恋の味を教えよう


社会人になると今までいた場所がとてもきらびやかに見えてしまう。
戻れないそこは遥か遠く感じて、嫉妬さえ覚える。
そしていつかそんな気持ちさえ風化していくんだ。

時計を見るとゆうに定時を越えていた。
目の前に広がる仕事を消化するだけで目一杯の私は毎日こんな調子だ。
縮んだ筋肉をうんと伸ばしていると机にコーヒーが置かれた。

「お疲れさん」

彼はそう言い隣の席に座る。
片手には同じコーヒーと、もう片手には薄いクリームの紙袋。
それには有名な洋菓子店の名前がプリントされていた。
机に置かれていた書類をどけると袋から取り出しガサガサと広げだした。

「そういうのは帰ってからにしてください」
「まぁまぁえーやん」

3年先輩の忍足さんは同じ大学卒業の私に入社当時から何かとよくしてくれる。
でも大学の時から聞く彼の噂もあり、私はありがたいとは思いながらも警戒を解けずにいた。

「成田ちゃんはこんな日に残業しててええん?」
「忍足さんこそデートの予定あるんじゃないですか?」
「デートは本命ちゃんのために残してんねん」

チョコを頬張りながら言う彼からは甘い匂いがした。
そんなセリフ、本命チョコを食べながら言うものじゃないだろ。
そう思いながらも口にはしなかった。
きっと本命だってことも知っていながら受け取っていて、一ヶ月後にはそれに気付かないフリでささやかなお返しをするんだ。
ずっと大切に育ててきた想いをそんな風に扱われるなんて、振られるよりつらい。
それを彼はわかっていないのだろうか。

「まだ終わらへんの?」
「あ、もう終わらせます」

新人の私は一人で残れないので、私が帰らないと忍足さんも帰れない。
まだ続けたかったけど、目標の分は処理出来たから終わらせることにした。
終わるための処理をしていると横で忍足さんも帰る準備を始めた。

「成田ちゃんって前に会ったことあるやんな?」
「同じ大学だったからすれ違ったくらいはあるかもしれませんね」

無愛想に言う私に忍足さんはヘラヘラと笑った。

「すれ違うとかやなくて」

いつものように笑っているはずなのに何か違う。
読めない笑顔が嫌で顔を反らせて鞄とコートを掴んだ。

「お先に失礼します」
「もー冷たくせんといてや」

楽しそうに笑いながら荷物を抱えて私の後をついてくる。
帰るためにオフィスを出るのだから方向が同じなのは仕方ないけれど、心がざわついているのが嫌で、自然と足早になる。

ドアを開けようとした腕を引かれ、足が止まった。
振り払おうにも男の人の力に勝てるわけがない。
私の腕を持ったまま部屋を出て、エレベーターホールへと歩いた。

「今日やなかったらもう受け取らへんよ」
「渡すものなんてありませんから!」
「ほんまに?」

眼鏡の奥の瞳は真剣だった。
反らすことも出来ず、私はただ見上げた。

「私…」

言いたくないのに引きずられる。
こんな場所で何の準備もなく言いたくない。
全身の感覚が捕まれた腕に集中しているようで、とても熱い。
無意識にか震えていた。

「やっぱりあかんかな?」

忍足さんは腕を離すとその手を自分で強く握った。
震えていたのは私じゃなくて彼だった。

「結構大勝負のつもりやったんやけどな」
「忍足さん?」

俯きながら呟く。
なんだかいつもより小さく見えて、申し訳なくなってしまった。

「時間も遅いしせめて食事だけでも。あかん?」

上目遣いに見て言う。
それを断ることなんか出来るはずがない。
私は頷いた。
すると次は手を捕まれ、着いたエレベーターに引き込まれた。

「ちなみにな、嫌なんやったら最後まで断らなあかんよ」

私を見てにやりと笑った。
全て作戦だったんだ。
うんと言わせるための。
空いている手で頭を抱えるように見せて赤い顔を隠す私は、それでも作戦にはまってもいいと思っている。
きっとそれさえ彼の策略なのだ。

2008/2/13(2012/5/6 加筆)
2008年バレンタインデー企画

タイトル:確かに恋だった
熱く甘いキスを5題 1. 恋の味を教えよう

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