(≠監)



ふわり、ヴィルの香りがする。
だから、彼の部屋に入るのが、とても好きだった。彼が自ら調合している香水の香りは、決して誰のものと同じではない。NRCには、沢山の男子生徒がいるけれど、この香りはわたしにとって、特別。
彼の隣にいるときに、ふと香ることも。こうやって部屋に入ったときに、彼の部屋だと感じることも。彼の腕に抱かれるときに、自分にその香りが移ることも。ぜんぶ。

「ねえ、なまえ。」
「なあに。」

少し冷めたアンティークのティーカップ。わたしにはその温度がちょうどよかった。彼の淹れてくれたダージリンの紅茶を飲みほしたところで、彼の色素の薄い瞳が、わたしを映した。

「最近、オクタヴィネル寮の生徒と距離が近いんじゃなくて?」
「そうかしら?」

距離が近い、というのは、つまり、仲良くしすぎている、という意味でよいのだと思う。彼の言葉は、ストレートな時もあれば、そうじゃない時もあった。今日は、そうじゃない日。
とはいえ、オクタヴィネルのアズールが運営するカフェ、モストロ・ラウンジは、わたしの数少ない日銭を稼げる職場だった。突然、何も知らない世界に連れてこられたわたしは、今までのすべてのキャリアがなくなったわけで。この世界に家族もいなければ、稼ぐ力もない。勿論、目の前の彼のように、美しさを極めた仕事も出来るわけがない。
だからこそ、彼が言うように、距離が近くなるのは、当然だった。それこそ、一緒に仕事をしているのに、仲良くできないのは、ちょっとどうかしている。ある程度の距離を詰められないよう、自分では考えているつもりだけれど、つい先日も、パーティを嫌がるフロイドのエスコートを任されたのは、彼の双子の兄弟であるジェイドではなく、わたしだった。
最近じゃ、あの店でのわたしの役割って、まるで、ベビーシッターなの。

「あんまり、距離を許すのは、どうかと思うけど。」
「みんな赤ちゃんみたいよ?」
「なまえよりも力は強いわ、物理的にね。」

呆れたように、ため息をつかれる。
彼が心配するのは分かるけれど、実際に働いていると、上手くやらない方が難しい。たしかに、相手は男性で、わたしは女性で。その差を感じたくないから、相手を子供のように扱うところがあるのは事実だった。そうすることで、ある意味、距離を置いているの。

「それが通じると思ってる?本気で?」

わたしの回答は、彼の納得のいくものではなかったらしい。まあ、確かにわたしが彼であっても、許せる回答じゃないかもしれないわね。冗談でしょう、と眉をひそめて、指先で持っていたカップをソーサーに丁寧に乗せたと思えば、彼は椅子から立ち上がった。

「何かあったら遅いと思わないの?」
「あら、何かあっても、大丈夫よ?」

こんなこと、恋人の前で言うのはどうかしているけれど。どうにか出来ないことはないと思うわ。アナタが思う以上に、いろんな経験をしてきたから。何かあったせいで、傷つくことは、10代のか弱い女の子じゃあるまいし、もうない。
わたしの隣へやってきた彼の指先に、自分の指を絡ませる。そうね、心配してくれるのがなんだか嬉しいだなんて、ちょっとわたしはあなたにいじわるなのかもしれないわ。

「あのね、そんなのアタシが嫌。」

わたしの恋人は、とても美しい。その言葉で言い表すことが出来ないくらいに、美しい。常に美しくあろうとする人。外見の美しさは、知性に支えられるといい、決して、外見だけ勝負をしようとはしない。
そのための努力は、決して怠らず、自分にとても厳しく、そして、他人にもそれは同じ。だからね、そんな彼が、年相応なことを言うなんて、思わなかったの。

「アンタに触れていいのは、アタシだけでしょう?」

彼の空いた片手は、わたしの頬に添えられる。いつも完璧を振舞う彼の本音は、わたしの心臓をどくりとさせた。だって、こんなこと言わせたのは、誰でもない、わたしなのよ?
ねえ。と、わたしに回答を求めるように、親指が頬を撫でる。

「触れてほしいのは、アナタだけよ。」
「ひどいコね。」

イエスを返せないには、理由があった。何かがあったときに約束を破るのが、嫌。だから、アナタを裏切らないための、わたしの最高の答え。もちろん、そんな日は来ないに越したことはないに決まってるけれど。

「でも、ヴィルだってそうでしょう?」
「それは仕事柄よ?」
「あら、わたしがそれに嫉妬しないと思って?」

ぐ、っと彼の指先に力を入れてみる。少し、驚いた顔をした彼を見るのは、珍しいことだった。
ねえ、いつも美しいアナタの隣にいるために、いくらでも我慢してるわ。自分の嫉妬心に目をつむって、自分がもっときれいになろうとして。それでも、消えないの。どれだけ完璧を追い求めても、完璧なアナタの隣じゃ、自分がかすんで仕方ない。
こんなくだらない嫉妬心を抱えることすら、悔しい。だけど、好きって、そういうことなのよ。少なくても、わたしにとっては。誰にも、あげたくない。わたしだけのものにしたい。って。
そういう意味では、アナタとわたしは、ひどく似ているわね。自分は自由でいたいくせに、相手はそうじゃないんだもの。
それを、普段口にしないのだって、お互い様。
彼の美しい指先をとって、唇を落とせば、また彼は、呆れたような、そして、諦めたような表情をした。

「ほんと、かなわないわね。」
「わたしだって、ヴィルにはかなわないもの。」

だけど。
それが、互いに恋に落ちてるってことでしょう?



My Queen.
(アタシのものだけにしたいのに、そうならなくて、いつもそれが悔しくて、だけど、ひどく、愛おしい。)







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