
年輪
「お母さん、これ何?」
ある冬の日のこと。母がキッチンに何やら美味しそうなケーキを置いていた。庭に植えられている古い桜の木の年輪にも似た、ぐるぐると層を重ねたような不思議な円形のケーキはきつね色で、ふんふんと匂いを嗅ぐと甘い匂いがした。
「ああ、引き出物のお菓子やよ。バームクーヘンって言うねん」
「なんでぐるぐるしてんの?」
「お嫁さんと旦那さんが、ずっと一緒にいられますようにって意味があるんよ」
お茶の用意をしながら言った母の言葉の意味を、小さな私はよく分かっていないままに「ふうん」と呟いただけだった。「なまえもいつか、お嫁さんになる時が来るんやろねぇ」と言いながら、湯呑にお茶を注いでいた母はこの後、このケーキを切ってくれた。コーティングしている砂糖は雪のような白さで、しゃりしゃりと音をたてて口の中で溶けていった。
▽▽▽
私には歳の離れた兄が四人いた。その中で最も私と仲が良かったのは、上から二番目の兄だった。
「なまえ、そんなに泣いたら兎さんのおめめになってしまうで」
池の中でこっそり隠れて飼っていた金魚が、ある朝急に死んでしまっていたのだ。ぽっかりと浮いた赤い金魚は、五日前に家族と出かけた夏祭りの出店で父が買ってくれたものだった。普段はほとんど仕事で遊んでくれることの無かった父の手に繋がれて、右手には金魚も持ってあんなに楽しい気分だったのに。
手にした餌代わりのパン屑を見た兄は、「だから朝ご飯のパンを残しとったん?でもなあ、金魚さんはパンは食べやんのとちゃうんかな…」と言いながら、縁側に置かれていた下駄をからんころんと鳴らしながら兄がこちらに近づいてきた。ひょい、と抱き上げられる。
「後で僕と一緒にお祭りいこか。それで、また金魚掬いしよ」
「うっ、う、」
「はいこれ。飴ちゃん食べ。お祭り行ったらなまえの好きなりんご飴も買おね」
兄はそう言って、その白い指先でポケットの中に入っていた飴を包みから出して私の口へと入れた。甘い味がする。苺の飴だ。近所の古い和菓子屋さんのレジの隅で売っているそれは、私が好きな飴だった。この兄はいつも、私の機嫌を取るのが上手かった。まだ昼前だったが少しずつ暑くなってきた太陽の日差しから覆い隠すように抱きしめられて、汗で額に張り付いた前髪を払われる。からん、ころん。兄の下駄がなる。この頃から私は、彼の腕に抱かれている小さな子どもだった。
▽▽▽
兄は他にも三人いたが、私の髪を結うのが一番上手かったのも二番目の兄だった。
「なまえ、これもう淑乃にしてもらった方がええわ。あっち行っとき」「…なまえ、それ絶対僕がせんとあかんの?」「兄貴たちが髪結ぶのしてくれなかった?母さんが留守だからって?それなら兄ちゃんが―、ってなんで逃げんねん!」
「それで僕のところに来たん?」
ぐちゃぐちゃになった髪でことのあらましを説明すると、部屋で本を読んでいた兄は苦笑してみせた。そして読んでいた本をぱたんと閉じて、「どこにあったやろなぁ…」と、立ち上がって棚の奥を物色し始める。彼が取り出した昔風のクッキー缶の中には、椿の模様が描かれた赤い塗りの柘植の櫛が入っていた。
「なまえ、こっちおいで」
おいで、とゆらゆらと手を招かれて兄の前に座る。髪を梳かれながら、兄が読んでいた本の表紙を捲ってみようとすると、後ろから手が伸びてきてひょいと取り上げられてしまった。
「何すんの」
「なまえにはまだ早いわ」
「えっちな本?」
「かもしれへんねぇ」
くすくすとささめくような声が、頭上から落ちてくる。ひた、と首の後ろに触れた兄の指は夏だというのにひんやりと冷たかった。兄の手はいつも冷たいのだった。いつかそう言うと、「じゃあお兄ちゃんの手、ちゃんと握って温かくしてな」と差し出されたことがある。なんとなくそのことを思い出して兄の手に触れてみるけど、子どもの大きさしかない私の手から譲れる熱などたかが知れている程度で全然温かくならなかった。
「なまえの手は小っちゃいねぇ」
ぎゅう、と握りこまれた手は雪のように冷たかった。それがなんだか悔しくて、両手でぎゅうぎゅうと握りしめてみる。そんなことを繰り返しているうちに、母が帰宅した声が玄関の先から聞こえてきた。
▽▽▽
中学一年生。クラスの友だちに、ちらほらと彼氏が出来始めた。
浮足立ったような彼女たちの雰囲気は、窓辺でいつも外ばかり眺めている不真面目な生徒だった私とはまるきり縁のないものだった。なまえって付き合ってる子とかおれへんの?好きな子とかは?仲良しの深月ちゃんがそう言ったけど、私にはとんとそんな相手はいなかった。
私はその頃も、まだ二番目の兄と一緒に夏祭りに行っていた。この頃兄は高校も三年生に上がっており、もう随分大人になっていた。だが、毎年この時期になって学校から帰ると私は決まって兄の部屋に行って、「兄ちゃん。縁日いこ」と彼を誘うのだった。そうすると兄は「ええよ、外出て待っとき」と言う。さすがに昔のように浴衣を着ることはしなかったが、子どもの頃と何ら変わりなく私たちは手を繋いで神社までの道を歩いた。兄の手はもう大きくなった人の男のそれで、薄く平べったい掌は触ると確かに骨の感触がした。そして相変わらず、軒下に出来る影のようにひんやりとした温度なのだった。
兄が、女の人と遊んでいるのは知っている。兄の手首に彼女たちの髪を結ぶためのゴムがかけられるようになったのはいつなのか、あまり覚えていないがそれを見ても兄を取られることへの嫉妬の気持ちなど湧いてこなかった。好きな子おらんの、と聞いた深月ちゃんの言葉を思い出す。私はこの年になっても兄と二人で、何も知らない人からすれば恋人同士のように見えるかもしれないような近い距離で共に出歩いているが、実の兄に対して性愛の情を抱いてはいなかった。だから、顔も見たこともない兄の相手の女性たちへ思うところもなにも無い。ただ、よく兄が私の髪を梳く時に使っていてくれたあの赤い柘植の櫛。それだけは、他の人に触らせて欲しくはなかった。
「なまえって好きな子とかおらんの?」
「深月ちゃんといい、兄ちゃんといい、皆そないなことばっかり言って。嫌やわ」
はあ、とため息を吐くと、傍らの兄は可笑しそうに笑って頬をつんと指で突いてきた。「なまえももうそんな年になったんやね」そう笑う兄を見上げながら、この人にとって自分はいつまで経っても子どもなのだろうなと思う。赤い柘植の櫛、どこにあんのと聞く。何に使うん?と聞かれたから、隠すねん。と言えば、兄はまた可笑しそうに笑った。
▽▽▽
高校一年生の春。といっても、もう月末なので、すっかり葉桜になってしまった木々が街に増えた頃。
私に、生まれて初めての恋人ができた。
あちらから告白されて、私もその人のことを何となくだけど好き、なような気持ちがあったので付き合うことになった。何も特別なことはしていない。特別なことではなかった。今思えば。初めて出来た彼氏と手を繋いで田んぼの見える田舎の街を歩いたり、一緒に映画館に行ったりもしたが、なぜか思っていたよりもどきどきはしなかった。
部屋の隅で、私はお化粧をしていた。覚えたばかりのそれは、アイシャドウの塗り方もたどたどしくて、鏡に映った自分の顔も、なんだか知らない人のような気がする。近所のドラッグストアで買ったばかりのリップの封を切ろうとした時、控えめなノックが聴こえてきた。
「なまえ?今、入ってもええ?」
二番目の兄の声だった。この頃、彼を除く他の兄たちは各々の進路に進んでいき、長男は家業を継いで、三番目の兄は府外に出て病院に勤めるようになり、四番目の兄も彼の後を追うようにしてこの古い街から去って行った。古びた匂いのするこの日本家屋の家は、昔のようなざわめきを失くし、しかしこの頃まだ私だけが学生だったので、一人だけネイビーのセーラー服を着ていたのである。
襖を開けると、中に入って来た兄が急にごめんねと言いながら中に入って来た。かすかに、女性ものの香水のような匂いがした。
「母さん今出かけてはるんやけど、なまえ、昔のアルバムどこにあるんか知ってる?―って、あ」
兄はふと、私の手にしていたリップを見た。そして私の顔とそれを見比べ、少しだけううんと唸るような仕草をしてから、「なまえにはその色は強すぎるんとちゃうんかな」と言った。
でも、これ買ったばかりやし。と、私が食い下がると、ちょっと待っててな、と兄は何処かへいった。そしてまたすぐに戻ってきた。彼の手には、小さな貝殻に入った紅差しがあった。
「え、それお母さんのんちゃうん?」
「ええんよ、ちょっとだけやから。内緒にしとき」
どこかで見たようなそれが母の物だと気づいて怪訝な顔をした私に、兄は悪戯っぽく笑った。かちゃ、と小さな音がして開かれた紅差しの中は、私が持っているマットなオレンジのリップとは対照的な、淡い桜の花びらのような薄い色のリップだった。
「じっとしといてな」
兄は、指の先にとったそれを私の唇にそっと乗せた。まさか塗られるとまでは思っていなかったので驚くも、大人しく兄に身を任せていると、彼はゆっくりと瞬きをしながら言った。ふふ、と小さく笑いながら。
「なまえももう、お化粧する年になったんやねぇ」
兄は、私が恋人とのデートに行こうとしていることを知っているのかもしれなかった。言ったわけではなかったが。
兄にアルバムの位置を教えると、「おおきに」とゆるりとした微笑みを一つ零して、兄は部屋を出ていった。
後に残された私は、その後待ち合わせをしているショッピングモールまで行って、例の恋人と夕方まで一緒にいた。その帰りの道すがら、送ってくれるといった彼が、私の肩を名残惜しそうに掴んで、そしてそっと触れるだけのキスをされた。それは生まれて初めての口づけだった。恋人は真っ赤な顔で、恥ずかしそうで、彼の心臓の音まで私に伝わってきそうなほどだった。いや?と聞かれたので、嫌じゃない、と言えば、先ほどよりもゆっくりとした動作でもう一度、唇を重ねられた。
―その時私の頭を過ぎったのは、目の前の恋人ではなく、兄のことだった。
私は兄が彼の数多いる恋人、のような存在の女性たちの一人と、キスをしているところを一度だけ見たことがあったのだ。家から少し離れた所、きっと今の私たちのように別れるところだったのだろう。呼び止められた兄は、その女性にキスをしていた。だけど私の今の恋人のような、おっかなびっくりとしたものではない、何度もしているような、もう幾度と繰り返されたような仕草だった。兄の、女性の耳を擽るような白い指先を思い出す。何事かを囁いて、女性が頬を染める様子も。
兄が塗ってくれた桜色の口紅が、恋人のへたくそなキスで落ちてしまうまで、私はずっとそのことばかり考えていた。
▽▽▽
実家に帰って古びたすりガラスの扉を開けると、昔の匂いがした。古い畳のような、遥か昔の幼い思い出の向こう側にだけある匂いだった。はぁ、と吐いた息が白く染まってガラス窓を曇らせる。奥から出てきた母が、私を見て「お帰り。早かったんやね、なまえ」と言いながらこっちへやって来てくれる。家事をしていたのか、手をエプロンで拭いながら。
「うん、久しぶり。はいこれ、お土産」
「ああ、そんな気遣わんでもええのに…」
東京駅で買ってきた黒胡麻の餡が入ったお菓子のパッケージを見て、「これは仏壇に先に備えるわ」と母は言った。今年亡くなった父の眠る仏壇に、私も挨拶に行かなければならない。母の後に続いていきながら辺りを見ると、廊下の向こうから歩いてきた背の高い男の人が「おかえり、なまえ」と目を細めて微笑んだ。兄だった。
「ただいま、兄さん」
「なんや、昔みたいに"兄ちゃん"って呼んでくれへんの?」
「兄さん、私もう大人なんやで。兄さんこそ今でもこの家に住んでんの?」
兄はこの頃、実家で物書きのような仕事をしていた。一番上の兄もこの家に住んではいるが、近頃は仕事が忙しいらしい。母が言うには、近々お嫁さんを貰うことになっているらしかった。
目の前にいる兄を見上げる。この寒いというのに、兄は着流しを引っかけただけのような薄着だった。着物の袂から覗く腕や首筋の青白さや、切れ幅の長い目元に他の兄たちの面影が重なる。同じく府外に出た兄二人とは何度か向こうで会うこともあったが、この兄に会うのは数年ぶりのことだった。
「なまえは変わらへんねぇ」
兄の笑い方は、昔と一緒だった。小さい時と、何も。何も、変わっていない。
仏壇が置かれている部屋から出てきた母が、廊下で喋っている私たちを見て「なに、あんたら。そんなとこで話してないで、はよ部屋入りなさい」と襖を開ける。ヒーターで温かくなった居間へと足を踏み入れると、かじかんだ指先が外との温度差でじんじんと揺れるような感覚がした。お菓子の包装を開けながら「それで、」と口を開く母に、顔を向ける。
「なまえ、あっちに好い人とかおらへんの?向こう行ったっきり、なんも浮いた話無いから心配なんよ?」
「お母さん、私今は仕事が楽しいねん。だからそういうのはまだ良いっていうか…、」
「母さんはなまえが兄弟の中で唯一の女の子やから心配してはるんよ。まぁあれやね、誰とも結婚できひんかったら兄ちゃんとしよか」
座布団に腰掛けた兄の言葉に、「もう」と母が頬を膨らませる。お母さんは真面目に言ってるんよ、と続ける母の手から急須を借りて、もうお母さんは座っといてと言いながら代わりにお茶を淹れる。お土産のお菓子とお茶を飲み終わって片付けも終わった後、自室へと向かう途中に後ろから兄に呼び止められた。何だろうと思って足を止めると、兄は自分の部屋から取って来たあるものを私の前へと差し出した。それはあの古いクッキー缶だった。
「なまえ、こっちおいで」
昔と変わらない言葉で、だが声を発するたびに確かに上下する喉仏の動きと共に揺れる兄の声は、低かった。兄。私の兄。雪こそ降ってはいないものの、どんよりと曇った灰色の冬の空は、古い日本家屋の縁側に立っていれば吐く息が凍りそうなほど寒かった。兄の前に腰を下ろす。兄の手の中にあるのは、私が兄に言い寄ってくる女性たちに使われないように押し入れの中に隠したはずの柘植の櫛だった。一体どうやって見つけたのだろうか。するりと解かれた髪は、母と同じ黒髪ではなく、今では染められたダークブラウンに変わっていた。
「兄さん、いつまでこの家おんの?」
「そうやねぇ、いつまでやろねぇ」
「母さんが心配してるのって兄さんなんちゃうん?」
「耳が痛いわぁ、なまえ。兄さんのことあんまりいじめんとって」
ちっとも困っていなさそうな兄に髪を梳かれながら、私は押し黙った。庭の隅にある池に視線を遣る。あそこで昔は金魚を飼っていた。死んでしまった金魚に悲しむ私を、この兄は慰めてくれたことを思い出す。それに引きずられるように、また昔の記憶がはらはらと掌に落っこちてきた。赤い金魚、くちびるに塗ってくれた薄い桜色の口紅、大きくなってからもずっと一緒に行っていた夏祭りのこと。結局、私は未だに夏祭りは兄以外と行ったことがない。恋人が何人かいたこともあったが、夏祭りだけはどの男とも行く気がしなかった。
数十年に渡って重ねられた兄との記憶は、深月ちゃんの結婚式で貰った引き出物のバームクーヘンや、庭にある祖父の代からの桜の木の年輪よりもずっと深い層になっているような気がした。「なまえもいつかお嫁に行くんやろねぇ」と言った、母の声が甦る。ついこの間行ったばかりの深月ちゃんの結婚式のこともそれに連鎖するように思い出して、口から小さな自嘲の笑いが零れた。
遠い思い出の中で揺れているあの頃の兄の背中を追いかけようとして、傍らにいる兄を見上げる。兄はそこに居た。昔と変わらず、手にした赤い塗りの櫛で髪を梳きながら、合わさった視線に気づいて「どないしたん?」と小さな妹を見る目で微笑みを返してくる。
「私、結婚できひんかったらやっぱり兄さんと結婚するわ」
うなじに触れた兄の指は、冬の空気のせいでとても冷たかった。だけど腕の前で握った自分の手のひらも、冷たかった。私も彼と同じ大人になったからかもしれなかった。私がそう言うと、兄は「結婚指輪を用意せんとあかんねぇ」とまた笑ったので、私も、彼が昔縁日で買ってくれたおもちゃのビーズの指輪をそれの代わりにしようと思った。
ぴちょん、と軒から滴った雫が、池の中に落ちた。