▼ きみの面影を探して泣いた


 ――こぽり。
 実際にはそんな可愛らしい音ではないけれど、マスターの口から血が吹き出す。
 左胸からはそれ以上の血が溢れ、流れ、タイルを濡らした。それが月明かりに照らされ、鈍く輝く。彼女の真っ黒な髪の毛先が真っ赤に染まった。
 そんな様子を見て、数分前から対峙していたセイバーは目を見開く。こんなことは有り得るのかと。有ってはいいのかと。
 立ち止まり動くことのないセイバーを横目で確認しながら、マスターに近寄る。荒く呼吸を繰り返す彼女。彼女はまだ生きていた。死に抗っていたのだ。
 力の入らない腕を精一杯伸ばす彼女に応えるように、その手を握った。

「あ……ちゃ……」

 アーチャーと、か細い声で俺を呼ぶ。それはそれは嬉しそうに。
 ――嗚呼、何故。何故そんなにも笑うのだ。苦しいはずだろう、憎いはずだろう。なのに何故。
 声、出ないや。とそのことに顔を歪めると、すぐに声を出すことを諦めて念話を使う。そして改めて、アーチャーと私を呼ぶのだ。
 俺は彼女のその声が大好きだった。優しく、親愛を込めて俺を呼ぶ。心地が良かった。聖杯戦争の真っ只中だというのに、「おはよう、アーチャー」「アーチャー、晩ご飯なにがいいかな? 私としてはね…」なんてまるで一般家庭で行われるような会話を繰り広げる。それに素っ気ない返事しかしていない自覚はあるが、たった一言返すだけで、頷くだけで、マスターは花が綻ぶような笑みを浮かべた。敵から御身を守ったときには「アーチャーすごいね。本当に英雄なんだね!」と朗らかにはにかむ。だからきっと絆されてしまったのだ。

「見るな、と。 近付きすぎるなと、忠告したはずです」
『忠告じゃなくて警告、でしょ』

 ええ、ええ、その通りです。分かっているなら何故近付いたのです。何故触れてしまったのです。何故――"私"を見てしまったんだ。
 思わず握る手に力を入れ過ぎる。それに特に文句を漏らす訳でも無く、マスターはもう一方の腕を伸ばして、両手で俺の手を包み込んだ。弱々しい力、小さな手。彼女はこんなにも儚い存在だっただろうか。

 俺の内に潜む黒。誰にも見られたくないもの。俺を英雄と慕ってくれる彼女には殊更知られたくなかった。なのに彼女は見てしまった。警告を無視した。故にこれは仕方の無いことなのだ。そう、そうだ。仕方が無い。仕方が無いはずなのにどうしてこんなにも――。

 ここでマスターが亡くなれば、黒を忘れてくれると思った。魂はそのまま新たな生を受け、上手く行けばまた再会することが出来る。それはとても小さな確率だが、チャンスを逃す俺ではない。きっと掴んでみせる。いや、必ずだ。
 そして心新たにマスターとサーヴァントという関係を築き上げていくのだ。私(黒)を知らない、彼女と。
 そうすれば二人とも幸せになれるはずだと、そう信じて。なのに今の俺には達成感など何も無い。これは何なのだろう。
 息が浅い。胸の辺りがギュッと、まるで締め付けられているかのようで。

『アーチャー…』

 凛とした彼女の声が脳内に響く。けれどどこか焦っているかのような、余裕のなさが滲み出ていた。

「な、か…ない……で」

 泣く?私が?己の右手を目元に伸ばすと、酷く濡れていた。
 嗚呼、そうか。俺は、私は、苦しいのか。この感覚は苦しい、そして悲しい。彼女に死が迫っていることが恐ろしい。…何を今更。自嘲すると、その笑い方は嫌いだと訴えられる。

「こ、かい…し…て……ない…」

 一度瞳を閉じ、最期とでも言うかのようにマスターはそれはそれは愛おしそうに笑い、口を開いた。今出せる精一杯の声で、マスターは。

「あ、ちゃ……あるじゅ…な…だい、すき……」

 俺の瞳を見て、もう一度同じ言葉を繰り返すと力を抜いた。いや、抜けてしまったのだろう。彼女の右手がぼとりと滑り落ち、俺の涙で濡れた。

 後悔をしている。俺は間違えてしまった。
 彼女は黒を知ったとしても、受け入れてくれるくらいの器を持っていることは知っていたはずだった。それでも動揺や焦燥から信じきることが出来なかった。この人ならば信じられると思っていたはずなのに結果がこれだ。俺の落ち度。笑えばいい。

「マスター…名前」

 左手は繋いだまま、額同士をくっつける。おやすみなさい、名前。すみませんでした。謝って済むことではないと分かってはいます。それでも謝らせてください。

「ありがとうございました。 …俺も、大好きです」

 妹のような存在でした。しっかりしているけれど、どこか抜けている。そんなマスターから目が離せませんでした。私を慕うその姿が愛らしかった。
 もう、間違えたくはないな。
 黙って待ち続けていたセイバーに礼を言い、陣地に戻れと伝える。俺はここから離れるつもりはない。

「消えるまで俺は名前の傍に」





 一人ではなかったはずなのに、孤独を感じていた。なんて、可笑しいと思われるかもしれないけれど。
 両親もいる。友達もいる。けれど誰の一番にもなれなかった。
 親は私よりも魔術への探究心を優先して、私を日本へ置いて海外へ行っていたし、友達とは所謂親友ってやつにはなれなかった。それが何だか、少し悲しくて寂しかったんだ。
 そんなある日、私の右手に令呪が浮かび上がった。聖杯戦争については両親から熱弁されていたし、驚きはしたけれどなんだこの痣は?とはならなかった。
 特に理由はない。敢えて言うのなら、第六感に身を委ねて両親には何も相談せず、蔵にあった聖遺物を勝手に持ち出して召喚の儀を執り行った。そうして現れたのがアーチャー――アルジュナ。マハーバーラタの授かりの英雄。サーヴァントとしては一流な彼だけれど、どこか冷たい目をしている。
 ――綺麗だった。こんなにも綺麗な人を見たことがなかった。
 何が、と聞かれれば全てが、と答える。頭の良い人ならばこの感情を上手く表現することが出来たのだろうが、生憎私の頭はそこまでよろしくない。だから警告の意味も、そのときはまだよく分かっていなかった。

 相性が元々悪くなかったのだと思う。それなりの距離感でいたけれど、少しずつ近付いていった。もしお兄ちゃんがいたら、こんな感じだったのかな。
 学校で行われたテストを返却され、シュレッダーにかけて捨ててしまおうとしたとき。彼はそれを取り上げ、「これは何点満点なのですか?」と尋ねてきた。彼から接触してくるのは珍しかったので、吃りながら「…100点」と答える。するとふむ、と一つ頷き、私の頭を慣れない手つきで撫でてくれた。よく頑張りましたね、と。…お父さんにもお母さんにも、褒めてもらったことなかったのになぁ。
 インド人といえばカレー!という安直な理由から作ったカレー。サーヴァントは食事をとる必要がないと言いながらも、共に過ごすうちに、ある日突然一緒に食べるようになった。恐る恐る味の感想を求めると、美味しいと微笑んでくれる。私も何故か、いつもより美味しく感じた。…アーチャーの言葉、お世辞じゃないといいな。

 マスターはサーヴァントの生前の夢を見ることがある。私も彼の軌跡を辿った。ところがある日、不思議な夢を見たのだ。アーチャーの声で、「これ以上近付くな」「来るな」「"私"を見るな」と、拒絶の言葉を叫ばれる。恐かった。だって私の知るアーチャーは優しくって、気性も荒くない。でもそれって、その姿って――アーチャーの全てなの?
 その日はそこで目が覚めたけれど、胸に広がるもやもや感は拭えず、そしてもう一度同じ夢を見た。恐い、けど、近付いた。来るな来るなと怯える声。大丈夫、大丈夫だよ、とその声に返事をし続けた。自分に言い聞かせているっていうのもあるけれど。
 そして私は黒――クリシュナを知る。
 クリシュナを知ったは良いが、その後自分が何をしたのかは覚えていない。腹が立ってビンタをしたような気がしなくもないが…どう、だったんだろう。





 私は後悔なんてしていない。だって、アルジュナのことを沢山知れたから。この結果だって、もう少し上手く立ち回れたら変われたかもしれないのにとは思うけれど、まあ仕方が無い。
 胸に刺さった矢。溢れ出る血。とてもとても痛いけれど、私のことを何も知らないサーヴァントやそのマスターに殺されるくらいなら、こっちの方がいいんじゃないかな。なんて、私っておかしいのかも。

「アーチャー、アルジュナ…。大好き」

 最後にちゃんと伝えられてよかった。
 感謝しています。一緒に過ごせた時間はとても充実していて、世界が輝いて見えました。
 もし、もし、ね。またアルジュナと会えるなら、そのときはアルジュナの幸せそうな顔が見てみたいな。私が幸せにしてもらったんだから、今度はアルジュナの番。アルジュナが心から今が楽しいと、幸せだと、そう思える時が来て。英霊であるアルジュナにとってそれは束の間かもしれないけど、そのときはどんな形でもいいから、隣にいたいなぁ。






後悔したサーヴァントと、後悔していないマスターのお話
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