※ヒトデナシ
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私は病気だった。
だからこんなにも、パパとママは不幸なんだわ。
そう、悪いのは、すべて私。
どうして病気は、私を選んだのかしら。
病気は決して不便ではないけれど、私は他人を確実に不幸にしていたんだわ。


*



庭に居座る大木から最後の枯れ葉が一枚、風に攫われ散っていく光景を私はふかふかのベッドに寝そべったまま眺めていた。私の世界はいつだって、窓という一枚の壁で隔たれている。空の随分と低い位置にある太陽が、雑草と、名も知らない花と、枯れ葉で彩られた庭を淡く照らしていた。とても眩しい。遮光カーテンの開けられた窓から降り注ぐお日様の光に私は目を細めた。そこで不意に、頭上から伸びてきた細くしなやかな腕が華やかなレースカーテンを掴み、私の世界を閉ざしていった。

「聡里。お昼はカーテンを開けちゃ駄目でしょう?」

母は優しく、静かにそう言って私の乱れた髪を撫でつけた。夜は暗闇が全てを包み込み、何も見えなくなるからつまらなかった。けれど私はベッドから起き上がり、眩しさでちかちかとしていた目を擦りながら、「ごめんなさい」と素直に母に謝った。痩せこけた頬と色白の肌、艶を失った緩く巻かれた薄茶色の髪を鎖骨の上で少し揺らして、母は微笑んだ。母はいつも甘い匂いがする。それがお菓子の匂いなのか、それとも柔軟剤の匂いなのか、母が飲んでいる薬の匂いなのかは私には分からなかった。

「何を見ていたの?」

母はベッドの脇の小さなテーブルの上に置かれた、綺麗に磨かれた透明な水の入ったグラスと、錠剤を2、3粒手に取りながらそう言った。私はそれを母の細く白い手から受け取って、口に含んでから水で流し込んだ。喉を異物が通るこの不快な感覚は何年経っても私は慣れなかった。

「木の葉っぱがね、散ったの。最後の一枚。それと空、今日はとても低いところにお日様があるの」
「そうね」

母は微笑みながら頷いた。痩せこけていても、髪の毛に艶がなくなっても、母はいつだって綺麗だった。私の自慢の母。この窓一枚で隔たれた世界で、屋敷という籠の中で、最も大好きな存在。そんな母が、いつでも私の傍にいてくれる。それだけで私は幸せだった。一日中窓から外の景色を眺めているだけの生活でも、病気で外に出られない体でも、私は大好きな母がいてくれるだけで幸せだった。

「あら、聡里。リボンがずれているわ」

私は頭のリボンに手を伸ばしたけれど、自分ではリボンがずれているかどうかなんて分からなかった。母が微笑みながら、窓の方を向いて、という仕草をしたから私はそれに従ってカーテンの引かれた何の光景も写さない窓へ頭を向けた。母は、私の白い髪を三つ編みに結うピンク色のリボンをほどくと、私の腰にまで届きそうな長い髪を櫛で梳かしはじめる。頭のてっぺんから髪の先まで、三つ編みで緩く巻かれた髪が絡まないように、丁寧に。こういうとき、私は終わるまで物置のようにじっとしている。母の丁寧な髪の梳き方が心地よく、そのまま眠りに落ちてしまうこともあった。
母が腕を動かすたび、甘い匂いが漂ってきた。けれどその中に、母の病気のせいなのか特有の饐えた臭いがあるのも知っていた。私の髪を梳きながら、母は幾度か重く咳き込み、その手を止めていた。私が振り返り、「大丈夫?」と声をかけると母は相変わらず微笑んだまま「大丈夫よ」と返していたけれど、数ヶ月前から続く母の咳に、私は幼心に強い不安と恐怖を覚えていた。
大人しく窓の方を向き、髪を梳かれる心地よさに目を閉じかけようとしたとき、母がぽつりと呟いた。

「お外で遊べない体に産んでしまってごめんね」

私の目は見開かれた。どうして母が謝るのだろうと思った。
私は生まれつき病気だった。何でも先天性白皮症という名前の病気だそうで、今よりもずっと幼い頃、丸眼鏡をかけた医者に「治らない」ときっぱり言われたのを覚えている。そして母の病弱さをそのまま受け継いで、私は酷い虚弱体質だった。よく風邪を引いて体調を崩すし、それにときどき骨や関節が痛む。先天性白皮症、いわゆるアルビノのせいでお日様は天敵だから、そう簡単には外には出られないし、出してももらえない。けれど私は生まれてからずっと、このお屋敷に、部屋に閉じ込められていたわけではない。お日様のあたたかさだって、土の匂いだって、空の青さだって知っている。病気の体が不便だと思ったことはないし、自分の世界がお屋敷の中と窓から見える一部の景色だけでも退屈だとか思ったことはなかった。
だって私は母に愛されている。
母は私を愛してくれているし、私も母を愛していた。
私には母がいてくれればそれでよかった。ちっぽけな世界でも、病気の体でも、よかったのだ。

「大丈夫だよ、ママ。だって私、お家で遊ぶの、好きだもん」

つとめて明るくそう言って、母の顔を見た。母は何事もなかったかのように微笑んで、私の髪を梳かし、リボンを整えた。

「はい、できた」

母は可愛らしい装飾のほどこされた小さな手鏡を私に手渡して見せた。手鏡には乳白色の肌と髪を持ち、淡紅色の瞳をした少女が映っていた。私の白い髪にはピンク色のリボンがよく映える。手鏡の中の私の後ろには、痩せこけた美しい女性が映っていた。
母は背中から私をそっと抱きしめた。そのまま揺り籠のようにゆっくりと揺すられる。

「あぁ、私の可愛い聡里、愛しているわ」

母の甘い匂いに包まれながら、私は静かに目を閉じた。母の匂いだ。落ち着く、甘い匂い。
私は母を愛していた。このちっぽけな世界の誰よりも、母のことを愛していた。私だけの母。母が私を愛してくれるように、私も母を愛している。
心地よさにまどろむ。私の手から手鏡が転がり落ち、母は小さく咳き込んだ。
こんな穏やかな日々がずっと続けばいいのにと、愚かにも、私は思っていた。


*



数ヵ月後。酷い雪の降っている日だった。母がこの世を去った。病死だった。
純白の棺に静かに横たわり、白百合に囲まれる母は目覚めることはなかった。触れるとその肌はとても冷たく、そして硬かった。棺に縋りついて、大声で泣いている父の姿を、参列者に紛れて眺めていた私の頬は枯れていた。不思議と涙は出なかったが、エプロンドレスを着込んだ見知った女性に「お母様にお別れを」と声を掛けられたとき初めて、大粒の涙がぼろりと零れた。
――お別れ?どういうことだろう。もう二度とママには会えないし、声も消えない、他愛もないおしゃべりをすることも、ママの甘い匂いを嗅ぐことすらできないの?そんなの嫌だ。
女性はしゃくりあげる私の背をさすり、私の手に持つ最後の白百合を母の傍に添えるよう促した。また、大粒の涙が零れた。この白百合を手放したら、母がどこか、もっと遠くへ行ってしまうような気がした。私の隣で、父は大声をあげて泣いている。母の名前を呼び、どうして、どうしてと繰り返し泣き叫んでいた。父は母を愛していたから。
促されるまま、私は母の痩せこけた顔の傍に白百合を添えた。艶のない痛んだ薄茶色の髪に触れ、母が私にしてくれていたように、母の髪を優しく撫でた。冷たく、硬く、目を閉じた母は、やはり息を飲むほど美しいと思った。
この日から、元からなかなか家にいなかった父はさらに家に帰らなくなり、私はこの日初めて死が冷たいものだと知り、初めて黒い服を着て、そして私の世界は小さくなった。


*



重い咳を二、三度して、布団の中で寝返りを打った。もうこの世にはいない母の言いつけを守るように、私は窓を遮るカーテンを開けることはなかった。洗い立てのようなレースカーテンがいつも私の世界を遮断していた。最後に見た景色は、屋敷の敷地に迷い込んだ私とさして年の変わらないであろう子供が、母が手入れをしていた庭の枯れた花を摘んでいるものだった。一回りも二回りも小さくなった世界で私は身を縮めて息をする。季節は真冬に差し掛かり、私はあたたかいはずの布団の中で寒さに震えた。足がひどく冷たい。一人で眠ることがこんなにも寒いだなんて知らなかった。

「お嬢様、そろそろお薬の時間ですよ」

私が生まれる前からこのお屋敷に勤めている家政婦の霧子さんが、優しく、よく通る静かな声でそう言って、ベッドの脇にある椅子に腰かけた。重く咳をしながら、私はのそのそと布団から起き上がる。霧子さんは寒さに肩を抱いた私に、厚手のカーディガンをその肩にかけてくれた。母が亡くなった日から、私の体調は悪化した。毎日きちんと決まった時間に薬を飲んでいるにも関わらず、酷い倦怠感と微熱と骨の痛みが私を襲っていた。そんな私を霧子さんはまるで母親のように寄り添い、朝でも、昼でも、夜でも、ずっと看病をしてくれた。母とは違う微笑みを浮かべながら、霧子さんは私に綺麗に磨かれた水の入ったグラスと錠剤を手渡してくる。こんなものを飲んで、一体何になるというのだろう。そんな考えがふと頭をよぎったけれど、霧子さんの家事で荒れた手から水の入ったグラスと薬を受け取って、私は音を立てず静かにそれらを飲み込んだ。

「霧子さん、足が痛くてたまらないの」

私が痛みに耐えるような表情をすると、霧子さんは「失礼します」と一言添えてから布団を膝の上までめくった。そうしてふくらはぎから足首までを丁寧にマッサージしてくれる。霧子さんのあたたかい手のひらに包まれる私の幼い足は、健康な子供より幾分か細く、色白かった。足が痛いなんて嘘だ。ただ私はたまらなく、人のぬくもりが欲しかった。この体にとどまる、あたたかいものが欲しくて欲しくてたまらなかった。それが寂しいという感情だと、私は霧子さんの手のぬくもりを感じながら初めて気が付いた。今まで寂しいと感じたことはなかった。いつでも母が私の傍にいてくれたから。だから、母がいなくなって“寂しい”のだと気付いた途端、私の目頭は熱くなった。霧子さんに心配をかけまいと、涙を流すのをぐっと堪えて、私はカーテンで遮られた窓の方を向いた。
母はいつも傍にいてくれたけど、父は私の傍どころか家にいたことがなかった。数カ月に一度屋敷に帰ってきては、それが私と母をひとりぼっちにさせた償いだというように、病気の私と母を外へ連れ回した。そんなとき、母はいつもより少しだけ嬉しそうに微笑むのだ。それが家族三人で出かけられた嬉しさからなのかどうかは、今となってはもう分からない。母がそうやって微笑むから、私も嬉しくて笑っていた。父が母の名前ばかり呼ぶことに気付かず、私は母の傍で一緒に笑っていた。父は私のことなど見ていなかったのかもしれない。父は母を愛していた。けれど、父は母と同じように私を愛すことはなかった。私は所詮、母に付いてくるおまけのような存在だったのかもしれない。

「パパが家に帰って来ないのは、病気の私のことが嫌いだからなのかな」

閉ざされた窓の方を向いたまま、私は無意識のうちにそう呟いていた。ぴたり、と霧子さんの手が止まる。思わず霧子さんの方を見ると、驚いたように目を見開いていた。霧子さんは落ち着いた様子で、けれど少しだけ語気を強めて言った。

「決してそんなことはありません。旦那さまは、お嬢様のことを愛していらっしゃいます」

本当にそうだろうか。父はあの日から体調を崩した私のところへ来たことなどなかった。家に帰ってくる暇もないほど、研究者という仕事はそんなにも忙しいのだろうかと疑ったこともある。父が何の研究をしているかなど聞いたこともないし、母も教えてはくれなかった。ただいつも、「お父さんは立派な人よ」と言うだけだった。立派だからといって、私が愛されない理由にはならない。母がひとりぼっちにされる理由にはならない。
父はきっと、私のことを愛していない。それはおそらく私が病気だからだろう。きっと、普通の人とは違う髪色や目の色や肌の色が嫌いなのだ。だから父は私のことを見てくれない、私のことを愛してくれない。手を伸ばしたとしても、ぬくもりを得られることはできない。私はただ、今目の前にあるぬくもりに縋ることしか許されないし、縋ることでしか私は呼吸ができない、煩わしい子供。
私のまったく痛まない足をマッサージする手を止めたまま、霧子さんは私のほうをずっと見詰めていた。私はぎこちなく口の端に笑みを張り付けた。

「そうだよね、パパは私のことを愛しているよね。変なこと言ってごめんね」

霧子さんは安心したように息をこぼして微笑んで、私の細いふくらはぎから足首までのマッサージを再開する。私も霧子さんのあたたかい手のぬくもりを感じながら何もない閉ざされた窓のほうへ顔を向けた。肩にかけられたカーディガンの裾をぎゅっと掴む。
私の世界は閉ざされた。母を失ったあの日から、私はベッドの上で食事が運ばれるのを待ち、薬が運ばれてくるのを待つだけの囚人となった。この屋敷は監獄だ。血の繋がっていない私の世話をする人々が与える愛は、所詮偽りの愛でしかない。それが義務であり、職務なのだ。自らを母の代わりのように、母親のように振る舞っている霧子さんだって、本当は私のことを煩わしいと思っているかもしれない。嫌いだと、思っているかもしれない。あぁ、寒さは人をこんなにも卑屈にさせてしまうものなのね。私は小さく息を吐いた。暖房の付けられていない自室は吐いた息が白くなるほど寒かった。
そこで、唐突に、私の部屋の扉が乱暴に開けられる音が聞こえて、私は身をすくめた。霧子さんも私の足をマッサージする手を止めて、冷えきった布団を私のふとももまでかけた。乱暴に開けられた扉の先には、長いこと洗われていないであろう白衣と、白髪混じりのぼさぼさの黒髪をした父が、息を荒げて立っていた。

「聡里、ああ聡里。もう大丈夫だ、安心しろ。おまえが病に苦しむことも、死に脅えることもなくなるんだ」

父は嬉々とした表情を浮かべ私の名前を呼んだ。私は父のこんな表情を見たことがなく、そして父の言っていることの意味が分からず、ベッドの上で驚きに固まった。霧子さんも同様に、「旦那さま」と一言呟いてからは何も言わなかった。あれから一度も会いに来てくれなかった父が、汚い身なりではあるものの、今目の前にいる。そのことに、私は寂しさで埋もれていた心が嬉しさを感じていることに気付き、小さく笑みを浮かべた。私が「パパ」と父を呼ぶと、父はさらに嬉しそうに顔を歪め、私のほうへ歩み寄った。父が私を見る目に、嫌悪や憎悪や畏怖といった感情はまるでなく、霧子さんが言っていたように父は私のことを本当に愛していたのかもしれない、と思うようになった。嫌われているのかもしれないという私の思いは、ただの思いすごしで、私の心を埋め尽くしていた寂しさの所為だったのかもしれないと、そう、思うようになった。
父は手に持った小さな薬瓶を私に差し出して、言った。その表情はどこか、狂気じみたものだったと、今では思う。

「聡里、新しい薬だよ。度会先生が処方してくれたんだ。これでもう、聡里は病で苦しむことも、死ぬこともなくなるんだ」

私は父からその薬瓶を受け取り、中身をまじまじと観察した。黒い、絶望の象徴のような塊がそこにはあった。錠剤の一つ一つが黒一色で塗り固められた固形物。開けると溢れ出てきそうなそれは、小さな薬瓶にいっぱいに詰められていた。それが到底、病気に効く薬には見えなかったけれど、私は聞き覚えのある主治医の名前を父の口から聞いて安心していたし、幼い心はたった一人の父に不信感の欠けらも抱いてはいなかった。

「それを毎日、毎食後、一錠、きちんと飲むんだよ。いいね?」

私が素直に頷くのを確認すると、父は風のように部屋を出ていった。私は新しい薬を貰ったことよりも、久しぶりに父の顔を見れたことが嬉しくて、久しぶりに父の声が聞けたことが嬉しくて、高揚した。手の中で転がる小さな薬瓶が、父からの贈り物だと思うと、嬉しくてたまらなかった。私は父に愛されている、そう思った。
小さな薬瓶を丁寧に開けると、黒い錠剤が一粒、私の手の中に転がってきた。まるで、飲んでほしそうにこちらを見つめる固形物を、私は迷うことなく口に入れ、そして飲み込んだ。


*



この部屋に鏡はない。いつだったか母に手渡された手鏡は、手の中から転がり落ちて、行方が分からなくなった。
私はふかふかのベッドから起き上がり、そのまま裸足で絨毯に足をついた。心なしか体が軽い。ようやく寒さが和らいできた季節の所為か、それとも父から貰ったあの薬のおかげなのか。私はテーブルに置かれた小さな薬瓶を見た。底に黒い塊が数粒残っているだけで、中身はほとんど空になっている。きっとこの薬のおかげなのだと、私は確信していた。骨や関節が痛むことも減り、体調はいつも良かった。
私は笑みを浮かべた。もしかしたら、いつかまたお日様の下にこの身を投げることができるかもしれない。庭に出て、そして肺いっぱいに草の匂いを、土の匂いを取り込むのだ。空を仰ぎ見て、飛び立つ鳥を眺め、そして大きく手を伸ばそう。そんな淡い光を放つ未来を想像して、私は「ふふ」と小さく笑った。
今はもういない母と、最近になってよく屋敷にいる父の部屋の前を通り過ぎ、大きなステンドグラスの飾られたちょっとした広場を抜けて、屋敷の二階へと降りる。今日は少し遠回りをしようと、書庫の前を通ってトイレに向かった。いつも、慌ただしく大きな屋敷の清掃をしている霧子さんとは別の家政婦の人たちや、食堂の先にあるキッチンで食事の準備をしているコックさんとすれ違うことはなかった。この時間帯だと、食堂から空腹を刺激する料理の良い匂いが漂ってくるのに、今日だけは何故だかそれがなかった。不思議に思って私は首を傾げたけれど、壁に飾られた絵画の妖艶な女性と目が合うと、そんな気持ちはどこかへ消えてしまった。
トイレの重たい扉を開けて、電気を点けると、豪華な装飾のされた鏡に、乳白色の肌と長い髪を持った少女の姿が映った。その少女の姿に、自分の姿に、私は小さく喉を鳴らして、悲鳴を上げた。

「な…に、これ」

ようやく絞り出された私の声は、酷く震えていた。鏡に映った私の目は、白かった眼球は、濁ったようにどす黒い。目の錯覚かと思った。私は恐る恐る鏡に近寄って、顔を近づけた。不気味に輝く赤い瞳、それを覆い尽くすかのような黒い、強膜。錯覚ではない。目を擦ってこの色が取れるかと思ってみても、色が取れる気配はなかった。夢なら覚めてほしい、そんな思いは、背後から掛けられた声に遮られた。

「どうしたんだい、聡里」

父の声がした。落ち着いた、冷たい声音。それでも私は父のほうを振り返って、その身に縋りついた。自分の身に起きたことへの恐怖で、私はぼろりと涙を零した。

「目が…目が、変なの、パパ。私、どうしちゃったの」
「変?」

父は笑っていた、と思う。見上げる父の顔はどこか歪んでいて、その顔に張り付いた笑みは狂気じみていた。私はとっさに、掴む父の白衣を離して後ずさった。父の髪の毛は色が抜け落ちたように白かった。そしてその目は、黒かった目は、赤く不気味に輝いていた。私はその目に射抜かれる。ぞくりと背筋が震えて、肩を抱いた。寒い。怖い。父は、この人は一体何を企んでいるの。何を考えているの。

「変なんかじゃないさ、聡里。ちゃんと薬が効いたんだ。偉いね、私が言ったように、毎日、きちんと飲んだんだね。私が作った薬を、ちゃんと飲んでくれたんだね」

父の言葉を聞いた瞬間、身体に電流が走ったかのようだった。
――“私が作った”?あれは、私のお医者さんが処方してくれたものじゃないの?あれは、あの薬は、私の病気を治すための薬だったんでしょう?
私の考えを見透かすように、父は小さく笑って、言った。

「あれはね、あの薬は度会先生が処方したものなんかじゃないんだよ。私が作った、死を超越できるお薬さ。だからほら、聡里、今体のどこも痛くないだろう?苦しくないだろう?私たちは成功したんだよ、聡里。これでおまえは病気で死ぬことも、病気で苦しむこともなくなるんだ。これで一生、何も苦しまずに生きていけるんだよ、聡里。私たちは、永遠の命を手に入れたんだ。老いることも、老いて死ぬこともなくなるんだ。あぁ、大丈夫、既にマウスで実験済みだから、安心しなさい」

私の世界は音を立てて崩れ落ちた。それが絶望だと気付いたとき、私は確信した。父は私を騙していたのだ。そしてまんまと私は実の父の言葉に騙された。父は私を愛してなどいなかった。病気の私のことなど愛していなかった。病気が治るなんて、父は一言も言っていない。父が言うように、一生、私はこのままなのだ。一生病気の体のまま、生きていかなくてはならない。お日様の下に、身体を投げることなんて夢のまた夢だった。
私は鏡のほうをゆっくりと振り向いた。時間が止まってしまったかのようだった。そうだ、そういえばいつの日からか爪が伸びなくなった。髪が伸びなくなった。料理がとても上手なコックさんの料理を食べても、美味しいと感じなくなった。逆に不味いとさえ感じるようになった。だから、最近になってまともにご飯を食べていない。私は鏡を見つめた。赤い目をした少女と目が合う。長い白髪に、異様に白い肌。黒い強膜の上に映える赤い目が気持ち悪いと思った。これではまるで……

「…どうして?」

鏡に映った少女が口を開く。
――これでは、まるで、化け物みたいじゃない。

「どうして?パパ…どうして私をこんなふうにしたの?…戻して、元に戻してよ!!」

少女が絶叫するように悲痛に叫んだ。私は細い腕を振りかざして、鏡に叩きつける。大した力を入れていないのに、激しい音を立てて、鏡はひび割れ、そして大きく崩れ落ちた。大きく裂け、割れた鏡の破片が大量に降ってくる。腕を引っ込める間もなく、私の細い腕を切り刻んでいく。白い腕にいくつもの傷が走り、血が噴き出した。けれどもそれも一瞬の間。つい今しがた走った傷が見る見るうちに塞がり、再生していく。私は目を見開いた。普通ではありえないことが、今目の前で起こっている。ふわりと漂ってくる、血の甘い匂いに、私の空腹は刺激された。後ろで父が、歓喜の声を上げている。

「ああ素晴らしい!なんて再生力だろう!聡里がそれほどまでの結果を表してくれるなら、聡里の血液を媒介にして作った新しい薬も、きっと素晴らしい結果をもたらしてくれるに違いない!」

父は興奮している様子だった。私の血液を媒介?そうか、私は所詮、父の実験体だったのかと、私は思った。父はやはり私のことなど見ていなかった。母に付いてきたおまけ、いやそれ以下の存在だったのかもしれない。自分で作った薬を投薬されるほどの、実験用マウス同然の存在。父は私のことを、病気に侵された娘ではなく、病気で犯された子供の実験体として見ていたのだろう。父は私のことを愛していなかった。父は母のことしか見えていなかった。私は、父を……
ざわり、と背中がざわめいた。背中全体の血液が沸騰するように熱く感じた。洗面台に飛び散った私の血液が、ひどく美味しそうに見える。そのまま舐め取りたい衝動を抑え、私は奥歯をがちがちと噛み締め、溢れる唾液を押しとどめた。酷い飢餓が、感じたこともないような飢餓と空腹が私を襲う。あぁ、不味くても、不味くて吐いちゃうくらいでも、コックさんが作った料理をきちんと食べておけばよかったな、と頭の片隅でぼんやりと思案した。
私はゆっくりと、父のほうを振り向いた。自分の背中に生えているものが何なのか、私には分からなかったけれど、父はあからさまに、その顔に恐怖を張り付けた。

「聡里…?それは…何……」

命の危険を感じ取ったのか、父は後ずさった。父から漂ってくる美味しそうな匂いに、私は堪らずよだれを垂らした。あぁ、女の子がよだれを垂らしちゃうなんて、はしたないわ。私は服の袖でよだれをふき取りながら、微笑んだ。

「パパ、私、とてもお腹がすいたの」

父は悲鳴を上げた。どちゃり、と音を立てて片足を失くした父はその場に崩れ落ちた。床にどっと赤い血液が広がる。芳醇で、美味しそうな匂いが辺りを包み込む。私は背中から生えてくるものから垂れ落ちてくる血液を、自分の口に流し込んだ。ごくり、と飲み込む音を立てると、父は更に悲鳴を上げた。片足を引き摺りながら、父はトイレから這いつくばって出ようとする。駄目、逃げちゃ駄目よ。こんなにも美味しいのに。私はすかさず、これ以上逃げられないように父の残った片足を斬り落とした。悲鳴を上げる父がうるさいなぁと思ったけれど、私は足元に転がってきた父の太くて立派な足を拾い上げ、そしてその肉に噛み付いた。ぶちり、と肉を噛み千切って咀嚼する。弾力のある肉の食感に私は舌鼓をした。美味しい。今まで食べてきたものの中で一番美味しいと思った。コックさんが作る料理よりも、母が作ってくれたお菓子よりも、どんなものよりも、美味しい。
父は死への恐怖と絶望と、私への嫌悪と畏怖の目でぐちゃぐちゃになっている。素敵。人間ってこんな表情ができるのね。父は私の背中から生えているものと、血で体を汚す私を見て、「化け物…!」と言った。何を言っているの?私をこんなふうにしたのはあなたじゃない。「ふふ」と私は笑った。血まみれの口を開けるとき、ねちゃ、という音が聞こえて、さらに父は絶叫に似た悲鳴を上げている。私は一歩だけ、父のほうに歩み寄ると、足を失くした父は床にしがみついて這いつくばって、それでも逃げようともがく。

「やめ…っ、聡里、何をするんだ…!やめてくれ…!!」

“何をする”?私はただ、お腹がすいたから食事をしているだけだ。私を愛してくれない父を、私をただの実験体だと思っていた父を、人が豚や牛や鶏といった家畜を殺して食べるように、お腹がすいたから食べているだけだ。私は床にしがみつく父の腕を斬った。どういう原理で背中のものが動いているのかは分からないけれど、“斬ろう”と思えば父の片腕は飛んだ。そして二の腕にかぶり付く。咀嚼し、胃の中に納めていく。でも足りない。まだ足りない。お腹がすいて、たまらない。せっかくの綺麗な絨毯は、父のどす黒い血で汚れてしまっている。あーあ、あとで家政婦さんに掃除してもらわないと。生命力の強いらしい父は、こんなにも多量に失血しているのに、まだ“化け物”の私から逃げることに必死なようで、残った片腕で最後の力を振り絞って暴れた。私は、父のこんな無惨な姿に、何の感情も抱かなかった。ただ空腹を満たしたい、この飢餓を抑えたい、それだけが幼い頭を支配する。
どす、と私は父の背中に刃を突き立てた。父はひときわ大きくぎゃあぎゃあと騒ぎ、その口からごぼりと血を吐いた。ひゅう、ひゅうと情けない息をする父は、やがてびくびくと痙攣を繰り返し、そしていつしか静かになった。動かなくなった父親だった男は、異様な臭いを漂わせるただの肉の塊になった。私は肉の塊の傍にしゃがみ込み、裂けた背中から無理矢理に、見えるところの内臓を引っ張り出す。美味しそうに艶を出すそれは、私の食欲を掻き乱し、唾液を溢れさせた。たまらずかぶり付き、口の周りや衣服が汚れることも構わず、私は次々に内臓を引っ張り出して食べた。肉を咀嚼する音と飲み込む音だけが、辺りを埋める。
ようやく空腹が満たされたころ、私は自分の血まみれの格好と、床に沈む動かないぐちゃぐちゃの父を見て、何故かぼろりと涙が零れた。

「私……、もう、人間じゃないのね」

私は父を殺した。そして食べた。いつの間にか背中に生えていたものはなくなっていた。私は人ではなくなってしまった。異様なものが背中から生えて、血や、血肉が美味しそうに見えたし、実際に今まで食べたものよりずっと、父は美味しかった。
私は父が着ていた血まみれの白衣をはがして、ぎゅっと胸に抱いた。父の匂いがどんなものか、私は知らない。白衣に顔をうずめても、血の甘い匂いしかしなかった。どこか屋敷の遠くで、こちらに駆けてくるような足音がする。あぁきっと、この光景を見たらびっくりするだろうな。そう思ったけれど、私はその場から動く気になれず、白衣に顔をうずめたまま、泣いた。
大きくなる足音はやがて、聞き慣れた声に変わった。

「お嬢様…!」

霧子さんは息を荒げ、私を呼んだ。顔を上げると同時に、霧子さんは父の死体を避けて、私を抱きしめてきた。私が怖くないのだろうか。私が気持ち悪くないのだろうか。そう思ったけれど、黒髪を白に変えた霧子さんを見て、私はほっと息をこぼした。強い力で抱きしめられていると安心して、私はまたぼろりと涙を零した。「…私」と震えた声で呟くと、霧子さんは何も言わなくていい、と言うように首を振って、血で汚れた私の髪を優しく撫でた。

「大丈夫です、お嬢様。私は既にお嬢様の身に」

それがどういう意味かはすぐに分かった。私は霧子さんの肩に顔をうずめて、声をあげて泣いた。
私の世界は壊れ、そして産声を上げ、生まれた。


*



それから私はたくさんの人を殺した。
屋敷で働く者で、私を怖がったり、気持ち悪そうな顔をする人間は全員殺して食べた。屋敷から人間がいなくなると、私は夜目が利くことを利用して、以前より日光に弱くなったように感じたから、夜に街に出ては人をさらって殺して食べた。老若男女問わず、美味しそうだと思った人間をさらって殺して食べた。それがあまりにも危険な行為だと私を叱ったコックさんは、私の代わりに街に出て人間をさらってきた。そして屋敷の部屋に連れ込んで、生きたまま食べるのだ。悲鳴を上げ、救済を懇願する人間を食べることに、私は楽しいと感じるようになった。死ぬ間際、私のことを「化け物…!」と罵ってくるけれど、もうそんな言葉には慣れてしまった。私は人を食べることが異常だとは思わなかったし、私のことを非難する人なんていなかった。それが私たちの食事であって、決しておかしなことではないんだもの。人間だって豚や牛や鶏といった家畜を殺して食べるでしょう。それと同じことなのよ。
もうそのような生活を始めて幾年が過ぎたのか分からない。その幾年の中で、この国は変わった。私たちの薬を大量に購入し、そして世界各国の間で起きている戦争に参加して勝利を収めていた。私には関係のないことだけれど。
私はふかふかのベッドの上で日課の読書を楽しみながら、カーテンの開けられた窓の外を見た。蒼い暗闇に広がる、手入れのされていない庭。その窓に映る自分の姿は、10歳のころの私とまったく変わっていなかった。そういえば、父が老化が止まるとかどうとか言っていたことを思い出して、私の中身はもう既に10歳でないことを悟った。確かに、いつの日か敷地の庭に迷い込んだ子供に酷似した大人をさらって食べていたとき、私の変化しない肉体に疑問を抱いたことがあった。そうか、老化が止まっているのだった。まるで時間が止まっているかのようね。私は切り揃えられたまま伸びない爪を眺めながら、小さく笑った。
そこで部屋の扉がノックされる音が聞こえた。「どうぞ」と言うとエプロンドレス姿の白髪の女性が、お辞儀をしてから部屋に入ってくる。

「お嬢様、あの薬が完成したそうです」

その言葉に私は嬉々とした表情を浮かべ、軽快にベッドから弾み起きた。「本当?」と私が聞くと、女性は微笑みを浮かべ頷いた。あぁ、素敵。ようやく完成したのね。私は年に似合わずとび跳ねるように嬉しさを表した。読んでいた本をぎゅっと抱きしめて、私は笑った。

「じゃあ、始めましょう。この世界を正すのよ」

そして私の世界は創造された。


彼女がこの世に生まれた昔日について

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少女が母体に至るまでの前日譚

余談ですが、人間だったころに病を患い、スラッグやブローカを服用し、悪性(良性)分子となった場合、病は治ることなく、徐々に、けれど確実に進行します。


20160411 乱月

空色パラノイア