それはまだ、私が17歳の高校生のときのこと。
マンションの隣の部屋に住んでいる年下の姉弟がいて、親同士が仲良しだったから小さい頃からよくうちで預かっては、妹と弟のように可愛がっていた。
私より6歳下の直人は年の割に大人びていて、小学生のくせに同級生と家族以外には敬語で、物静かな癖に言いたいことは言うし、おまけにオカルト好きなちょっと変わった子だ。
そんなクールな直人が家族よりも何故か私に懐いてくれているのがちょっと…いや、かなり可愛かったりする。
「なまえお姉ちゃん、左手出して下さい」
「ん?なに?」
「ちょっとしたおまじないです」
「おまじない?」
直人が先程まで読んでいたオカルト雑誌にチラッと目をやれば、表紙にでかでかと「呪い特集」と書いてあった。
いやまぁ…たしかにおまじないって「お呪い」って書くけどさ…
直人がやろうとしてるの、それ本当におまじないの方?
まぁ子供も読んで大丈夫な雑誌だし…と思って言われるがままにしていると、左手の薬指に指輪を嵌められた。これ多分おばさんのじゃん。
「これでよし…。なまえお姉ちゃん!」
「ん?」
「大人になったら僕と結婚するって約束して下さい!」
「え!?」
急な申し出にさすがに動揺してしまう。
ちょっとタンマ!って言ってさっきの雑誌を開くと、角が折られているページがあった。
そのページの主題は「絶対に恋が叶う!!指輪のおまじない」。
やだぁ…直人もこういうの読むのね…可愛いとこあるじゃん…。
…じゃなくて。
おまじないの中身は、
1.母親の指輪を好きな相手の左手薬指にはめます。
2.将来、結婚すると約束を交わします。
3.数年後、晴れて2人は結ばれます!
さすがは子供も読むことが想定されてるオカルト雑誌。書いてる内容が可愛すぎる!
そしてそれ実行しようとしてる直人、可愛すぎないですか?私の弟(みたいな関係)なんですけど。
「もういいですか?早く約束して下さい」
「はいはい、ごめんね」
「大人になったら僕と結婚するんです。約束ですよ?」
「うんうん、わかったよー。約束ね!」
真面目で賢い直人にこんな可愛いことを言われるなんて思わなかったけど、いつか大人になって一緒にお酒でも飲む時にネタにしてあげよう。
指輪はその後そっとおばさんに返して、それ以降その話が話題に上がることはなかった。
1年ほど後、高校を卒業した私は、名古屋の大学に進学するために東京を離れた。
ヒナには大泣きされたし、直人も唇をぐっと噛んで泣くのを堪えていた。小学生なんだから泣いたらいいのに。2人とも可愛いんだから。
そんな涙の別れから12年。父と不仲だったこともあり全く帰らないまま随分と月日が経ってしまった。母とは毎日のように連絡を取っていたから姉弟の話も聞いていたし、もちろん会いたくはあったけど。
でも名古屋の大学に行ったことを未だに反対している父に反発するように、そのまま名古屋で就職をして、忙しいを理由に東京を避け続けてしまった。
ところが、昇進を機に今いる名古屋支社から東京にある本社に異動が決まり、12年ぶりに東京に帰ることになったのだ。
正直気まずくてどうしようかと思ったが、タイミング良く父は海外赴任中らしい。助かった。
東京では、名古屋支社で出会った交際4年(もうすぐ5年)の彼氏が1年早く本社へ異動になっているので、これを機に一緒に暮らす予定は立てている。
けど急な辞令だったし、まぁ色々あるので…。
一旦落ち着くまでは実家で暮らすことに決めている。
直人は一人暮らしをしているようだけど、ヒナは実家に居るらしいからまた仲良くできるといいな。
そんな事を考えながら最後の引越し準備をしていると、母から電話があった。
「帰ってくる日なんだけど、みんなで集まってうちでご飯食べようってことになってね」
「え!そうなの?ヒナたちもくる?」
「えぇ、直人君も帰ってきてくれるって!」
思わず「やったー!」と子供みたいにはしゃいでしまう。早速また2人に会えるんだ!どんな大人になってるんだろう…!
「でね、直人くんが帰ってくるついでに空港まで迎えに行ってくれるって言うから、当日空港で待ち合わせてね」
「ゲートの出口まで来てくれるのかな?」
「そう言ってたわよ」
「おっけー、わかった」
最後に会ったときはまだ中学生にあがる直前だったけど、刑事になったって聞いたし、きっと背も伸びてるんだろうなぁ。てか刑事になるのあんなに嫌がってたのにどうしたんだろう。
会ったらすぐ直人だってわかるかな?
てか…私も高校生だったのに気づけばもう30歳なんですけど…直人気づいてくれるかな…?
出発の前夜、彼とのビデオ通話で明日から東京だなという話になった。
彼とは別に上手くいっていないとかでは無いが、遠距離だし、ここ半年は仕事が忙しそうでなかなかゆっくりと連絡が取れていない。
支社と本社といえど同じ会社だから活躍は知っているし、本当に忙しい立場にいるのも知っているから何も言えないんだけど。
「やば、お得意様から電話だ…ごめん。
明日は家族と過ごすだろ?」
「うん」
「明後日ゆっくり会おうな。
早くなまえに会いたいよ」
「うん、私も会いたい」
「愛してるよ」
「…私も」
「愛してる」とは返せなかった。わからないからだ。
同期入社で社内恋愛だった私たちは、周囲から羨ましがられるお似合いのカップルと言われ続けてきた。
でも、半年ほど前に東京出張に行った同僚が教えてくれた「あること」が、私の心にいつも過る。
『あいつ多分、浮気してる。
本社の受付の女の子と。
彼女、お前がしてるのと同じシャネルのネックレスしてたよ』
証拠はない。だから、「そうなんだ、教えてくれてありがとね」って流した。
でもあまりに忙しそうにしてるからもしかしてとは思っていたんだ。
そんなもやもやを抱えながら東京へ向かう。飛行機から降りて荷物を受け取り出口へ向かうと、待ち合わせをしていた様子の人たちがちらちらと見える。
直人っぽい人…直人っぽい人…
…ん?なんかスラっとしたイケメンがめっちゃこっち見てる…けど。え?まさかだよね?
「お久しぶりです、なまえさん」
「え……直人…?」
「えぇ、そうですけど…なんですか?」
「いやだって…背伸びすぎだし…かっこよくなりすぎでしょ…びっくりしたぁ…」
「ふっ。なまえさんは変わらないですね、良くも悪くも」
「良くも悪くもですって?」
「ほら、行きますよ。みんな待ってます」
「あ、ちょっと待ってよー!」
見た目は随分と変わっていて驚いたけど、穏やかなくせに口の悪い敬語は相変わらずだし、ふって軽く笑うところも変わってない。しかし、あんなにあった可愛さはどこへ行ってしまったのか。
そんな事を思いつつも久しぶりにみんなと会えて楽しくて、直人はこんなに大人びたのにヒナは全然変わってなくて可愛くて笑ってしまった。
直人以外はお酒も入って、ヒナと彼氏くんの結婚話で盛り上がった後、橘家の母によって話題は私の結婚の話になってしまった。おばさんめ…。
「なまえちゃんも結婚するのよね?」
「あー、たぶん?まだわかんないけど」
「あら、でも一緒に住むんでしょ?」
「うんまぁ、いずれね。その予定」
私がぼんやりと誤魔化しながら答えていると、ヒナが口を尖らせて頬杖をつきながら私の顔を覗き込んできた。やだ…酔っ払いヒナ可愛い…。
「いいなー、武道くんの家すっごい狭いし汚いからから2人じゃ住めないんだもん、同棲羨ましい!」
「ヒナは彼氏くんの家が広くてもおじさんが許可しないでしょ」
私がそう言うと、ゴホンっとわざとらしく咳ばらいをしたおじさんにみんなしてクスクス笑った。
文句を言いつつも幸せが今にも溢れだしそうなヒナがなんだか羨ましくって、浮気されているかもしれない自分が、彼を信じられない自分が情けなくて、考えるほど悲しくなっていく。
酔いを醒まそうと昔お気に入りだったマンションの屋上に上がると、東京の夜景が無機質で綺麗で、思わず泣きそうになってしまう。
…私、帰ってこない方がよかったんじゃないかな。
「なにしてるんですか?」
「え、あ、直人…ちょっとあの、酔い覚ましたくて!この屋上好きだったし!」
「ふーん」
珍しく不機嫌そうに言った直人に首をかしげていると、仏頂面のままの直人がズンズンとこちらに近づいてくる。
「…え、え?なに?」
戸惑っていると、歩いてきた勢いそのままに、私の背中側にある手すりに手をついた。
向かい合っているせいで、まるで抱き締められているくらいの距離感になる。
「え、なに、どしたの…」
「なまえさん」
「は、はい」
「僕との約束…忘れたとは言わせませんよ」
「え…?約束…?」
「僕と結婚すると言いましたよね?」
頭にひたすら「?」が浮かぶ。目の前の仏頂面…を通り越して絶対に怒っている直人とバッチリ目が合っているけど何も思いつかない……ん、あれ?もしかして。
「あのっ、え、待って、
もしかして12年前の話してる…?」
「何年前だろうが約束は約束でしょう。
冗談で約束したんですか?」
「いや、あの…だって…」
「他の男との結婚なんて許しません」
「えぁっ」
「僕の方がなまえさんを幸せにできますし」
突然のことに目が回りそう。目の前にはもう可愛い直人なんていなくて、世間一般で見てもかっこいい部類に入るだろうと思う成人男性に迫られている。
こんないい男になったくせに、12年も前の子供の頃の約束を本気にしていたなんて…。
それに、僕の方が幸せにできるなんて言葉、今の私には刺さりすぎるよ…。
何も言えずに頭の中だけでぐるぐると考えていると、直人の顔が近づいてくる。
思わず直人の胸を押さえて制止しようとするけど、細身でも流石は刑事さん…そんな軽い制止で止まってくれるはずもなくて、俯いたのも無視して、まるで掬い取るように唇を奪われる。
優しく触れるようで、でも気持ちをぶつけてくるような、熱いキス。
決して多くはないけど恋愛経験があればきっとわかってしまう。
どれだけ直人が、私を思ってくれているか。
唇が離れて、息を整える。
こんなことをしておいて相変わらず澄ました表情の直人と目が合うと、ふっと口元だけで笑った。
「奪い取るのは趣味じゃないですし信念に反しますが、なまえさんのせいでもありますし仕方がないですよね?」
……んえ…?
「言ったでしょう。僕の方が幸せにできるので、他の男との結婚なんて許しません」
「え、あ、」
「愛しています、なまえさん」
「…っ、!」
なんて返すべきなのかわからないでいるうちにまた口を塞がれる。
気持ちが、意識が、直人に引っ張れていくのがわかる。
頭がふわふわしたまま、思わずキスに応えてしまった。
あ、いま直人、ちょっと笑ったな。
どのくらいそうしていたんだろう。全部考えるのをやめて、ただ夢中で直人を感じていた。
唇が離れて、額がぶつかって、視線が交わる。
わ…直人が男の人の顔してる。
「…僕のものになる覚悟はいいですか?」
「んぇ…」
「か・く・ご、して下さいと言っているんです」
「……」
そんなの、流石に「はいわかりました」とは言えないじゃない。
そう思い黙り込んでいると、わざとらしい程に盛大なため息をつかれた。
「どうせあなたのことだから、こんな流されるみたいなのは良くないとか、これは立派な浮気だなとか考えてるんでしょう」
あまりにもドンピシャに心の中を言い当てられて思わずバツの悪い顔をしてしまう。
「…なんでわかるの」
「愛してるからです」
「ひぇ…」
まっ…むりむりむり!こんなの耐性ないって…!
やだもう…ついさっきまで可愛い弟みたいにしか思ってなかったのに、自分が直人のことを一人の男性として意識する日が来るなんて…。
「いいですか?そもそも僕との約束の方が先なんです。他の男の方が浮気なんですよ」
「そんなの暴論だよ…」
「あなたを手に入れるためなら多少の強引さは辞さないです」
言葉を探しながら直人の目を見れば、本気で言っているのだと嫌でもわかってしまった。
無茶苦茶なことを言っているけど、本気で私を手に入れようとしてくれてるんだ…。
ねぇ、どうしよう。直人を選んだら幸せになれるって、私の頭が理解しちゃってる。
「まぁ今すぐ言葉にしろとは言いませんよ。あなたにしては応えてくれた方だと思いますし」
「ん…うん…」
あなたにしては、という言い草は少々気になるが、その通りすぎてぐうの音も出ないので頷くしかできない。
「帰りましょう。お酒を飲んだ身体を冷やして風邪をひいては大変です。それに移動で疲れているんですから、今日はゆっくり休まないと」
…うん、やっぱり、直人だな。
「あ、はい…」
「また明日会いに来ます」
「あ、明日はその…予定が…」
「例の男とですか」
「あー…えっと……はい…」
「ふーん…」
なんだか直人が悪い顔をしている気がするのは気のせいだろうか。いや、きっと気のせいじゃない…けどまぁいいや…。
結局、最後の表情の真相は掴めないまま、直人によって大人しく部屋に戻された。
1人になってベッドに横になると、さっきの光景や感覚が思い出されて、ドキドキが治まらなくて、頭の中が直人でいっぱいになってしまう。
あまりの恥ずかしさに布団を被って叫びたくなっているとスマホが鳴って、彼から
「久々の実家はどう?疲れているだろうからゆっくり休んでね。また明日。」
と私を労うメッセージが届いた。あぁ、一瞬にして少し現実に戻されてしまう。
私ってば…これでは彼のことを浮気者だと責められないじゃない。
思わず大きなため息が漏れて、何も返信しないままスマホを閉じた。
結局、全く気が乗らないまま彼との約束の時間を迎えようとしている。ビデオ通話で頻繁に顔は見ているけれど、実際に会うのは5か月ぶりだ。
なんとも言えないやましさもあり何となく緊張して早く家を出てしまったので、せっかくだから迎えに行きがてら来週から通うことになる本社を見てみようと思って会社の近くまで来た。
「…あっ」
ねぇ、まさか、まさかさ、会社の近くで堂々と浮気してるとは思わないじゃん。隠す気なしなの?バカなのかな。道理でたった2日間だけ出張で来てただけの同僚が気づくわけだわ。
「ねぇ」
「え!?なまえ!?あ、あのこれは…」
「いやあの…半年前くらいからそうかなって思ってはいたから大丈夫」
「え…」
呆れてショックも感じない。いや、もしかしたらショックを感じないのは直人のおかげかもな。まったく…こんなバカに5年弱も費やしていたことが一番悔しいわ。
「はぁ〜、田中君が東京出張行った後に教えてくれたんだよ。なんでそう思ったんだろうって思ってたら…こんな堂々と浮気することある?呆れた…」
私の放った「浮気」の言葉に、横にいた可愛らしい女の子がピクっと反応した。おや。
「待って、浮気ってどういうこと?地元の彼女とは別れたって言ってたよね?」
「あらあら…。来月から本社勤務のみょうじです。今さっきまでこの人の彼女でした。宜しくどうぞ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!今さっきまでって…」
なんかごにょごにょ言っている彼を遮って、横の女の子が一歩前に出た。
「みょうじさんはじめまして。本社で受付をやっている佐々木です。今さっきまでこの人の彼女だと思ってました!これからよろしくお願いしますね!」
「ま、待てって2人とも…」
すっかりたじろいでいる彼がとても可哀そうな人に見えた。昔はあんなにかっこよく見えていたのにな。ま、もうどうでもいいけど。
「じゃあ帰るね。
これからは同僚としてよろしく」
「私も帰ります!
みょうじさん来週からですか?」
「うん、そうだけど」
「しょうもないクソ男の愚痴があるんで飲みに行きましょう!!」
「あはは、佐々木さんいいね!」
悩みの種は自爆してくれたし、東京で新しく女友達もできた。人生の新たなスタートとしてはなかなか悪くないと思う。
「なまえさん」
「え!?直人!?」
「迎えに来ました」
「え、あ、なんでここに?」
「刑事なんで」
「え…関係なくない?」
絶対に見ていたんだろうなってタイミングで現れた直人に、誰?って感じで目を丸くしている彼と佐々木さん。
「どうも。これからなまえさんに告白する予定の橘直人です。あなたがなまえさんの恋人だった方ですね?今までなまえさんを大事にしてくださってありがとうございました。これからは僕が幸せにしますのでご安心を」
あまりの事態に驚きすぎて声も出ない私と、今にも白目を剥きそうな勢いの彼と、真っ赤になった顔を覆いつつしっかり私と直人を交互に見ている佐々木さん。
「さ、帰りましょうか。なまえさん」
「ちょ、あ、え、な、」
直人に肩を抱かれてほとんど無理やり連れていかれる格好になる。
ちらっと振り返ると佐々木さんが爆笑しながら放心する彼の背中をバシバシ叩いていた。あ、あの子とは絶対に飲みに行こう…。
「で…直人、どこ行くの?」
「僕の家です。まぁ今日からあなたの家でもあるんですが」
「……え?なんて?」
「お義母さんの許可は得ているので大丈夫ですよ」
「なにがどう大丈夫なの!どう許可取ったの!」
「なまえさんの健康管理をしたいので一緒に住みたいと提案しただけです。直人くんならって二つ返事でしたよ」
「お母さん…」
多少強引にとは言っていたけど、直人の多少の次元はどうなっているんだ。
まぁでも…ちょっと直人らしいっちゃらしいけど…不思議と嫌でもないんだけど…。
「で、僕のものになる覚悟はできました?」
答えなんて聞かなくともわかっている、とでも言いたげな表情をしている直人に思わず笑ってしまう。
「もー、わかったよ。覚悟できた!」
そう言えば満足そうに口角を上げて、ちょっと痛いくらいのハグをされる。
なんだ、こういう可愛いところはそのままだったのね。
「絶対に離しません。約束です」
「はい、ちゃんと約束します」
「二度と適当な約束はしないように、いいですね?」
「結果的に守ろうとしてるんだからいいじゃん」
「はぁ…やれやれ…
あなたって人はどうしてそう…」
「…あ!直人あそこ!UFO!」
「え!?どこですか!?」
お説教をし出しそうだった直人は、UFOの言葉に反応して私が指さした方に目を向けた。
━━━ちゅっ。
「…ばーか!」
「………なまえさん!待ちなさい!」
「あははっ!」
忘れたとは言わせない
(言葉は何より重いお呪い)