※ifヒトデナシ
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男は、ここ数年で一層老けた目元に皺を寄せながら、眼下を通り過ぎる車と慌ただしく行きかう人の波を見下ろした。赤色に灯火した信号に従い一斉に止まる車と、老若男女の人間が、自分の目的のためにただ人の波を避け進んで行く当り前の光景が、ただただ喜ばしく、男は胸を撫で下ろすように深く息をついた。
デスクに飾られた卓上カレンダーにふと目をやると、季節はとうの昔に冬を越え、夏を間近に控えていた。確かに、最近少しだけ暑くなってきたような気もした。そうか、もうそんな季節になるのかと、男は感慨深げに椅子に腰かけた。季節などまったく気にも留めなかった。いや、そんな暇や心の余裕などなかったのだ。毎日のように化け物共の管理と監視をする日々に追われ、いつ己が喰い殺されるかも分からない状況のなか、常に神経を研ぎ澄まさなければならなかった。
それがようやく、解放された。
人間の天敵であり害悪の悪性分子の全てがこの国から抹殺され、同様の薬を服用し、悪性分子をただ喰い殺すことしか能が無い良性分子も、全員処刑し、もうこの世には人間以外の異様な化け物など存在しなくなった。毎日、どこかで尊い人間の命が犠牲になることもなくなれば、下品で下劣な良性分子のグロテスクな食事を目撃することもなくなった。公開処刑した良性分子の死体は、その処理と時間を要し、さらにコストもかかるためそのまま放置してあるが、いつかカラスや野良犬が食い貪って片付くだろう。化け物の死体の後処理まで任されるなど御免だ。
男はデスクの上に積まれたクランケに関する書類や報告書などをまとめながら、再び深く息をついた。悪性分子、良性分子共にこの世からいなくなって十日余りが経ったが、こうやって書類を片付けていくと、ようやくニホンは普通の日常に戻ったのだという実感が湧いた。一体、どれだけの時間がかかり、どれだけの犠牲を生んだのだろうか。何の罪もない人間が、どれだけ悪性分子に喰い殺されたのだろうか。考えるだけで心が痛んだ。あのような化け物が存在したのがいけなかったのだ、人間を主食と考え、当然のように人間を喰い殺すあの化け物たちが。…いや、もうこういうことを考えるのはやめにしよう。いくら奴ら化け物を恨んだって、犠牲になった人間は蘇ったりしないのだ。そもそも、あの化け物たちは全員死んだのだから、それでいいではないか。処刑されると聞いたときの化け物たちのあの表情を、大勢の人間の前に晒されて、処刑されるあの化け物たちの苦痛と恐怖の表情を思い出すと、滑稽で仕方なかった。お前たち化け物がのうのうとこのままこの世で生きていけるわけがないのだ。良性分子などと名乗っているが、所詮は人間に危害を及ぼす害悪なことに代わりはない、死んで当然の存在なのだから。
男は書類を束ねて、何度目か深く息をついてから、先ほど淹れたコーヒーに口を付けた。ほろ苦く口に広がるこの味、この香り。あぁ本当に美味しい。こうやってゆっくりとコーヒーを飲んだのは何年ぶりだろう、クランケにはインスタントコーヒーすら常備されていなかった。奴ら良性分子は舌が人間とは全く別物らしく、水やお茶以外の飲み物をまったく口にしなかった。一度有名店のコーヒーを振舞ったことがあるが、全員が全員「不味い」と毒を吐きながら、「人間はこういう不味いものを飲んでいるなんて考えられない」などとぬかしていた。何を言うか。お前らだって元々は人間のくせに、水やお茶ばかり飲んで、食べるものと言ったら生臭い悪性分子の臓物や手足ばかりで、お前ら化け物のほうがおかしいのだ。食べきれなかった悪性分子の死体が、時折クランケの冷凍庫に保管される様子を見たことがあるが、激しい戦闘のせいか臓物がはみ出ていたり、肉が削げていたり、骨や脂肪が見えるほど損傷しているものが多かった。それを美味そうに貪る姿を考えるだけで吐き気がする。
ああ、くそったれ。本当に吐き気がしてきた。男はとっさに口元を押さえ、空気を入れ変えようと立ち上がり、先ほどまで外を見下ろしていた窓に近づくと、その窓の外の光景に息を飲んだ。

「なん…なんだ、これは…!」

こういう光景を例えるならば、『血の海』というのが一番適切なのだろう。言葉通り、先ほどまで見下ろしていた当り前のような平和な光景は、何故か一瞬にして血の海と化していた。人が流した大量の血液で地面は真っ赤に染まり、車も車内から大量の血が噴き出し、車体を真っ赤に染めている。老若男女、全ての人間が、胴体が引き千切れて死んでいたり、四肢が吹き飛んで死んでいたり、首が無くなった状態で死んでいたりと様々だった。一体何があったのか、男には理解できなかった。この建物の防音設備が整っているせいか、外から引っ切り無しに聞こえていたであろう悲鳴は一切聞こえなかった。
男は戦慄した。窓のサッシを掴む手が異様なほどに震えていた。いつだったか、前にもこのような感覚に襲われたような気がする。体の奥底から震えが止まらず、本能が「逃げろ」と警告しているような気がした。
脳裏に嫌な可能性が、ふとよぎる。いや、そんなまさか。全員殺したはずだ。多くの人間の目の前で、クランケに所属していた良性分子は全員その首を斬り落として処刑したはずだ。悪性分子だってもう生き残りなどいないはずだ、母体も死に、それに伴って良性分子がニホンにいる全ての悪性分子を討伐し終えたはずなのだ。そんな馬鹿な話があってたまるものか。もう二度と、あんな悪夢のような日々が再来するなどあってはならない。
男はゴクリと口の中に溜まった生唾を飲み込み、深く息を吸った。おそらく外は、強烈な鉄の臭気で満たされているのだろう。想像しただけでおぞましい。そこで男は、はっとする。
では、この建物は?
外の悪夢のような光景をもう一度見下ろし、確認した。建物のすぐ前を通る大通りは、アスファルトの色が見えないほど血で真っ赤に染まっている。ところどころ何かを引きずったような赤い筋のような跡があり、それは、この建物のすぐ下にまで続いているように見えた。
そういえば、やけに静かだ。銀色に鈍く輝く腕時計をとっさに確認すると、針は正午をとっくに過ぎていた。今からまた忙しくなる時間だというのに、何故こんなに気味が悪いほど静かなのか。一体下の階はどうなっている?この外の異様な出来事に、誰も気づいていないことはないだろう。きっと、脳裏をかすめた嫌な可能性に当てはまらなければ、もう誰かが事態の収拾を始めているはずだ。そうだ。私は考えすぎなのだ、今までずっとあの狂った空間で過ごしていた所為で、感覚がおかしくなってしまったのだ。きっとそうだ。と男は頭の中で自己解決を繰り返しながら、安堵したような表情で、まるで悪夢が転がった外界から目を背けるように窓から目を離し、再び椅子に腰かけようと部屋の入口を振り向き、そして、絶望した。

「ひっ……!」

喉の奥から引きつったような悲鳴が漏れた。男が今この状況を把握するのに、それほど時間を要することはなかった。全身を駆け抜ける絶望が男を襲い、腰を抜かしてそのまま床にへたり込んだ。状況は理解できた。しかし、何故殺したはずのあの化け物たちに酷く酷似した化け物が、自分の目の前にいるのかが、今の平静の欠けた男の頭では到底理解できなかった。
色が抜け落ちたような、アルビノ特融の真っ白の、しかしどこか銀のような金のような異質な髪色に、色素の欠落による深い紅色の瞳孔。そして、本来ならば白いはずの強膜は真っ黒に染まっている。間違いない、こいつはあの化け物だ。左腕に生える禍々しい色をした分肢がそれを物語っている。その化け物は、男のその様子を見て、まるで幼い子供のような純粋な笑顔を振りまいた。顔や口元、体中にべっとりと血を付着させたまま、その化け物は、にっこりと笑うのだ。

「みぃーつけた!おじさんが最後だね!」

男とも、女ともとれる中性的な声色と外見。彼(もしくは彼女)は、腰のあたりから発生している鳥の羽のような分肢をずるずると床に赤い筋を残しながら引きずり、腰を抜かしたまま動けないでいる男の元へ一歩、また一歩と歩み寄り、ずっと手に持っていた“もの”をごとりと床に落とした。
それは、成人男性の首だった。
恐怖と苦痛に目を見開き、断末魔を上げていたのだろう、口を大きく開いたままの顔で、その首は男の目の前まで転がってきた。きっとこの化け物に喰われていたのだろう。切断された首の断面や、顔中に無数の歯型が刻まれ、肉が抉られていた。
そこで男ははっと息を飲んだ。この男性の顔を、自分はよく知っている。そうだ。確か、クランケで働いていた、体罰を専門とする、残虐非道の、あの――
その男の思考を遮るように、男の頭上から彼(彼女)の声が降ってくる。

「人間ってそこまで美味しくないよねー。薄味だし、雑食だからかな?すごく臭いんだよね。お兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、こんなのをずっと食べていたのかな?ううん、食べさせられていたのかな?そうかな?」

彼(彼女)は血にまみれた口元を服の袖で拭いながら、誰に向かって喋っているのか一人でぺらぺらと言葉を紡いでいた。男はそんな化け物を目の前にして、まったく動けないでいた。同じような外見をした化け物共とは、嫌というほど同じ空間で過ごしていたというのに、何故かこの子供のような化け物を目の前にすると、微動だにできない。何故だ?同じではないのか?あの良性分子たちと同じではないのか?こいつは一体何だ?
男は唾液のなくなったぱさぱさの口をようやく開き、ゆっくりと、言葉を発した。その声には、クランケの良性分子に処刑宣告をしたときのような、威厳や威圧など微塵もなかった。

「お前は、何だ?誰だ?良性か?悪性か?何なんだ?」

もっとましなことは言えなかったのか、と頭を抱えたくなったが腕が動かない。緊張のせいか筋肉が強張り、接着剤で地面にびったりと張り付けられたように動かない。心なしか冷や汗が吹き出し、湿ったシャツが背中に張り付いて気持ちが悪い。
彼(彼女)はそんな男の様子を知ってか知らずか、また子供のような幼い顔でにっこりと笑い、ぺらぺらと喋り出した。

「ボクはボクだよ?ボクはね、みんなの恨みを晴らしにきたんだよ。戦争に利用されるだけされて捨てられたみんなの恨みを、処刑されたみんなの怨恨と悲しみを。ボクは晴らしにきたんだ。おじさんは人間だから聞こえないかな?でもね、ボクには聞こえるんだ。みんな泣いてるんだよ、悲しい、苦しいってボクに言うんだ。人間の勝手で生み出したくせに、人間の勝手で殺されて、みんな人間を恨んでるんだ。可哀想だよね、可哀想だよ。みんな頑張っていたのにね」

彼(彼女)は本当に心の底から悲しんでいるような表情で語り続けながら、男の目の前に転がっていた首を拾い上げ、見開いたままの左目に何の躊躇もなく指を突き刺し、抉り取り、それを自分の口の中に放り込んで、ぐちゃぐちゃとグロテスクな音を立てながら咀嚼した。やはりあまり美味しくないのか、「不味い」と一言呟いて、ガムを吐き捨てるように床にほぼ原型を留めていない左目を吐き出した。
男はその光景に収まりかけていた吐き気が一気に押し寄せ、先ほど飲んだばかりのコーヒーが喉をせり上がってくる感覚を感じながら、手が動かないせいで口元を押さえることもできず、そのままだらだらと口の端から胃液混じりのコーヒーを吐いた。まだ僅かに形の残っている左目の瞳孔と目があった、気がした。
再び彼(彼女)は無造作に首を床にごとりと落とすと、「みんながどんな気持ちでこんな不味い人間を食べていたのかボクも知りたいんだよね」とにこにこ笑いながら、咳き込む男を余所に独り言のように語り始めた。

「ここへ来る前に、お母さんに会いに行ったんだ。みんな頑張ったんだろうね、首を切り落とされて死んじゃってたけど、すごく優しそうで強そうなお母さんだったなぁ。でもボクも生きてるお母さんに会って話をしてみたかった。人間がどんな奴らなのか、みんなにどんな酷いことをしたのか、教えてほしかった。それとね、処刑されたみんなにも会いに行ったよ。みんな悲しそうな顔をしていたんだ。みんな泣いてたんだ。ずっと苦しかったんだろうね、つらかったんだろうね。最期もきっと痛かったよね、だって、首をはねられたんだもんね」

ふっと彼(彼女)は目を伏せ、まるで人間のように死者を悼むような表情を浮かべた。これだから、こいつら化け物は嫌なのだ。稀に人間のような仕草をする。人間より人間臭い一面を垣間見せ、本当は一体どちらなのかと混乱させると同時に、人間と同じような外見であるにも関わらずその目が、髪が、食事が、気味が悪く、酷く不快にさせるのだ。男は彼(彼女)の長い一人演説を聞き流しながら、ようやく平静を取り戻し始めた自分にほっとした。この化け物が一体何をしたいのか分からないが、聞きたいことが山ほどある。話の通じる奴ならば、話せばなんとかなるだろう。いざ危険が及びそうになれば、こちらには三原則があるのだからどうということは無い。
動かせるようになった腕に力を込め立ち上がろうとした刹那、彼(彼女)の右手が男の首に勢いよく突っ込まれ、気道を塞ぐような形で首を絞められ軽々と男の体は宙へ持ち上げられる。塞がれた気道をなんとか確保しようと、ぎりぎりと首を締め上げる彼(彼女)の指の隙間に手をねじ込ませ、酸素を呼吸した。
男を見据える彼(彼女)の瞳には殺意に似た鋭さが込められ、男を射抜いた。まばたき一つさえしない目の、真っ黒な強膜の真ん中で光る深い紅色が恐ろしく鮮やかに見えた。

「ボクは知っているよ。おじさんがみんなを処刑したんだ。頑張っていたみんなに労いの言葉も無ければ感謝もせずに、大衆の面前で首をはねて処刑したんだ。まるでお遊びみたいに、みんなを楽しそうに処刑したんだ」

ぎりぎりと絶え間なく首を絞める彼(彼女)の手に挟まれた男の指が、嫌な音を立てて変な方向へ曲がった。気道を塞がれたまま、大した悲鳴も上げれずに男は苦痛に顔を歪ませた。ちょうど床に転がるあの男の顔のように。彼(彼女)は先ほどとは打って変わって淡々と言葉を紡ぎながら、全身から男に対する殺意を放ちながら、尚男の首を締め上げる。
視界が酸欠でちかちかと明滅する。あぁ、完全になめていた。こんな化け物に、たった窓から目を離した数分の間に、大通りを行きかう人間全てを皆殺しにするこの化け物に、最初から話など通じるはずがないのだ。失態だ。良性分子共を処刑したあとに、あの母体の分肢を処分するんじゃなかった。このような事態に備えて、残しておけば、この化け物を返り討ちにできたはずなのに。失態だ、私の最後の失態だ。このまま化け物に首を絞め続けられて死ぬなんて最期を、誰が想像できただろう。
あぁ意識が朦朧とする。しかし脳に酸素が行き渡っていないのか、心地よくぼーっとする。あぁいっそこのまま、眠るように死を迎えられたらどれだけ気持ちがいいだろう。
などという男の考えは、彼(彼女)の一言で、全て打ち砕かれた。

「お前たち人間は絶対に許さない、絶対に!!だからお前はみんなと同じ痛みを与えて殺してやる!!!」

彼(彼女)は心の底から湧きあがってくるような殺意と憎悪が入り混じった咆哮を上げた。掴んでいた男の首を離し、彼(彼女)は左腕に発生した禍々しい分肢を男のか細い首元へ向けて振り上げる。
一瞬の間。
苦痛に歪んだ顔を張り付けた男の首が宙を飛び、主を失った胴体は力なく床に膝をついた。千切れたような首の断面から勢いよく吹き出す鮮血が彼(彼女)の顔を、分肢を、体中を汚していく。
男は自分が空を飛んでいるような感覚を感じていた。それに続き床に転がる感覚。少し遠くで自分の体が床に崩れていく様を見ているというのは、不思議な感覚だった。獣の咆哮のように高笑う彼(彼女)の声を聞きながら、あぁ、もしかしたら彼らもこのような感覚だったのか、などと馬鹿なことを考えていると、不意に男の目の前は真っ暗になり、そこから何も感じなくなり、聞こえなくなり、ただただ無だけが広がった。
彼(彼女)は、誰もいなくなった空間で、誰に話しかけているのか、嬉しそうに笑いながらぺらぺらと喋る。

「そうだよね!死ぬべきは人間なんだ!みんなを裏切りに裏切った人間が死ぬべきなんだよ!あははっ!みんな安心して!みんなの恨みはボクがちゃんと晴らしてあげるからね!あははははははっ!!」

彼(彼女)が犯したこのエゴが、誰も望んでいなかったことなど、知る由もなく。彼(彼女)は翼を引きずりながら、平和に戻ったトウキョウの街へ、人間の生活を捨てて、化け物になってまで害悪を殺して必死に生き続けた彼らが取り戻した平和なトウキョウの街へ、存在しない誰かの恨みを晴らしに赴いたのだった。


絶望が埋め尽くす仕組み

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まったく誰も救われないifヒトデナシ(詳しくはここ)
ニホンの人間皆殺しとか誰が望むんだろうね。それを望みながら死んでいった悪性や良性分子はいるのかな?
言うまでもないけど、この男は終わりの日に出てきた政府のおっさんだよ。

どう足掻いても絶望

20140206 乱月

空色パラノイア