とはいえ、恋情がなければ共に暮らそうとは言ってこないだろう。
 好きも愛しているも伝えられたことはないが、あの瞬間は確かに歓喜に震えていた。

 夜景の見える高級レストランでも何でもない、冴の生活拠点。
 生憎の空模様の中、専属の栄養士が作ってくれた献立通りの晩御飯を作り、全て平らげて数十分。
 跪いた冴がソファに座る私の指に触れている。

「うっ、……」
「どうした?」
「うえええん!ひっ、くっ、えええん!」

 柄にもなく声を上げ、ポロポロと涙を溢す。きっちりした、お気に入りのデパコスでしたメイクも落ちていく。
 人前で泣くような年齢じゃないのに。
 ぎょっとした冴が気遣わしげにティッシュで涙を拭ってくれた。
 ソファから降り、床に座った私はそんな冴の体に腕を回し、ぎゅうぎゅう抱きしめた。

「そんなに嫌だったか?」
「ちがうぅ……!」
「指輪、一緒に選びたかったのか?」
「ちがう!」

 冴が現役引退を発表して数日。プロのサッカー選手として最後の試合が目前に迫る中、シンプルなデザインの婚約指輪を私に渡した。

 付き合ってなんかいなかった。
 小さい頃からの友達で、私がまだ日本にいる間もずっと連絡を取り合ってきた。お互いの家にだって行き来していたし、体の関係もあった。冴が私のことを大切にしてくれているのだって知っていた。ただ、彼氏彼女の関係ではなかったのだ。
 漠然と将来、皺々のお年寄りになった時、きっと私たちは隣にいるのだとそう思っていただけ。
 お互いが自分にとってどんな存在かなんて確認したことがない。
 だから、そう。有り体に言ってしまえば、本当はずっと不安だったのだ。
 ──待たせて悪かった。俺と結婚してくれ。
 震えた声、指先。基礎体温が高いはずの彼の冷たい手。

「もう、もう!離してなんてあげないんだから!」

 痛いくらいに抱きしめ、のしかかる。しかし冴の鍛えられた体幹はびくともしない。
 糸師冴に出会ってしまったからだ。恋愛的な意味で他の男を好きになんてなれなかった。
 自分磨きが趣味の私はそれなりにモテていた自覚だってある。何度も告白され、それでも誰とも付き合わなかった。
 三十歳を過ぎ、不安に襲われるのも仕方のないことだろう。
 サッカー選手である内はサッカーを優先してくれなければ私だって納得はいかなかっただろうが、いざ引退が近付くに連れて本当に彼が私を貰ってくれるのか、有り余っていたはずの自信が消えてなくなりそうだった。

「私みたいにこんなに待ってくれる女、他にいないから」
「知らねぇよ。そもそもお前以外の女に興味はねぇ」
「そ、そんな言葉で騙されると思ったか!」
「騙すも何も本音だ」

 何だこの男は。普段は何も言ってくれないくせに、私のことがちゃんと大好きなのか。
 トクトク。押し倒すことを諦めて胸元に顔を押し付けると、冴の胸は早鐘を打っていた。
 大きな手のひらが私の頭を撫でる。時折髪を漉き、その感触を楽しんでいるようだった。

「結婚の前に恋人として沢山デートしたい」
「分かった」
「ツーショット、SNSのアイコンにしたい。もうそんな歳じゃないけど、お揃いにしたい」
「ん」
「学生の頃はプリクラとか一緒に撮りたかった。恋人繋ぎ、外でもしてみたい」
「我慢させて悪かった。やれることはこれから全部やればいい」

 私の我儘を一つも嫌だと言わず、全て受け入れてくれる。それどころか、私の我儘は我慢なのだと言ってくれた。

「最後の試合は俺のサッカー人生の集大成だ。積極的にゴールも狙う。サッカーに関してはお前に何もやれねぇ。だが、残りの人生は全部、お前にやる。だから、お前の人生も俺に渡せ」

 私の人生はとっくに糸師冴を中心に回っている。何を今更。どうしてそんなに偉そうなの。
 強引で自己中心的で、でも惚れた弱みで全部許せてしまう。
 返事はキスで。けれど不遜な態度をちょっとぐらい直せという意味を込めて、唇を甘噛みした。

 数日後。糸師冴の現役プロサッカー選手としての最後の試合。冴は一得点二アシストを決めた。
 ゴールパフォーマンスではカメラでもチームメイトでもなく関係者席を向き、左手の薬指に口付けを落としたことで、別の意味でも世界中が盛り上がった。

「サッカーに関しては何もくれないって言ったくせに」

 ゴールを捧げてくれた不器用な男が愛おしくて堪らなかった。





おまけ

「あっ……」
「あ?」

 待ち合わせ場所にいたのは婚約者──ではなく、その弟だった。
 都内有数の芸能人御用達の個室和食ダイニング。サッカー選手として海外で活躍していた婚約者が日本に帰国しており、誘われたお店に何故か彼の弟がいた。
 何故ここにいるのか尋ねようとした瞬間、タイミングよくスマホの通知音が鳴る。婚約者からの連絡である。
 ──取材が長引いた。凛とはもう会ったか?悪いが先に食べていてくれ。
 弟を誘っているなら先に言え。何回言わせれば分かるんだ。
 スマホのトーク画面を凛くんに見せると、チッと舌打ちをした。

「またかよ」
「本当に冴がごめんね……」
「……いや、俺の方こそ兄貴が悪りぃ」

 また、である。こうして待ち合わせ場所に呼び出され、未来の義弟である凛くんと二人きりになるのは片手で数えきれない。
 気を取り直して正面の席にお邪魔し、メニュー表を開いて何を頼むかを決める。あ、塩昆布茶あるとか珍しい。冴が来る頃に頼んであげよう。
 凛くんは緑茶を飲んでおり、なら私は烏龍茶を……と先に飲み物だけ注文してしまう。飲み物はすぐに届き、愛想の良い店員はすぐに去っていく。
 凛くんは家族とお酒を一度飲んだことがあるのだが、それっきりだそうだ。冴も凛くんもストイックなので、お酒はサッカーをやる上で毒だと判断しているらしい。冴が飲まないのならと私自身も勝手に禁酒していたのだが、冴の現役引退と共にそれも終了。たまに二人で飲んでいるのだが、今日は現役の凛くんに合わせて飲酒は避けることにした。

「凛くん、どれ食べたい?」
「これ。全部食べたらカロリー摂り過ぎになる」
「じゃあ半分貰ってもいい?そしたら他にも食べられるよね?」
「ん」

 ありがとうは言いづらいのか、軽く頭を下げられる。こういうところが可愛らしく、兄弟そっくりだと思う。目だとか、雰囲気で伝わるのが良い。
 サラダだとかの取り分けは凛くんが積極的にやってくれるので、私はそれをぼーっと見つめて、終わった後にお礼を言ってお皿を受け取る。

「この間のハットトリック凄かったね」
「別に」
「生で観られて感激しちゃった」
「は?来てたのかよ」
「うん。冴がチケットくれて」

 二人で観に行ったとなれば冴に対抗意識を燃やす凛くんは暴走する可能性があるため、そこは伏せて話を続ける。

「言ってくれりゃあ……」
「なに?」
「……何でもねぇ」

 続くのは恐らく、「会う時間を作ったのに」だろう。少し拗ねた様子だ。
 思わず身を乗り出して頭を撫でると、パシンと手をはたき落とされる。
 そっぽを向いて咀嚼を始めた凛くんは機嫌が治るまで話しかけない方がいいだろう。段々ソワソワし始め、こちらをチラ見するタイミングで話しかけるのが良い。そういう気難しい子なのだ。
 暫くして、ドアがそっと開けられる。それに気が付いたのはカメラアプリのシャッター音が聞こえたからだった。

「なに勝手に写真撮ってんだよクソ兄貴」
「……」

 凛くんを無視した冴は私の隣に腰掛け、凛くんのお皿からつまみ食いをする。カロリー計算がズレて激昂する凛くんを何とか宥め、自分のお皿から冴に分け与える。

「続けろ」
「は?」
「俺はいないものとして話してろ」

 この糸師冴という男、かわいい(弟)×可愛い(婚約者)=最強という方程式を見つけてしまっているのである。
 定期的に自分の婚約者と弟が二人きりの環境を作り、義姉弟としての仲を深めさせていた。
 現役引退後の彼のSNSの投稿はサッカー四割、顔を隠された婚約者三割、弟の話三割である。勿論のことであるが、引退してからの糸師冴はおもしれー男として有名だ。
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