苗字名前は焦っていた。
三十歳手前になって、結婚どころか相手すら居ない。周りの友人は第三次くらいの結婚ブーム真っ只中。早い人では子供が二人いる友人もいる。自分だけ完全に置いてかれている。
結婚願望がないわけでは無い。むしろ結婚したいのだ。ちなみにお見合いは7連敗中である。ありがたい事にお見合いのお誘いが途切れる事は無いのだが、いつも向こうからお断りされてしまう。
教師をしていた事もあり、性格は真面目で謙虚だ。色々あって辞めてしまったが。次の職はヒーロー事務所の事務。帳簿作業や電話応対もある程度出来る。事務仕事のスキルは一般企業での就職に有利だ。まあ、この仕事も色々あって辞めてしまったが。現在の仕事は家政婦で、家事はひととおり人並み以上には出来る。条件だけ見れば超優良物件だ。
だが、なぜか彼氏が出来ない。おかげでこの歳で処女である。学生時代からの親友に言わせると、「名前は美人で優しいし、謙虚なんだけど、暗くてちょっと面倒くさいんだよね〜」との事である。あんまりな言い草である。ちなみにこの親友は第一次結婚ブームに乗って比較的若くして結婚したが、ただ今旦那と絶賛別居中である。口は良くない友人だが、昔から何かと気にかけてくれているから、憎めないのだ。
その友人と、先日二人で食事をしている時、やはりその話題になった。お見合い7連敗の記録更新の直後だった事もあり、名前の酒を飲むペースも自ずと早かった。
「うぅっ・・・どうせ私は暗くてめんどくさい女ですよ〜・・・」
「はい出た泣き上戸!そういうところよ、名前。」
傷口に塩を塗るスタイルである。何度も言うが、憎めない友人なのだ。ただ何事もあけすけにものを言ってしまうだけなのだ。
「でも、こんな美人な名前が結婚出来ないなんて、ほんと信じられない」
「お見合いでも、いつもそうやって振られるの・・・僕には勿体無いです、なんて、私にどうしろって言うのよ〜・・・」
常人には理解できない悩みだが、気の毒なことには変わりない。友人はやれやれ、と言った風にさらに酒を勧めた。
「まぁまぁ、名前にもいつか王子様みたいな人が現れるって。ほら、飲んで。今日は思いっ切り吐き出しちゃいな。付き合うから!」
言葉は辛辣だが、なんだかんだ面倒見がいい。そういう所が名前がこの友人と長く付き合っている理由である。暗くてめんどくさい自分を、色眼鏡で見ずに受け入れてくれる。付き合いは大学からだから、かれこれ10年近く付き合いがある。
「王子様・・・そういえば、王子様みたいな子、いたわ。」
「えっ何それ聞いてない。詳しく。」
食い付きが凄い。それまでの態度が嘘のように、食い気味に身を乗り出してくる様子は鬼気迫っている。しかし名前は酔いが良い感じに回っているのか、彼女の様子を気にかける事なく続けた。
「今になって思えば、って感じなんだけどね。私が教師してた中学校なんだけどね・・・」
それは名前が新任教師として就任した中学校での事である。同じ学年を受け持つ男の先生から、目をつけられていた。セクハラの方だ。歓迎会で隣に座ってきた時は、親身になってくれて優しい人だと思ったのだが、間違いであった。鈍い名前でも、下心があると分かる誘い方をしてくるようになったのだ。名前は社会人1年目だったので恋愛どころではなかったし、何よりその先生は妻子がいたのだ。不倫である。
丁重にお断りしていたのだが、ある日空き教室でバッタリ鉢合わせてしまい、2人きりになってしまった。今考えれば狙って入ってきたのかもしれない。そこでまた、今度2人で飲みに行きませんか?から始まり、人目がないのを良いことに、断っているのに段々と距離が近くなっていた。
「何もやましいことなんか無いですよ?ただ、僕は心配してるんですよ、」
「(近い・・・し、怖い・・・)」
とうとう壁側まで追い詰められてしまった。どうしよう、大事にはしたくないけれど、ちょっとこれは身の危険を感じる・・・と思っていた時だった。
教室のドアがいきなり開いた。
男性教師はガタっと後退りし教室の扉を振り向いた。名前もすぐに体制を立て直して扉に目をやった。
「・・・忘れ物をしたんですが」
その声にいち早く反応したのは男性教師の方だった。
「そうか!見つかるといいな!
・・・では苗字先生、僕はこれで。」
助かった。
やましい事をしていた自覚はあったのか、生徒に見られたと思って焦ったのか、男性教師はすぐに教室から出て行った。
名前は男性教師が見えなくなってから、ふぅーーっと大きく息を吐いた。ふと、教室の扉近くに立っている生徒に目をやると、向こうも名前の方を見ており、目が合った。グレーと青のオッドアイ。思わず吸い込まれそうだった。
「・・・邪魔でしたか?」
「・・・っえ!?いや、そんな事ないよ。・・・ありがとう。」
向こうから声をかけてきた。名前が悪い事をした訳ではないのに、なぜか居た堪れなくなった。彼のことは知っている。有名人だからだ。
轟 焦凍。
No.2ヒーローエンデヴァーの息子にして、雄英高校の推薦入学が決まっている、優等生である。校長が誇らしげに朝礼で共有していたのは記憶に新しい。
彼は3年生で、受け持つ学年も違うから向こうが名前のことを知っているかは分からなかった。
「えっと、忘れ物、だったよね。どの辺かな?」
「・・・忘れ物なんてしてない。先生達の声が聞こえて、様子が変だったから。」
ーー話の内容を聞かれていた。
何よりも先に、マズイという考えが浮かんだ。彼が言いふらすタイプには思えないけれど、誰かに言われたら、とそれが顔に出ていたのか、轟の方からまた声をかけてきた。
「別に誰かにチクろうとかは思ってねェけど、苗字先生も気を付けた方がいい。こんなひと気のない教室、これからは一人で入るなよ。」
そう言って、轟は教室を出て行った。呆気にとられてしまったが、彼の言う事は正しい。7歳も年下の子に注意されるなんて情けない。しかも色々と気を遣わせてしまった。色んな思いがぐるぐるして、その日はどうやって帰路についたか覚えていない。
その日から、なるべく1人にならないようにしたのだが、その分人目につく所でのアプローチは増えていた。そうなれば校内で噂になるのも当然で。このままではいけないと思ったが、名前が考えつく解決方法は一つしかなかった。
卒業式の日。式も体育館の片付けも終わり、人がまばらな校内。空になった自分の教員ロッカーから靴を取り出し、名前も帰ろうとしていた。小さな花束が入った紙袋を一旦床に置いて靴を履くと、苗字先生、と声をかけられた。
「轟君・・・」
夕焼けを背にして、轟がこちらを向いて立っていた。さすがと言うべきか、学生服のボタンは全て無かった。逆光ではっきりとした表情は分からなかったが、その特徴的な頭髪から、轟焦凍だと分かった。
「卒業おめでとう。」
「辞めるって、本当かよ。」
完全にこちらの言葉は無視である。校内に一歩入ってきた轟の表情は、悲しんでいるような、怒っているような、そんな表情だった。どうして轟がそんな表情をするのか、名前には分からなかった。
「本当だよ。」
「・・・ッなんで!悪いのは向こうだろ!?」
そこで、轟がヒーロー科志望だった事を思い出した。正義感が強いのだ。そして、正しい事がまかり通る世の中を信じている。だからこそ、名前の選択が正しいものではないと、そう思っているのだ。だが、学校側からすれば、一年目の女性新任教師と中堅の男性教師。どちらが重宝されるかは一目瞭然だ。
「君は、優しいね。良いヒーローになれるよ。頑張って。」
名前にとって、轟の実直さはあまりにも眩しすぎた。これ以上居ると、それを踏み躙る事を言ってしまいそうだった。足早に轟の横を通り過ぎようとしたが、腕を掴まれた。力が強くて、思わず顔を歪めたが、それ以上に轟の瞳が強くて、思わずたじろいだ。
「答えになってねェだろ・・・それに、困ってる人を助けられなくて、何がヒーローだ!」
轟は悔しそうに、自分に言い聞かせるかのように吐き捨てた。それを見て、名前は先程自分が轟へ感じた印象が間違いだったと気付いた。彼は、世の中にはどうにもならない事があるという、理不尽さを知っているのだ。知っていて、それを見逃してしまう自分を許せないのだ。それはある種の呪縛のようだった。この瞳は深い後悔と悲しみに囚われているのだ。だが同時に、とても強い意志のはらんだ瞳だとも感じた。思わず、名前はそれに縋りたくなった。しかし、もう終わった事だ。全て、名前が選んだ事だった。
「前途有望な若者に、これだけ想ってもらえた。それだけで、私の教師人生冥利に尽きるよ。」
ひとすじ、涙が溢れてしまったのは、嬉しかったからだ。
誰にも、見てもらえていないのかと思っていた。だが、轟は苗字名前を見てくれていたのだ。こんなにも心配してくれていた。それだけで、十分だった。
名前が涙を見せた事で、驚いたのか腕の力が弱まった。その隙に拘束から逃れ、そのまま顔を合わせる事なく2人は別れた。名前が仕事関係で泣いたのは、社会人になってからこれが最初で最後だった。