昼休みも半分近くが過ぎた頃。
別棟の扉が開かれる音がした。
校舎として使われなくなってから、ずいぶん経った校舎はあちこちが軋んでいて、何かするたびに音をたててしまう。
亜久津にとっては侵入者を知るという意味でそれはとても好都合だった。
足音は亜久津がいる以前職員室だった部屋で止まり、ゆっくりと扉が開いた。
「ごめんなさい、起こしてしまったね」
段々と小さくなる声はいつもより震えているように聞こえる。
菜々はゆっくりとした手つきで持ってきていた弁当を広げるが、箸が進む気配が全くない。
カタカタと弁当を揺らす音に、背を向けていた亜久津が菜々を振り返ると俯いたまま震えていた。
「どうしたんだよ」
「なんでもない」
大きく横に頭を振ると菜々は弁当に手を付けることなく片付け始めた。
その様子を見ていた亜久津は突然立ち上がり、菜々の左手を引き上げた。
「痛いっ」
座っている状態で腕を引っ張られた菜々は反射的に立ち上がり、亜久津の手から逃げようとするが強い力で手首を持たれてしまった。
大きめのセーターに隠されていた左手には包帯が巻かれていたのが見えて、それを亜久津は乱暴に解く。
そして溜め息をついた。
「何だよ、これ」
「なんでもない」
包帯を取った下には湿布が貼られていて、少しめくると肌が痛々しい色をしていた。
それは何かで殴られた色だと亜久津は気付いた。
菜々は亜久津の怒りに似た視線を痛いほどに感じていたが俯いたまま、いまだ離されない左手を見た。
「誰だ?」
「自分でした」
「バカかお前」
亜久津は包帯を巻き直すとやっと左手を解放した。
巻き直された包帯を見つめながら菜々は何か呟く。
しかし小さすぎる声は届くことなく消えた。
「もう来るなって言う?」
「あ?」
菜々から離れ、背を向けていた亜久津は顔だけを向ける。
普段は人の顔をしっかり見ない菜々の目は亜久津の姿をとらえていて離れる気配がない。
「うざいって、もう姿を見せるなって、言う?」
それは亜久津が今まで言ってきた言葉だった。
今日だけではなく何度もあった菜々の怪我の原因は自分にあるとわかっている。
そうとは絶対に言わないけれど。
だからこそ何度も別棟に来るなと言った。
その度に菜々は頑なに拒否をして亜久津を苛立たせた。
「絶対に、嫌だよ」
必死に縋るような言い方に苛立ちを感じていたが、同時にそれが怒りから来るものではないとわかっていた。
零れ落ちてしまいそうなほどに目にいっぱいの涙をためている姿を見て、もう潮時かと思った。
「本当にバカだよ、菜々は」
そう言い終わる前に亜久津は手を引いていた。
突然加わった力に抵抗する間もなく菜々は胸元へと倒れ込むように頬を寄せた。
反射的に離れようとした菜々の腰には腕があり、離れられたものの二人の間には息がかかってしまいそうな隙間しかなかった。
頬に伝っていた涙を拭った指を舐める姿を菜々は驚いた表情で見上げた。
「あ、くつくん?」
「黙ってろ。」
腕を掴んだ左手を握られ菜々は痛みを感じたが、それを言葉にすることは出来なかった。
2008/10/10
タイトル:確かに恋だった
おだやかでせつない恋だった10題 1. なみだがきらめく