自らの業務を全うするためであって、これは邪念ではない。そう自分に言い聞かせて向かったのは、東3号館2階にある美術室だった。授業があるという2限目の時刻になる前に、書庫の作業を抜け出すことができた私は、図書の選書依頼の書類を渡すためハッサク先生に会いに行く。その足取りは自分でも分かるほどに軽やかで、今にも笑みがこぼれ落ちそうなほどに気持ちが浮ついていた。それも、渡り廊下を抜けた先の目的の階段に足を掛けた頃には、自分を律さなければならない。なぜなら、少しでもこの気持ちが彼に知られると、怒られてしまいそうだから。しかし、その部屋の中で美術道具の準備をしていた彼の、袖を捲り上げた腕を目にした私は、初めて出会った頃の屈託のない様を思い出し目を惹きつけられる。あの時の、ポロシャツから出た、なめし革のように張る筋肉質の両腕が汗で湿りを帯びているのに見惚れていた記憶。びゅうと風が吹いて、微笑みながら私に近づいていく彼が、自らの髪の隙間から見えて胸を締め付けられる。そんな情景を想い、焦がれ、彼に私を見つけてほしいという感情が湧き上がる。
「先生、これ…」
 そう言って近づいていった私の手は、気がつくと彼のニットベストの裾を引っ張っていた。私を覆ってしまいそうなほど背が高く体格の良い身体がゆらりとこちらを向き言葉を投げる。そんな過去の出来事は儚いものだとでもいうように、この業務の遂行自体が彼に会うための口実だったのだと、そんな私の卑しい感情をあぶり出し白日の下に晒してしまう。
「こういったものは職員の連絡網がありますので、次回からはそれで結構です」
 冷たく言い放たれた。何よりも、その言葉は彼からの拒絶が痛いほどに分かる。私の手は彼の服から離れ、宙を彷徨ってから自らの意志で後ろに仕舞われた。あの時、彼の唇が私の唇に触れたからと言って、私に対する態度は未だに変わらず冷たいまま。本来ならばいくら相手が嫌いだとはいえ良き人間関係を構築するために此処は会話を楽しむようなもの。彼のような職業は、他の生徒や職員にその冷淡さを見せることなどありえない。それと同時に、そのような態度を取られるのはこの私だけなのだと、少しの優越感に浸る自分も居た。それすらも、喜ばしい出来事に変換してしまう私の思考は、最早彼からの好印象など意識していない。それでも、彼の約束を律儀に守り「はい」とだけ返事をし書類だけを置いて美術室を去るため踵を返す。
「おや、行ってしまうのですか」
 そうやって背中に声をかけられるまで、私は彼からの褒美を心待ちにしていたのだと分かってしまった。数秒交えず振り返った身体は弾んでいる。
「…だって、先生は何もするなって。私はまた何かしてしまったらしいので」
 呼び止められたことに対して自戒を含めた喜びで声を震わせた。そんな私を見て、彼はゆっくりと口角を上げて笑う。嫌だな。まるでこの言葉は振り返ってしまったことに対しての言い訳のようにも、彼からのアクションを大人しく待って鼻を鳴らす犬ポケモンのようにも、それはそれは滑稽な姿にさせられる。しかし、目の前の彼はそれすらもすべて覆して、今夜の食事の約束を取り決めてしまう。思ってもみなかった出来事に、「嘘ではないですよね」と再度確認を入れてしまった。それほどまでに、私は彼にとっての喜ばせる何かをしてしまったのかと考える。普段の彼からは決して感じることがない満悦を宿した瞳は、狼狽える私のことをいつまでも眺めていた。

「先生の好きな食べ物、教えてください」
 私たちは終業後、テーブルシティにあるスペイン料理店で食事を摂る事にした。道中、今日のことに心が弾み過ぎて、未だアカデミーの生徒が出歩く時間帯であるにも関わらず何度もその腕に絡みつき、彼に怒られてしまう。それすらも楽しくて抑えることすらしない私を、彼はそこまで強く突き返さず、この手を何度も払い落とすだけで留めていた。そんな調子に甘えていたからか、店のテーブルについた後も、本日の就労をねぎらうより先に、彼のことが知りたいがための質問が出てくる。
「卵料理とか、ですかね。あぁそれと、魚介類もよく食べますですよ」
「…じゃあ、このトルティージャを頼みましょ。それと、このアヒージャも」
「アヒー"ジョ"ですね。それよりも、貴女の好きなものを頼みなさい」
「私も、卵料理とか魚介類とかが好きで…、先生と、一緒なんです…」
 そんな私の言葉に呆れたのか彼は深い溜息を吐いて店員を呼んだ。もちろん嘘など吐いていない。彼の好きな食べ物を知った後に、私の好きな食べ物は必然的に「卵料理」と「魚介類」になったのだ。だから、これは嘘ではない。それなのに、私の返答に少し眉をひそめた彼の機嫌を伺いたくて、わざとらしく名前を呼んで彼の意識をこちらに向かせる。
「先生、ハッサク先生」
 注文を終えた彼は、厨房に伝票を渡しに行った店員を目で追うのを止めて、こちらに顔を戻した。その行動すらも私を喜ばせるもので、彼が私を見てくれることに気分が舞い上がる。もっと彼の近くに寄ろうとテーブルの上に身を乗り出して自らの頬に手を当て彼のことを覗き込んだ。いつもよりも、豊かに動く舌で彼の感情を探ろうと躍起になる。テーブルの下で、落ち着きなく揺れる両足が、彼の幹のように張ってピクリとも動かない片足を軽く蹴った。
「怒ったの? そしたら、私、卵も魚介も好きにならないから…」
 この言葉に彼はどんな反応を示すのだろうと返答を待ち侘びる。先程と同じように呆れて無視をしてしまうのか、はたまた、困惑してそのままでいるように諭されるのか。そのどちらであっても、私は幸せなのだと思ってしまった。彼が私にどんな感情を向けていたとしても、私の気持ちは変わらずに貴方のことを想い続けることができる。恋に浮かれてるとはこういうことなのか、今が一番幸せであるかのようにして、胸をときめかせる私は、彼の波紋のように広がる黄金に見定められていることに気が付くのが遅くなった。店内を響くお皿の音だけがやけに大きく聞こえ、呼吸すら忘れてしまうようなゆったりとした時間が流れるが、未だ言葉はかけられない。その代わりに、彼が和やかに目尻を下げて微笑んだのを見て、ドッと顔に血液が集まったのを感じた。彼は自分を試すようなことをしている私を、悠然とした態度を示して相手にもしない。その瞬間、偉そうに頬杖を付いていたのが恥ずかしくなり、この両手をおずおずとテーブルの下にしまい身体を縮こませる。店員が厨房に呼ばれたのを耳にし、彼はようやく私に言葉をかけてくれたのだった。
「ほら、貴女の好きなトルティージャと、アヒージョが届きますですよ」
 そうして目の前に置かれた熱々の料理は、未だ微笑みながら私のことをジッと見ている彼のせいで味のしない食感を楽しむだけの行為と終わった。

 翌朝。どうしても昨日の彼の様子が気になり、私は始業前からその彼が居るであろう美術室へと歩みを進めていた。その心情は、またしても不浄なものだと自覚しているが、それは最早ただの純粋な感情にしか過ぎない。彼のことが好きだから、今日も彼に会いに行く。たったそれだけのことで、彼に許しをもらえるのだと思っていた。もしかしたら、昨日のように食事に誘われるかもしれないという淡い期待にも心を躍らせて、美術室へと続く廊下をかける。
 しかし、その想いは私よりも先に美術室に居た先客の存在によって醜さを孕んでいく。その彼との会話はあまり良い雰囲気ではないことが聞き取れてしまった。それでも、朝の静けさを纏う空気の中で、二人の声だけが世界だとでもいうように、私の知らない彼の一面を見出す。妙に威厳と落ち着きを加えた女性の声が、私の中に留まり消えてなくならない。暗く重たい感情へと濁りを溜めていくようだった。
「もう、ここへは来るなと言いましたでしょう」
 ふいに聞こえたハッサク先生の言葉は、私に掛けられるはずの言葉だと思った。なぜなら、今の私にはわざわざ口頭で伝えるほどの要件など持ち合わせてはいない。意味も無いのに此処へと来てしまった私に、彼は今度こそ怒りをむき出しにするだろう。私だけに向けられるはずだったその贔屓すら、他の者へ掠め取られてしまうのかと唇を噛むことになる。それに追い討ちをかけるようにして、相手の女性は、最も彼に近しい人物であるかのような振る舞いをして意見を述べた。
「しかし、長が貴方のことをお待ちでいらっしゃるのです」
「父の事など知るものですか。今度はどんな嘘っぱちを並べ立てたかと思えば…」
「ハッサク様、これに関しては慎重にお考えください。他の者からの報告によると…」
 彼女の言葉はそこで遮られたかのように止まった。シンとした静寂が二人の間を包んだが、ここからだと室内で何が行われているかが分からない。しばらくして、彼の革靴が音を鳴らしてこちらに歩き出したのが耳に入る。入り口の扉に身体を寄せ、盗み聞きをする私に気が付いたのだと理解できた。足を開いて荒々しく歩く様に、まるでいけない事をしてしまったかのような気分に陥る。サッと身体を離して、たった今来たばかりだという振りをするが、風と共にその姿が現れたのを目にして思考が止まり弁明すら喉の奥で止まる。彼と別れてから一夜しか経っていないというのに、こんなにも焦がれてしまうほど、彼のことが好きなのだ。その姿を目の前にした事で、心が一気に満たされて、私のことを掴んで離さなかった。それとは反対に、彼から投げられた言葉というのは辛辣なもので、私の純真なる言い訳など消し去ってしまうほどに残酷に蠢いている。
「今すぐに、ここから立ち去りなさい」
 そうやって、私を捕まえたのにも関わらずあっという間に離してしまう。それは、少なからず望んでいたはずの、私にしか向けられない感情だった。しかし、どうして此処に来たのかという理由すら一掃してしまうほど酷く突き放していく言葉と私以外の女の存在に、この足は逃げ出すことで精一杯になる。直線のように過ぎていく景色の中で、様々な感情が混ざり合った。恋慕、嫉妬、憧憬、の中、確かに育まれていく憎悪の念が私の思考を支配する。懸命に足を動かして、逃げ込んだ先は美術室から程遠い、別棟にある空き教室だった。そこで息を整える理由は、ただ単に体力不足だからというわけではない。この心臓を鳴らす焦燥は、美術室を立ち去る際に彼の肩越しに見えた女性へと向けられていた。威儀を正すように頭のてっぺんからつま先までしっかりとこの地に立ち、自らの置かれている立場に胸を張るその姿。揺るぎない信仰心から成る、不撓不屈の精神。それを見た瞬間、思い起こされる、確かに私が見た記憶だが、私ではないもの。あの女に、彼を、ハッサク先生を、奪われてしまうのだと警笛を鳴らしていた。だって、あまりにも、私とはかけ離れている。あの女にはあって、私には無いもの。彼の前で、雲泥の差が明らかになってしまう。
「はぁ、はぁ…」
 しばらくは、この何も無い教室で呼吸を落ち着かせることになった。ここを檻のように見立てて、部屋の真ん中にある机に手を置くことで絶対に動かないのだと力を入れる。そうしなければ、きっと彼に嫌われてしまうと思った。私と同じ感情を向けられているあの人は誰なのか。彼の行動を、思いを、人生を、乱すものは私だけではなかったのか。止め処なく溢れるこのような嫉妬は可愛いものだった。それよりも、この裏側にチラつく猟奇的な衝動の方が私は怖い。自分では無い何かが、彼とその周りを取り巻くすべてに牙を剥く。
「ころしたい」
 何故それを声に出したのかは分からない。何故そのような感情を抱えているのかも、分からない。一つだけ分かることは、その粗暴な言葉を発するには、あまりにも不釣り合いな場所だということだった。
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