弐
膝をつき、困ったように笑う杏寿郎と目を合わせる。
手を伸ばされて頬に触れられ、やっと自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめん、ごめんなさい……」
最期に友が泣く姿なんて見たくないはずだ。鼻をすすり、涙を擦って拭いた。
笑おうとしても顔が歪んでしまう。カッコつけることも出来ないのか、私は。
腕を伸ばされる。
炎を模した羽織の中へ閉じ込められた。
背中に力なくゆるりと回された腕。こてん、と額と額がくっ付く。
「謝ることはない」
「でも、」
「泣かないでほしいのも本音だが、泣いてくれて嬉しいとも思っている」
いつものようなハキハキとした喋り方。けれど腹に穴を開けられ、大きな声は出ていなかった。
「最後に狡いことをさせてくれ」
頭に杏寿郎の右手が回り、そのまま引き寄せられる。そして、触れるだけの口付けを。
初めての口付けは血の味がした。甘くも、酸っぱくもない。
「……は?」
「涙は止まったな!」
止めてくれ。そんなに嬉しそうな顔をされたら、怒るに怒れない。
そのまま後頭部を撫でられ、優しく、愛おしげな視線を注がれる。今も尚煌めくその瞳は蜂蜜のようにとろりとしていた。
「好きだ、愛している。もうずっと好きで堪らなかった。俺は案外意気地無しだったようでな、中々気持ちが伝えられなかった」
恥ずかしげもなく、真正面から告げられる。
意気地無し?どこが?
死に間際とは思えないほど、杏寿郎は穏やかだった。
「これから死ぬ人間に愛を囁かれても困るだけだと分かってはいる。だが、それでも俺は貴女に、俺という存在を忘れてほしくなかった」
「なに、それ」
「独占欲というやつだな!出来ることならば、誰にも取られたくない」
先程までよりも強く抱きしめられる。頬と頬が触れ合う距離だ。杏寿郎の血が自分を濡らすが、そんなことはどうでもよかった。
普段よりも低い杏寿郎の体温が胸を締め付ける。大して高くもない自分の体温を分けられたらと願ってしまう。
私も腕を回し、強く抱きしめ返した。
「返事はいらない。どんな返事を貰っても、未練が残ってしまうからな」
杏寿郎の声が震えていた。彼もきっと泣きそうなのだ。
杏寿郎の想いに応えたいとは思う。けれど、私は恋愛的な意味で彼を好きなのだろうか。分からない。分からないけれど、でもこれだけは分かる。
私は彼に惹かれていた。この気持ちは恋にまでまだ昇華されてはいない。けれど、これから先の話。杏寿郎よりも良い男と出会えるかと聞かれればそれは否だ。
だって杏寿郎は私にとって特別なのだから。
心の内を曝け出せる唯一。彼のような人間にはもう二度と出会えないだろう。
そう考えればきっと、こんなことになっていなければ私はいつか彼の気持ちに応えていたのだろう。彼を好きになっていたのだろう。
煉獄杏寿郎はとても素晴らしい男だ。そんな人に好いて貰えた私は誰よりも幸せ者だ。
「杏寿郎、あのね……」
――私の名前、名前って言うの。
小さな声でひっそりと、秘密の話をする。
「産屋敷としての私はその名前じゃないから、誰も知らないの。知っているのは私と、杏寿郎だけ」
転生する前の、前世の名前だなんてはっきりと伝えることは出来ないけれど。だからこそ誰にも教えず、心の中で私が私に呼びかける時にだけ使おうとしていたのだけれど。
今なら教えてもいいな、と思ってしまったんだ。
「そうか……そうか!」
肩を掴まれ、また額と額をくっ付ける。
「では名前。名前は何も間違っていない。俺が保証しよう!だから何も心配しなくて良い。後悔もするな。今、自分が成すべきことだけを考えろ!」
彼の両手に包まれる。
「出来れば、父上と千寿郎のことを頼みたい。それからもう一度だけ言わせてくれ!」
――名前、愛している。
笑った彼は瞳を閉じ、力が抜けた腕が落ちそうになる。その両手を受け止め、ゆっくりと下ろした。
最期までピシリと伸びた背中はこんなにも傷だらけなのに逞しかった。
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