※昼寝の前のお話
夕刻を過ぎた頃、テーブルシティの空はどこからともなくやってきた厚い雲に一面を覆われてしまった。日中、そんな前兆など一切見られなかったが、今は雷を引き連れてこれからやってくるであろう荒れ模様を轟かせている。そして終業の時刻を狙ったかのようにして降り出した雨は、帰宅途中の私の体を容赦なく濡らした。それでも、この腕の中にあるものだけは死守しなければと前屈みになり身体を屋根にして、アカデミーを出た先の下町へと続く階段を勢いよく駆け降りる。その濡れた地面を叩く音の中で、つい先程のことを思い出し顔をほころばせた。今日、ハッサク先生と、話ができた。彼とは毎日のように顔を合わせているが、彼の意図的に隠されている、その内面を知ることができたのは久しぶりだ。僅かな時間だったが、それだけでも心が躍り、この天気の陰鬱さなど気にもならない。今はただ、その発端となった腕の中の物を家まで濡らさずに運ぶことだけが最優先だった。しかし、その途中で雨が激しさを増したことにより、その甘い判断もひっくり返されることとなる。
「(このままでは濡れてしまう)」
不安になり、道先にある石造りのアーチの下へ一時的に避難しようと、バシャバシャと水溜りの音を立てて入り込んだ。あまりにも激しい雨で頭を下げていたから気がつかなかったが、私と同様に雨除けをしている黒い人物の影が視界の隅に入る。あまり目をやっては失礼だと、目の前の大通りに視線を置いていたが、視界の隅でその顔がこちらを見ていることが気になり、その方向に目を向けた。片手で数えるほどしかいない私の交友関係の中で、唯一知っているサラリーマンがそこには居た。
「あ…」
「…どうも」
彼、アオキも同じく、その直前に濡らしてしまったであろう飛び出た一本の前髪に雫を垂らし、こちらに向かって会釈をする。その彼とは、昨日の昼以来の再会だが、他人行儀な声かけは相変わらずだった。私はというと、先程の出来事を話したくて浮かれているのか、そんな彼のことなどお構いなしに自然と笑顔を浮かべる。そんな私の様子に気が付いたらしい彼は、端の方から、同じく端にいる私の方へと歩み寄ってきた。
「自分と同じ、終業後に雨に降られるなど運が悪いですね」
そう言って私を見下ろす彼に向かって、無邪気に笑う。
「貴方のは、お仕事帰りじゃなくて、夕ご飯を探しにきて、ですよね」
そんな軽い戯れに何を思ったのか、彼は目を細めて私を見た。
「…なんだか、今日は機嫌が良さそうです」
私のことなのか、彼のことなのか、そのどちらの感情のことを言っているのか分からないくらい、この悪天候とは真逆に会話が弾む。その答えはこの腕の中にあるということを、早く彼に教えたくて堪らなくなり、私は許可をもらうための前置きを述べた。
「貴方との関係は、契約外でも適用されるのでしょうか」
不意に出た契約という2文字。そんな堅苦しいものでは無かったはずだが、念のため食事抜きでハッサク先生のことについての話をしてもいいかを問いかける。私と彼の関係は一見複雑なようでシンプルだ。私は彼に気に入られているらしく、彼と食事の時間を共にする代わりに、ハッサク先生のことを知りたい私に情報を提供してくれるというもの。それも、今となっては食事代も出している彼の不利益の方が多い気がするが、本当にそれだけの関係を望んでいる彼からしたら、私がこんなことを提案するのは嫌なのかもしれない。その考えは的中。彼は私の言葉に対して、何か思うことがあるような素振りで回答をした。
「はい…、善処します」
善処します。だなんて、本当に言う人がいるのか。一応は許可を得たらしいその言葉を、何も躊躇いもなく受け入れた今の私には、彼の気持ちを考える余裕など無かった。とにかく、これを早く見せたくて仕方がない。あまり変わることのない彼の表情が、機械のように温度を無くしたことに気が付かず、私はそのスーツの袖口を引っ張り、強引に雨の下に飛び出した。私の家はもうすぐそこだからと、軽い足取りで地面を駆けていく。
狭苦しい玄関でずぶ濡れになって立ち尽くす、スーツ姿に声をかけた。
「待っててください」
同じく、ずぶ濡れになった私は靴を脱ぎ捨てると、洗面所に走り出す。バスタオルを2枚取ると、まずは腕の中にあるそれを濡らさないように取り出してリビングのテーブルの上に置いた。それから、玄関にいる彼の元へと向かっていく。
「はい、どうぞ」
「はぁ」
手渡したタオルを、返事かどうかも分からない微妙な相槌をしてから受け取る。まるで、何事かというように彼は衣服を弾く水の粒をタオルに吸わせながら、ジロジロと私と室内を交互に見た。
「ここは、貴女の住んでいる…」
「? はい」
その返答を聞いてもなお、室内を隅から隅まで見ている彼にもどかしくなり、早く部屋へ上がるように促す。自らの頭を拭いているタオルの隙間で、そのおずおずと靴を脱いで上がる彼の姿を見てハッとした。
「ちゃんと、拭いてからです」
彼の額にある髪の毛の先端から、水の滴が落ちようとしている。これからアレを見せるというのに、濡らしてしまっては意味がない。私はそれを掬い上げるようにして彼の顔をタオルで包み込んだ。それから、整髪剤で固められた髪型を崩さないように気をつけながら、顔の周りを優しく拭き上げる。彼の行き場を無くした片手が空を切り、そのガソゴソと動くタオルの中で、瞬きもせずにそれが終わるのをジッと待っていた。
「見てほしいものがあります」
「…な、んですか」
すぐに拭き終わり声を掛けると、彼は一瞬どこかへ行っていたかのように意識を引き戻し、遅れて声を発した。その様子に不思議に思いながらも、部屋の真ん中にあるテーブルへと移動してその椅子に腰をかければ、彼もそれに続いて向かい側に座る。落ち着きのなかった彼もそのテーブルの上にあるものを確認すると、ヒュッと息を飲み込んで、そこに食い入るようにして目をやった。
「これは…」
「はい! 絵です」
そこにあるのは、数時間前にハッサク先生に見せたもの。背景はクリーム色に、ちゃんと光沢のあるツヤツヤとした赤いリンゴをクレヨンで描いた絵だった。でも、教えたいのはその絵の内容のことではない。
「初めて絵を描いて、ハッサク先生に見せたら、喜んでくれました」
そう、私はこの絵を見せた時、彼の気が緩む突破口を見つけたような気がして嬉しくなった。今までは、何も知ることができなかった彼の内情を深く知ることができた気がして、誰かに打ち明けたいと思ったのだ。要は、これは恋愛トークという類に入るのだろうか。そんな甘酸っぱいものではないが、彼との間に進展のない私にとって、それは大きな出来事だった。だから、唯一ハッサク先生のことを話す仲である、彼に言いたかったのだ。別に一緒に喜んでほしいわけではない。いつものように、淡々と話を進めてくれれば良かった。それなのに、目の前にいる彼の表情はというと突き放したような目で私を見てくる。
「はっきり言うと、下手くそですね」
「え、」
「この絵、一瞬、人の歯茎に見えて恐怖を感じました」
「は、はぐき…」
次に彼の口から出たものはというと、受け身の姿勢で話をしてくれるいつもの彼とは違い、言葉の中に棘を含めたものだった。彼が、そんなことを言うのは珍しい気がして一瞬たじろぐが、今日の出来事により楽天的になっている私の脳みそはそんな言葉さえも前向きに捉えてしまう。
「先生も、人に対象を理解してほしいなら、まずは観察する力を身に付けるようにと言ってくれました」
「頑張ってください」
「…は、い」
「話はそれだけですか」
そんなポジティブな思考も、会話が止められてしまえば何も言えなくなってしまう。やはり、これは契約外だったのだろうか。ここはテーブルで、彼と向き合っているはずなのに、食事は出てこないし、彼はお金を支払わない。ハッサク先生のことを打ち明けられるのは、それが成り立つ契約内でだけ。そう突きつけられたような気がして、未だ冷たい目を飛ばす彼に何も言えなくなってしまった。そんな状況に困惑していると、彼はフッと顔の強張りを緩めて、口を開く。
「本当に何も無いですね」
「え?」
「貴女も、この部屋も」
そう言って、彼が見回したのは殺風景なこの部屋の様子。寝る場所と、食べる場所と、それから昨日絵を描くためだけに用意した汚しても良い小さな机、その上にはクレヨンの入った箱だけが置かれていた。それらをすべて見回してから、私のことを真っ直ぐと見つめて、その目の中に捉える。その表情には、どこか心に決めたような強く固い意志を感じられた。気がつけば窓を叩く横殴りの雨は止み、今はこの部屋に静寂をもたらしている。そんな様子に酷い居心地の悪さを感じた。
「ごめん、なさい…」
「良いんですよ、別に。それが貴女ですから」
その異質な空間に、何も理解することができず謝ってしまう。それでも、何故だか私に許しを与えた彼の様子を見るに、やはり気を悪くしていたのだと確信した。でも、彼が何を思っているのかが分からない。何がいけなかったのか、何が悪かったのか。彼と雨宿りをした数十分前に記憶を遡る。彼と昼以外にこうして話をしたのは、今日が初めてだったのかもしれない。でも、私はいつものように、ただハッサク先生のことを考えていて、そのことだけを彼に伝えたくて。それから自宅に招き入れて、彼にこの絵を見せて…。その時の彼の様子を思い出す。私が浮ついている理由など知っていたはずなのに、やはり声に出したハッサク先生の名前を聞いた時の彼の表情は、見たこともない落胆だった。
「あの、」
そう、私が声を発した瞬間に彼は席を立ってしまう。その手を掴もうとしたけれど、容易く擦り抜けてしまって、今はもうここには無い。そんな私の腑抜けた様子に気がついた彼はというと、部屋を出る前にこちらを振り返って「いつもの約束」を取り付けた。その言葉に、私はやはり許されたような気がして、顔をパッと上げて彼のことを見てしまう。そんな私に、彼は何を思ったのかは分からない。私は欲しいものを見透かされたような気がして、心苦しかった。
「明日の昼休み、彼の話をしましょう」
「はい…」
彼が部屋を出て行った後も、私はそこから動けなかった。階段を降りる革靴の音が聞こえなくなってからも、私は何も無いと言われたこの部屋と自分自身を抱えながら、この静寂の中でハッサク先生のことを思い浮かべる。
「そんなこと、ない」
不意に出たその言葉は、つい先程彼に浴びせられた言葉に対する否定だった。
「本当に、何も無いですね」
「貴女も、この部屋も」
ハッサク先生の言動に一喜一憂し振り回される感情と、違うところにあるもう一つの感情がじわじわと私の心を黒く滲ませていく。わかってる。彼の言葉はきっと、何気ないものだった。でも、それが私とハッサク先生を突き放す確信めいたもののような気がして、自分がままならない。ふと、テーブルの上に置きっぱなしになったその絵が視界に入る。ハッサク先生から、何もしてはいけないと言われている中で、唯一見つけた彼の気を引かせる方法。これを見せた時に、正解だとでも言うように笑ったハッサク先生の顔を思い出した。絵なんか描いたことも無かった私が、一生懸命に捻り出した答え。こうでもしなきゃ、ハッサク先生に見向きもされないのか。それがとてつもなく酷いことのような気がして、これも、自分には何も無いからのような気がして、心が抉れる。第三者から見ても分かる、私とハッサク先生の埋まらない距離。あぁ、早く、早く早く、
「先生に辿り着きたい」
その言葉は雨上がりの静けさの中へ消えていく。咽び泣く私の声と、湧き上がる行き場の無い衝動に、早くこの現状から抜け出したいと、明日訪れるであろう昼休みのことだけを考えた。明日、テーブルを囲んだら、彼に何を言おう。私はどうしたらいいと言えたら、叫べたら、何かが変わることなどあるのだろうか。数分前の彼の冷めた目線が、私のことを決めつける。貴女にその勇気などあるのだろうか。
気が付けば、私は夢の中にいた。どうやら机の上で眠ってしまったらしい。混濁した意識の中で、「彼」の姿を発見した。そのどちらにも似ている、しかしどちらかが分からない、ぼんやりとした人物の影を私は虚ろな目で追いかける。そして、それから、その手によって酷く体を暴かれてしまう夢を見た。翌朝、酷い倦怠感を感じながら目を開けたその先には、テーブルの上にくしゃくしゃになった絵だけが残っている。意味を無くしたその有様に、本当の答えを突きつけられたような気がして、私は、また目を閉じた。
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