社長は会食で定時前に出ていった。午後から尽きない業務をこなし、19:00を前にしてようやく一息つける。
この後に、アーシェングロットさんからお誘いを受けたお詫びディナーだと思うと、心臓が痛い。勿論それは、ときめきじゃなくて、気負いの方だ。テーブルマナーとか言われたらどうしよう。
いつだったか、アジームさんとの食事の時にバイパーさんが教えてくれたけれど、もう既に覚えてるはずが無い。カトラリーは外側から、ってのしか覚えていません、すみません、バイパーさん。しかも覚えている理由が、ちょっと言葉の感じが好きだなんて、彼には絶対に言ってはいけなさそうだ。


「さあ、参りましょうか。」

今日の待ち合わせは、1階のタクシー乗り場。19:00にフロアを出れば到着はわたしの方が早いとタカをくくっていたけれど、そこには既に3人の男性が待ち構えていた。3人、というのは、アーシェングロットさん、リーチさん、そして、フロイドさん。
お詫びなのに、本人も一緒だとは思っていなかった。いや、お詫びだからなのか。わたしからしてみると、先日、彼の言い方で言うと仲直りをしたばかりなので、本人がいるのは不思議な気分。勿論、気まずいとかでは決してないし、隣に座った今も、普段通りに会話している。

「そーいや、昨日あげたチョコ食った?」
「はい、社長室の女性陣で美味しくいただきましたよ。」
「そ、美味かった?」
「美味すぎでした。」
「ならよかったぁ。」

どうやら今の今まで、一応心配をしていたらしい。気にしてなさそうなのに。むしろ、個人的には同じチョコを買ってこられるとも思ってなかったのに。本人からしてみれば失礼なイメージだろうけど。いまだ扱いにくい印象を与える彼なので、そう思っても仕方ないところがあるのも事実だ。
しばらく車を走らせたところで、ドライバーさんがお待たせしましたと車を停車させる。車の中でもアーシェングロットさんとリーチさんは、お仕事の話をしており、自分に貴重な時間を使わせるだなんて、多少心苦しくもなった。

「お手をどうぞ。」

スマートなリーチさんにエスコートされながら、ハイヤーを降りる。到着した場所が、アーシェングロットさんが管轄しているレストランだとは、すぐに気付いた。
都会の雑踏の中に佇んだ一軒家のレストラン。真っ白な3階建ての美しい洋館は、ライトアップされ青白く浮かび上がっている。社長もたまに会食で利用する場所であり、足を運んだことはないものの、何度も電話をかけたことがあった。
まさか、単価50000マドルの店に連れてこられるとは・・。多分、経費で落ちるのだろうが、ラッキーだと手放しに喜べない自分がいる。いや、あの、これが、デートだったりしたらまた違うけれど、誰が好き好んで会社の役員達と・・・?しかも、あまり交流が多いわけではないアーシェングロットさんと?お詫びにしては、ちょっと豪華すぎやしませんか。
そんなことを考えながら案内されたのは、2階の奥にある個室。真っ白なテーブルクロスが広げられた丸テーブルに、椅子が4つ。当然のようにスタッフさんに椅子を引かれ、ありがとうございます、とそこに腰を下ろした。随分と座り心地のよい椅子だ。
シンプルでありながら、美しい装飾のある部屋と、それに合わせた家具や食器達は、女性心をくすぐるもので。わたしだって、女性だ、少しテンションが上がる。
もう何かを考え込んでも仕方ない、とりあえず今日はこの場を楽しもう。と、乾杯のドリンクを頂くことにした。

「では、乾杯。」

アーシェングロットさんの一声で、グラスを持ち上げる。食前酒として用意されたのは、シャンパン。よかった、ワイングラスをぶつけてはいけないことは流石に知っておいて。これ、知らなかったら困惑するわよね。むしろ、過去にしましたとも。ええ。

「いかがですか?」
「これ、すごく飲みやすいですね。」
「ええ、そうでしょう?僕の勧める1番のシャンパンなんです。」

そうアーシェングロットさんは、再度グラスへと口付ける。
出されたのが飲みやすくて美味しいシャンパンなのは、かなり助かった。これで飲みづらかったら、どうしようもない。この間のように、ウーロン茶でお願いします、だなんて言えるわけはないのだから。
わたしだって、流石に空気は読む。こういう時には、お酒飲める顔をするし、ゆっくりであれば悪酔いをすることも無いから、最後までお酒を付き合うことも出来る。特に、いいお酒であれば尚更。

「そういえば、君はあまりアルコールが得意ではないと聞きましたが。」
「え・・・?」
「もし飲みたくなければ、無理する必要はありませんよ。僕は、お酒が飲める飲めないで人を判断しませんからね。」

彼のその言葉は、普通であれば嬉しい発言だった。ビジネスの場において、お酒は飲めた方が相手との距離を詰めやすいことが多い。それを分かっていて、自分もある意味、無理をすることだってあった。
ただ、知っていたのであれば、乾杯前に言ってくれたらよかったとは思う。正直、試された気分だ。
それがちょっとだけ気に食わなくて、美味しいお酒は頂けますよ、と返答してみる。勿論、それは事実でもあった。居酒屋の安酒と、いま出されているお酒は、同じアルコールでも質が違うし、こういうと、あまりいいようには聞こえないが、高いお酒は悪酔いもしにくく、美味しいものだ。

「そうですか。では、是非お付き合いください。」

その笑顔に乗せられたわたしが悪い。
まさか、1人で帰れなくなる程、酔っ払うだなんて思ってもいなかった。結局、自宅まで送り届けてもらったのは日付を超える直前。
酔っ払っても、多少気持ちが悪くなったりだとか、眠くなったりするだけなので、そこまで何か相手に悪いことをしてはいないけれど。少し気が大きくなって、言いたいことを言ってしまったところはなきにしもあらずだ。
記憶がなくならないことは、いいのか、悪いのか。いっそ、なくなるタイプだったらよかったのに。




Wednesday evening







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