水温25℃
「あちー」
燃えるような暑さの中、ようやく解放されて学校の玄関まで戻ってきた。
この時期大会が待ち受けているし、最後なのだから力を抜くわけにはいかない気持ちも分かるがこれ以上は正直勘弁してほしい。
そもそも運動部でもないのに外周3周って。頭がおかしいとしか思えない。走るより前に練習だろって。
途中、購買部で買ったコーラをグイッとあおる。途端に暑さでへばっていた体に潤いが戻り思わず「っあ"ーうめー」と下品な一人言をこぼしてしまった。
与えられた休憩時間は30分間だが、他の奴らはそんなことお構い無しにまだ練習してるのだろうか。なんだか面倒だな。
今日はこのままサボっちゃおうかな。
なんて、無理だけど。
存外、体はそんなしょうもない冗談を思いつくほど疲れきっていたらしく階段を上がって教室にたどり着いた頃にはさっきよりもヘロヘロになっていた。
体をくの字に曲げてドアに手をかける。
少しの重さを持ったそれが横へ音を立ててずれ、解放されたその部屋で最初に目にしたのは宮下クンの姿だった。
まだ誰かが残っているとは思ってもいなかったので思わず口を開けてしまう。
宮下クンは音に気づいて首だけこちらに向けると、軽く会釈をした。こちらも腰を曲げたまま頭を下げる。
……何だか気まずい。
違う場所で休もうかとドアを閉めようとしたその時、開いていた教室の窓から風が吹き抜けていった。頬を掠めたそれは生暖かいような涼しいような何とも言えない温度で、思わず眉間にしわが寄る。
その顔を見た宮下クンは何を勘違いしたのか慌てたように立ち上がると「ごめん、もう少し閉めるね」と言って窓に手をかけた。こちらもそれを慌てて静止する。
「あ、いやいいよ別に」
違う場所に行くから、と続けようとしたが宮下クンは「そう?じゃあ……」と言ってどうぞ、とぎこちない表情で教室に入るよう促した。
正直迷ったけどまあいいか、と足を踏み入れる。1番後ろの席に座って頬杖をつく。
静かだ。
風の音と、どこか彼方で楽器を演奏する音しか聞こえない。
なんとなく気になって宮下クンを見る。席に戻って忙しなく腕を動かしていた。最後の追い込み勉強だろうか。真面目だなぁ。
ふとコーラを持っていたことに気づいてキャップを開ける。プシュッと小気味よい音がして炭酸がどんどん上がってくる。
一気にぐいっと飲むとまたこれが喉に心地よくて、「っあ"ーうま」とひとりでに下品な言葉が出てしまった。
その途端、宮下クンが肩を震わせた。ついでに押し殺したような声が混じる。
「ちょっとー笑わないでよー」
「ごめ…だって面白くて……つい……ふふっ」
宮下クンは振り返るとほんのり顔を赤くさせて口元に手を当てていた。余程ツボにハマったのだろう、体が小刻みに揺れている。
「そんなに面白かった?」
不服を表すために口を尖らせると宮下クンは顔の前で手を振った。
「だってさ……っ、なんか、オッサンみたい」
「ひどぉ!」
背もたれに大袈裟に仰け反ると宮下クンはさらにカラカラと笑った。
この空間に謎の居心地の良さを感じる。
思えば宮下クンとこんな風に会話するのは初めてかもしれない。と、いうか今まで会話したことあったか……?記憶を辿っても見つからなかった。
「てか宮下クンてそんな笑う人だったんだね、知らなかった」
「……」
途端に宮下クンは黙り込んでしまった。
何かマズイことを言ったか?と不安になると、ゆっくり眉を八の字に下げて宮下クンは言った。
「そのあだ名、好きじゃない」
マジかよ。
自分の記憶では確か宮下クンは1年生の時から宮下クンと呼ばれていたはずだ。それが何故今になって?焦る自分を見て宮下クンは困ったように笑った。
「ごめん、変だよね。今の忘れて」
そう言ってまた机に向かってしまった宮下クンの姿を見て、いても立ってもいられず彼の側へ近寄った。
「どうしてこのあだ名嫌なの?何でか聞かせて」
横に立ったことで彼の机に影が差す。薄暗いノートにはビッシリと英単語が書かれていた。
彼はゆっくりこちらを見上げると何か言いたげに口を開きかけて、でもまた諦めたように下を向いてしまった。
「もしかして、俺と同じ?」
思ってもみなかった言葉が口をついて出てしまった。なんでこんなこと言ったんだろう。
心臓が締め付けられるような痛み。宮下クンがパッと顔を上げた。目が合う。驚いた顔をしている。自分でもこんなことを言う自分が驚きだった。
「いま……」
宮下クンの顔からは猜疑心や不快な感情は一切感じられなかった。代わりにさっきよりも晴れやかな、それでいて少し不安そうな、そんな目をしていた。
そんな表情を見たら嘘や誤魔化しはもう出来そうにない。
自嘲気味に笑うと諦めてポケットに手を突っ込み、口を開いた。
自分がジェンダーであること。女性として生まれたけれど心は男性であること。今まで理解してもらえなくて辛かったこと。女性として振る舞う振りは出来るけど、時々窮屈に感じること。
洗いざらい喋ってしまった。どうしてか宮下クンには話せる気がした。
宮下クンがとても優しい顔をしていたからだろう。何度も何度も頷いてくれてそれが嬉しくて、言葉が止まらなかった。
気づけば休憩時間はとっくに終わっており、俺は宮下クンに謝罪を入れてから慌てて駆け出した。コーラを引っ掴んで教室から出ようとして立ち止まる。
「同じなんだね」
振り返ると宮下クンはまだその場で優しい顔をしたまま俺を見つめていた。
「話せて良かった。じゃあね、宮下さん」
そう言うと宮下さんは嬉しそうに笑顔を見せてくれた。
部室に着くともうみんな集まっており、部長からの怒号に平謝りして席に着く。
指揮者の合図で皆が楽器を口元へ寄せ、先程どこかから流れてきた音がこの部屋から響き始めるのだ。
すっかり炭酸が抜けてぬるくなったであろうコーラの味を考えながら、俺は楽器へ命を吹き込んだ。