※ヒトデナシ
--------


解像度の悪いモニターから今日だけで3度目の断末魔の悲痛な叫び声が聞こえる。
荒い動画を映し出すモニター越しからでも分かるほど多量の血を吐き、硬く冷たいコンクリートの床を暫くのたうち回っていた白い髪をした青年は、引きつった息を漏らしながら幾度か痙攣し、やがてぴくりとも動かなくなった。画面外に立っていた白衣らしきものを羽織った別の男が、血まみれで床に横たわる青年へと近付き、手短にその身体を検めたあと、自身のインカムへ向けて声を発した。

「対象の『死』を確認。蘇生まで…およそ20分」

見物するようにモニターを眺めていたまた別の男が、バインダーに挟まった薄っぺらな紙切れに何やら書き込みながら、短く「そうか」と返事をした。男の隣で膝を抱えて椅子に座り、険しい顔つきで同様にモニターを見つめていたサトリは、その男の素っ気ない返事に眉をひそめた。一体何が「そうか」なのか。毎日同じことの繰り返し、毎日違う方法で、モニターの向こうにいる、まだ名前も知らないあの青年をただ惨く殺しているだけではないか。ある日は絞殺、またある日は毒殺、サトリ自ら彼の四肢を斬り落として殺した日もあった。これでは実験という名ばかりのただの人殺しだ。
…いや、『人殺し』という言い方は語弊があるかもしれない。自身はもちろんのこと、彼ももはや人間ではない。サトリは自嘲するように口の端を緩めた。隣の男と画面の向こうにいる男とのやり取りなど初めから興味はなく、彼女の意識はずっとノイズ混じりのモニターに映る、自分が吐き出した血で汚れた床に臥したまま動かない青年へと向けられていた。白衣を纏う男に乱暴に腕を掴まれ、無造作に血液で汚濁した寝台へ放られても、青年はぴくりでもなく、死んだように動かない。いや、死んだようにではなく、彼は今実際に死んでいる。彼は今呼吸をしていない、その心臓は鼓動していない。実験と称した人間の身勝手な戯れの回数を重ねるごとに、濃度を増していく毒薬を無理矢理飲まされ、その度に血を吐き、体内を焼き尽くすような強烈な苦痛に悶えのたうち回って死んでいく。そして彼が死ぬ度に例の新薬を投与し、蘇生までの時間をカウントするのだ。
何が「生命力と再生力を測るための実験」だ。笑わせるな。私たちや彼が、人間とは似て非なる生き物だからといって何をしてもいいというわけではない。私たちや彼にも、人間と同じような意思と五感と、喜怒哀楽といった感情を持ち合わせているのだ。人間から弄ばれ、簡単に殺されてもいいような、死んでもいいような、生きている道具ではない。サトリはそこまで思案して、深く息を吐き、暗くカビたような天井を見上げた。隣で手の中でボールペンを回しながら、モニターの向こうにいる白衣の男と「今度は重りでも付けて水の中に沈めてみるか」などと下卑た談笑をする男を横目で見て、サトリは小さく舌打ちした。こいつらが父の遺した部下など知ったことではない。虫酸が走る。

「…もううんざりだわ」

サトリの怨恨のこもったような呟きに、男はあからさまに怪訝な顔をした。サトリがおもむろに椅子から立ち上がるのと、男がボールペンとバインダーをデスクの上に置くのはほぼ同時だった。男は自分より遥かに小さいサトリを見下ろしながら、小馬鹿にするように鼻で笑い、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。その顔は同族を見るものではない。人間の皮をかぶり、あたかも自分が本当の人間かのように振る舞う化け物を嘲り、蔑むような、サトリにとって不愉快極まりない顔で男は慇懃無礼に言った。

「一体全体、何がご不満だと言うんだい、『お嬢様』は」

サトリはその言葉に何を言うでもなく、ただにっこりと冷笑した。
一呼吸置いて突然男の首に赤い一線が走り、あっと声を発する間も無く噴き出す血液の勢いで男の首が宙に飛び、重力に任せてそのままごとり、と鈍い音を立てて床に落ちる。瞬く間にモニターや灰色の壁や床をおびただしく真っ赤な血まみれにして、男の身体だったものは、やがてその場に崩れ落ちて動かなくなった。男の周りにいた同僚らしき数名の研究員も男の唐突な死に呆然とし、急に小さく悲鳴をあげたかと思えばその身体たちは縦や横に真っ二つに裂けて崩れ落ちる。

「お前たちはもう不要だと言っているのよ」

サトリは背中から発生した分肢、彼女自身が『身体から分かれ出た四肢』という意味合いで呼ぶそれに付着した血を薙ぎ払い、再びその身に収めながら吐き捨てた。豆腐のように柔らかく、簡単にバラバラになった人間の肉を興味なく一瞥すると、サトリは部屋の隅で姿勢良く直立不動で静かに佇んでいる白髪の女性に命じた。

「キリコさん、この死体、片付けておいてくれるかしら」

大量の血で濡れた所為で一層ノイズが酷くなったモニターの向こうで、急に何の応答もしなくなったことに激しく動揺している雑音が混ざった男の声が煩わしい。キリコと呼ばれたその女性は、モニターが映す地下へ続く階段を足早に降りていくサトリに「かしこまりました、お嬢様」と丁寧にお辞儀をした。
サトリは何故こんなにも自分があの青年にばかり意識が向いているのか分からなかった。惹かれている、と言ってもいい。重篤な副作用も出ずに、まともに自分たちとは違う新薬と適合した初めての存在だからだろうかと思ったが、たぶん、それは正解であって正解ではないのだと、思う。
駆け降りた階段の先にある、ところどころ錆が目立つ扉のノブを引っ掴み勢いよく開けると、白衣の男が未だにインカムに向かって声を荒げていた。鬱陶しい。サトリの険しい表情と服の至る所を真新しい血で汚す彼女の姿を見て、インカムの向こうから応答がなくなった理由を悟ったのか、男は震え上がり小脇に挟んでいたバインダーを床に落とした。サトリが「お前ももう要らないわ」と理不尽に吐き捨てると同時に、男の身体は一瞬で横に裂かれ、声もなく血を噴き出しながら床にどちゃり、と崩れ落ちる。
サトリは自分を落ち着かせるように静かに、深く酸素を呼吸した。部屋には二つの鉄の臭気が漂っている。そこでようやく、衛生上問題がありそうなほど血液で汚れた寝台に横たわる青年へ目を向けた。
異様なほど病的に色白く、血の気の失った腕には幾つもの注射痕と雑な点滴による内出血が見て取れる。ご丁寧にその上から新しい点滴が施されているが、本当に効いているのか甚だ疑わしい。そして何より高濃度の毒薬による言葉にならない苦痛で、無意識に自分で掻き毟ったであろう喉元の、肉が抉れたような、赤い無数の傷跡が酷く痛々しかった。時間を置かずに何度も、何日も、惨い殺され方をされていたのだから、再生が間に合っていないのも頷ける。

「…可哀想な人」

ぽつりと、サトリは小さく呟いた。この青年も元は自分と同じように人間だったのだ。ただ人として生きていた。そんな普通で当たり前のことは、残酷にも同じ人間に奪われた。もう未来などない、もう過去などない。この青年の『人間』は死んでしまった。望まない身体と、望まれない命。まるで、父という人間に全てを奪われた私のようだと、サトリはぼんやりと思った。
そこで唐突に、呼吸すら止まっていた青年の身体がびくりと一つ弓なりに痙攣して、焼け爛れた喉から引きつりながら酸素を吸った。ああ確かに、殺した研究員がいつだか言っていた、あの実験体は再生力が無駄に高いらしいということを思い出して、サトリは彼が無事に息を吹き返したことに安堵した。突然の吸い込まれた酸素に幾度も苦しそうに咳き込み、赤黒い血を吐き出していた青年は視界にサトリの姿を捉えた途端、その目に明らかな怯えと恐怖の色を見せ、逃げるようにシーツを掻き、もがいた。
そんな体力なんて微塵もないくせに。憐れむ気持ちでサトリは目を細めた。サトリはひゅう、ひゅうと風の音のように喉を引きつらせながら躍起に酸素を呼吸し、もがこうとする彼の両肩を寝台へ押さえつけた。彼は声にならない声で何かを言っているようだったが、何を言っているのかは分からなかった。サトリはゆっくりと、青年の目を見ながら言葉を紡いだ。

「ねえ、大丈夫よ。もうあなたを殺す人なんていないし、私はあなたに危害を加えるつもりもないわ。だから落ち着いて、大丈夫」

きっとまだ体中に回った毒が完全に抜けていないのだろう。苦痛に目を閉じ青年はまた多量にごぼりと血を吐いて、もがくのをやめ、怯えと恐怖で緊張し強張っていた身体から急速に力が抜けていく。サトリは悶えのたうち回った所為で乱れた青年の病衣を正してやり、申し訳程度に足元に掛けられた貧相な毛布を胸元まで掛けてやった。いっそ意識を失うか、死んでいた方がマシだろうに、青年の胸は不規則に上下する。
サトリは寝台の脇に置かれていた水の張った金属の平たい桶の中で持っていたハンカチを充分に濡らして、青年の血で汚れた頬と口の周りを拭った。青年を眺めるように寝台に腰掛け、サトリは優しく、やんわりと声をかけた。

「私はサトリよ。ねえ、あなたの名前は何というの?名前がないととても不便だわ、だから教えてほしいの」

応えが返ってこなくてもよかった。青年の朦朧としている意識を現実に留めておければいい、返事がなくてももう少しだけこの人と会話していたいと思った。もう一度「ねえ」と声をかけると青年は僅かに目を開けて、サトリの声に答えるように何かを紡ごうとしたが、口腔からは言葉ではなく赤黒い液体が溢れ、伝い落ちる。サトリは慌ててそれを拭ってやり、「ごめんね、喋るのもつらいよね」と青年の白い髪を撫でながら素直に謝った。
ふと床に落ちていたバインダーのことを思い出して、サトリはそれを手にとって見る。どうやら青年に関する簡単な情報とその他、らしい。今日までに行ってきた実験の簡略された内容は流し読みする。先ほど躊躇なく殺した男の血でところどころ判読できなかったが、今まで分からなかった青年の名前は判明した。
サトリはどこか嬉しそうに微笑み、青年の名を呼んだ。

「そう、あなたはキヨノというのね」

キヨノと呼ばれた青年はサトリの問いに肯定するように、一つ長くまばたきをした。サトリは彼の音のない返事に満面の笑みを浮かべた。屋敷に仕えている以外の同種と言える存在とまともな会話したのは、もしかしたら彼が初めてかもしれない。サトリにはそれがひどく嬉しくてたまらなかった。白く透き通るような肌をほんのりと赤く染め、サトリの気持ちは高揚した。言葉がなくてもいい、この人ともっと会話していたい。今まで誰にも喋ることができなかった他愛もないことを聞いてほしい。私のことを知ってほしいし、私も彼のことが知りたかった。けれど、頭で巡らせたいろいろな言葉は喉につかえて音になることはなかった。
自分たちとは違う新薬と適合したということは、彼は、キヨノはこれから先、そう遠くない未来で、サトリたちの敵になるということだ。無理矢理に人の世から切り離され、人の身を奪われ、殺され、望まない命を与えられて生きていくのだ。この世の摂理や根底にあるルールを壊し、そんな仕組みにしたのは紛れもないサトリ自身だ。

「…本当に、可哀想な人」

サトリは乱れたキヨノの白い髪を丁寧に撫でつけた。人間から化け物と蔑まれ、至る場所で差別されて、疎まれる。それでも、誰にも望まれない命でも、生きていることが許されない命だったとしても、生きていたいと願い、命を請うことはそんなに罪深いのだろうか。
傷もないのに胸が痛む。サトリは胸に当てた手で襟を握りしめた。他者を喰らってでも生きることを選んだ私は間違いだったというの?喰べることをやめ尋常ではない飢えに苦しみ、その身を陽射しにでも晒して、焼け死ねばよかったの?
それとも、病に蝕まれ、あのまま死んでいればよかったのか、人を喰らう化け物に成り果てるぐらいなら、死んでいればよかったのか。サトリは自問を繰り返した。
見下ろすキヨノの蒼白とした頬に透明の液体がぽたりと落ちる。それが自分の目から溢れる涙だということにサトリは暫く気付けなかった。強く唇を噛み締め、サトリはゆっくり言葉を紡いだ。

「私たち、もう人間じゃないのよ。人間を喰べる化け物なの、人間を喰べることでしか生きていけないのよ。…ねえ、キヨノくん。あなたはこんな醜い化け物になっても、それでも生きていたいと願うの?」

虚ろな目でサトリを見つめるキヨノの深紅色の瞳の奥が、揺れ動いた。目尻から涙が溢れて、流れ落ちる。彼の乾いた色を失った唇から、か細く消えてしまいそうな、音のない言葉が幾つかこぼれる。キヨノは苦しそうに嗚咽を漏らした。溢れてくる涙の所為で、より一層ひどく視界が歪み霞んでいく。彼の精一杯の言葉に、サトリは瞠目した。それからすぐに自分の顔がくしゃくしゃに歪んでいくのが分かった。ぼろぼろととめどなく流れていく涙がキヨノの頬を濡らしていって、サトリは震えた幼い声で呟いた。

「私たち、同じだね」

生きたい、死にたくないと音のない言葉を紡いだキヨノは、自分の胸元で突っ伏して泣くサトリの独白を、極度の疲労による強烈な睡魔に、頭の奥がまるで麻酔をされたかのように白く混濁していく中で、静かに聞いていた。

「私も、死ぬのが怖いの。笑えるでしょう?たくさんの人間を殺したのに、たくさんの人間を喰べたのに、それでも自分が死ぬのは怖いの。生きていたい、誰かに首をはねられて殺されたくない。けれど私たちは人間の敵なの。だからきっといつか死ななければならない日が来るわ」

サトリは穏やかに身を起こした。力無く寝台に投げ出されたキヨノの手に、彼女の長く柔らかな白髪がかかる。重いものを返すように掌を返すと、彼女のそれを手の中に受け止めることができた。
睡魔の誘惑に抵抗するように、キヨノは弱く首を振った。眠りたくない。次に目を覚ましたとき、自分は彼女のことをすべて忘れているような気がする。今日までに自分が人間から受けてきた惨い仕打ちを、まるで初めから無かったかのごとくすべてを忘れている気がして、この胸中に淀み渦巻くどろどろとした真っ黒な感情を一体誰にぶつければいいのか分からなくなってしまいそうで、キヨノは泣き腫らした目で縋る気持ちでサトリを見据えた。
サトリは乾いた涙の上で、そっと微笑んだ。まるで人の死を迎える天使のようだった。そんなキヨノの意中を察してサトリは優しく、濡れた彼の頬を撫でて「大丈夫」と一言呟いた。

「だからそのときは…そのときは、キヨノくん。あなたが私のことを殺してね」

それが何を意味するのか、睡魔に絡め取られる思考では理解には至らなかった。ただ、自分が自分以外の誰かより先に、彼女のことを殺さなければならないという強い気持ちだけは、忘れられないほど深く刻まれた気がした。
心地の良いあたたかいサトリの手に包まれて、やがてキヨノは泣きながら眠りについた。眠っても尚変わらず苦しそうに、喘鳴のする呼吸を繰り返す彼が愛おしい。
こんなにも純粋に、当たり前に生きたいと願い、死にたくないと命を請い、醜い化け物に変容しても貪欲に生にしがみつく彼はとても美しく愛おしいと思った。それらが今までのサトリにとっては当たり前が当たり前じゃない世界だったから。当たり前に生きていくことができなかったからこそ、尚更彼のことを美しく愛おしいと思った。同じように足掻いても、彼は純粋で歪みがなかった。そんな彼を壊してみたい。他の誰でもない自分の手で、壊れ落ちていく彼を見てみたかった。そう思う私は、もう落ち続けるだけの存在でしかないのだ。

「…おやすみなさい、キヨノくん」


サトリは名残惜しそうにキヨノの髪を撫でつけた。これから彼を襲う幾つもの絶望と理不尽について考えを巡らせようとしたが、しかしサトリは頭を振った。
――せめて、今だけはキヨノに安らかな眠りが訪れますようにと、そう願った。


私が希望と呼び僕が絶望と呼ぶもの

--------

サトリちゃんとキヨノくんの馴れ初めみたいな話

これだけ人間に酷いことされたら、そりゃあ憎悪も抱きますよね。
後のキヨノくんは過度なストレスとトラウマでこの実験に関しては記憶が曖昧、又は覚えてないです。
代わりにサトリちゃんがすべてを覚えていてあげるのです。


20170305 乱月

空色パラノイア