夫と結婚した時、役所に届け出る名前の欄に「医山外果」と彼が黒いペンで書いた時のことを、今でも覚えている。夫となる人の名前の欄に書かれたのが、隣に座っているこの人なのだと思った時、しみじみと自分は彼と結婚するのだなあと思ったものである。苗字をどちらの姓に合わせるか、という話になった時、彼は自身の苗字に拘りがないと言ったので、私の苗字にすることになった。自分の苗字の横に続く外果、という名前を見るといよいよ不思議な気持ちになった。
役所に届け出る時、彼はいつものあのてろんてろんのスウェットにお手洗いに置かれているようなサンダルを裸足に直接履いて、冬だというのにその格好で行こうとしたので、私が慌ててマフラーを巻いた。「寒いですね」と夫が言うので、だから上着も着たらと言ったのに、と会話しながら、夫の眼鏡が吐く息で曇るのを見ながら、一緒に役所に行った。夜中だった。婚姻届を出す窓口は、一日中やっているらしかった。
夫は特に、私と結婚できたことに対して、よくテレビで映る若い男女のようなはしゃいだ空気はなかった。まあそういう人だからなあと思い、何を言うわけでもなく彼の隣を歩いて、一緒に住むマンションに帰り着いた。「表札をこれからは貴方の苗字に変えないといけませんね」と言うので、次の日曜にでも業者に連絡をするという返事をした。
夜の十時を回っていた時計を確認して、お風呂を入れる。私は普通の勤め人なので明日は休みだったが、夫は明日は非番ではないので適当な時間には眠らないといけない。お風呂に入るとき、私はいつも夫と一緒に入っていた。というのは、彼がひとりで入った時には思いついた実験の続きを急にその場で全裸のまま試し始めたりしてなかなか上がってこないことがあったからである。身体を洗ったりすることは一通り自分で出来たが、少し不安が残ったので場合によっては私が彼の髪を洗うこともあった。泡を流すときに大人しく目を瞑ってされるがままになっている夫は、不覚にも可愛らしい。
午後十一時半。お風呂からあがって、二枚の布団をフローリングの床に敷いた。グレーのパジャマを着た夫が、長さの揃っていない髪を拭きながら眼鏡を探しているので「こっちだよ」と教える。なお、パジャマも私がショッピングモールで適当に買って来たものだった。曰く、もこもこしていて温かいらしい。それは結構なことだ。
ぱちん、と電気を消した。
「ねえ」
「何ですか」
「私とあなた、どっちが先に死ぬと思う?」
なぜ自分がそんなことを訊きたくなったのかは、分からない。婚姻届を出した日に言うようなことではなかったかもしれない。だが、ふと口をついて出た言葉はそのまま電気の消された部屋の天井に残った。隙間のない二つの並んだ布団の隣で、夫は長い睫毛を二、三度、瞬かせた。
「なぜそんなことを訊くのですか」
「なんか、気になっちゃって」
ひとが死んだら、どうなると思う?
続けて訊くと、また夫は黙った。生き物は土に還るだとか、信仰している神の教えによって違うだとか、そういうことを言われるのかと思った。だが、夫は何も言わない。チク、タクと、目覚まし時計の規則的に刻まれる秒針の音だけがする。夫は寝返りを打って、私から背を向けた。「外果さん?」
「………………答えたくありません」
そう言った夫は、もうこちらを振り返ってくれなさそうな雰囲気だった。こんな話をするべきではなかったのかもしれない。だが、予想していなかったどこかセンチメンタルにも感じられるような声の響きに、彼の自分よりも広い背中がまるで子どものそれのように見える。なんだか、困っているような、何と言えば分からないような、拗ねているような、そんな気配が感ぜられた。
そっと、布団の中で夫の手を探して、握る。夫の薄い手のひらは、意外にも血の通った普通の温かさがあった。
「私、火葬がいいな」
「火葬。いいですね、環境への被害も少ないですから」
「外果さん、私のお墓に一緒に入るんだね」
「…」
あれ、と思う。返事がない。今度こそ気を悪くしてしまったかもしれない。自分の墓に刻まれる名前の横に、彼の名も並ぶと思えば私は嬉しかったのに。だが、これ以上無駄話をして彼の貴重な睡眠時間を削ってしまうわけにはいかないので、「おやすみ」と言って瞼を閉じる。微睡みに沈んでいく感覚の向こうに、「おやすみなさい」と、外果さんの応える声が聴こえてきた。
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