今日は月曜日だからか、返却本が多い。エントランスホールの冷たい床をブックトラックのタイヤが乾いた音を響かせて走っていた。書棚の本達は下の階から上の階へ番号順に並んでいる。分類番号の数字が一番大きい最後の返却本を手に取り階段を登ると、美術書が置いてある書棚の前でハッサクがその羅列を眺めているのを目にした。天井にある出窓から朝の太陽光が入り込み、ハッサクの金色の髪の毛を照らしてキラキラと輝かせていた。
「ハッサク先生! おはようございます!」
「! おはようございますですよ。すみませんが、えっと…」
ハッサクは彼女の顔を見て言葉を濁す。無理もない、彼女は1週間前にアカデミーに入職した事務員だ。ハッサクよりも随分と歳下であるため、作業時に着用するエプロンを着ていなければアカデミーに紛れ込んだ一般人だと勘違いされていただろう。彼女はホッと胸に手を撫で下ろし、自己紹介をした。
「ハッサク先生のこと存じ上げております! 美術教師を担う傍ら、四天王も任されている。初めてそのお姿を拝見することができ光栄です! 今度、美術室にもお邪魔してみたいなぁ!」
ハッサクは初対面でグイグイと距離を詰めながら話をしてくる彼女の勢いに少したじろいだが、満面の笑みを携えながら、底抜けに明るい澄んだ声で喋る彼女の言葉に悪い気はしなかった。
「ええ!是非遊びにいらしてください」
「はい! そういえばさっき、先生の髪が光に照らされて輝いていて、とても綺麗だなって思いました」
うっとり。そう効果音が付くかのように、彼女は顔を火照らせる。ハッサクは自分の髪について、そのような表現で褒められたことに少し困惑したが、同時にその純粋な感性を大事にしてほしいとも思ったので、素直に礼を述べることにした。その時、彼女はあっと声を上げ、手にしていた本を棚の上に置き、自身の顔の横を指差しながら、ハッサクのことを優しき目でじっと見た。
「先生、ここ絡んじゃってます」
一瞬何のことか分からなかったが、そこの髪に触れたとき、一本の小さな結び目ができていたせいで、他の髪の束を巻き込んで乱れているのを確認することができた。
「先生! わたしが解きましょうか」
「えっ?いえ、後で鏡を見ながら…」
「中々難しい所だと思いますから、先生、ほんの少しでいいんです。頭を下げていただけますか?」
そう言うと、ハッサクに向かって両腕を伸ばし広げた。その姿に動揺しながらも、せっかくの善意なのだからと彼女の背の高さにまで頭を下げる。目の前で彼女の息遣いと小さな心臓の音が聞こえた。この朝の清らかな時間を過ごすには、充分な心地良さだった。しばらくすると、耳の横でゴソゴソと彼女の手が懸命に動くのを感じたので、それが終わるのを静かに待つ。彼女は合図を出してハッサクの顔を上げさせた。
「ありがとうございます、先生。先生の綺麗な髪の毛が傷付かないで、良かったです」
今度、美術室に遊びに行きますね。そう言ってパタパタと足音を忙しなく鳴らし、仕事に戻っていく彼女の後ろ姿を見て、ハッサクは一つの不思議な感覚を覚えた。
次の日、ハッサクが授業後の片付けをしていると、昨日の事務員である彼女が教室に入ってきた。
「先生!」
「おや! あなたですか。昨日の今日で遊びに来てくれて、小生は嬉しいですよ」
彼女は今日も心が晴れやかになるような笑顔を携えていたが、何か言いたげであるかのように、早急に会話を始めた。
「先生の授業感動しました! 美術って難しいし、素人には厳しいのかなって敬遠していましたが…あっ! 時間を間違えちゃって、一度、授業中に来てしまったんです。それで聞き入ってしまって…でも!」
そう興奮しながら話す彼女の言葉に、ハッサクはまたもや不思議な感覚を覚えた。
「あと、純粋に先生の説明が分かりやすくて…、って先生だからだとは思いますが、美術のことを伝えるって難しいじゃないですか。その言葉選びが好きなんです! わたしも子供の頃、先生の授業を受けてみたかったなぁ」
次から次へと紡ぎ出される、ハッサクへの賞賛の嵐に、ハッサク自身も気分が上昇していくのを感じた。その初めての感情に戸惑う。片付けをしている手を止めて、彼女の弾む声に耳を傾けざるを得なかった。水バケツを持って足元へやってきたフカマルも、ハッサクのその姿に足を止めて不思議な顔で見上げている。
「全ての授業がハッサク先生の担当だったら良かったのに!わたし、子供の頃、音楽が苦手でよく…」
「…小生、音楽も得意です」
その言葉がつい出てしまったときに、自分は何を言っているんだと恥ずかしくなった。せめて、彼女の話が終わった頃に言えば良かったのに、音楽という単語を聞いた瞬間につい、口を走らせてしまった。ハッサクは少し大人げない行動を取ってしまったことに猛省したが、それでも彼女は、言葉を遮られたことよりも、ハッサクが音楽も極めているということに非常に強い関心を寄せているようで、先程の心配は杞憂に終わる。
「先生って音楽もできるんですか! すごい! 才能の塊ですね!」
「いえ、いっときだけ、音楽の道を目指していましたですよ。今はもう趣味にピアノを嗜んでいる程度です」
「ピアノが、ピアノをお弾きなるんですか? すごい…、レッスンを続けるのもとても大変だと思うのに。そういえば先生、」
彼女は徐にハッサクのことを呼んだ。その姿は何か伺い立てるようなモジモジとした仕草でハッサクのことを見上げていた。
「先生の手の平を見せてください」
「手の平、ですか?」
彼女の前に手の平を突き出す。彼女の瞳が宝物を見るかのような目でそれを眺めたかと思うと、スッと自身の手と合わせてきた。
「!」
「うわぁ…やっぱりピアノを弾く人の指は長いですね…」
「はい…、あの…」
「あっ! す、すいません、つい。でも、自分の好きなことを曲げずに、努力してきた人の手という印象で、尊敬します」
ハッサクは手と手が触れたことにも一瞬驚いたが、彼女の言葉に感動してしまい、いつものように声を上げて泣いてしまいそうになった。何故なのだろうか。出会った時から、彼女の発する言葉、行動、その心、すべてに甘えてしまいたくなるような魅力を感じている。こんな大の大人がそんなことで許されるのだろうか。ハッサクは恥ずかしさを承知で、あることを確認するかのように彼女に問うた。
「小生は、偉いでしょうか…?」
ハッサクの目がスッと細められる。次の授業が始まるためのチャイムが鳴らされた。彼女は一瞬、その問いかけに目を丸くさせるが、次にニコリと微笑んでハッサクのことを落ち着かせるような声色で言葉を発した。
「はい、ハッサク先生は偉いですよ」
彼女はハッサクの手を、そのまま両手で包み込み自身の胸に引き寄せ、大事なものを取り扱うかのように撫でる。アカデミー全体から生徒の声が消えて無くなり、遠くの方で椅子を引き摺る音が響いていた。
それからというもの、ハッサクは彼女を見つけると、授業で起きたことから、日常生活で起きたことまでを毎日のように話すようになった。その度に、彼女は何か成果を上げたような事を少しでも見つけると、ハッサクのことをこれでもかというくらい褒め讃えた。その内容は、今日は好奇心旺盛な生徒が多くて良かったとか、今日は育てているトマトが食べ頃になったので朝食に出したなどという、ありきたりな会話だった。それに対して、彼女は、「皆さん知っていると思いますが、先生の授業内容が素晴らしいからです」「先生の毎日の丁寧な水やりで、トマトが沢山実ったのですね」という具合だ。その度に、彼女の笑顔と賛美がハッサクを悦ばせたが、何かが足りない。ハッサクは、初めて会話をしたときのことを思い出した。朝の静寂な書棚が立ち並ぶ空間で、彼女が自分に向けて腕を伸ばし広げたあの姿、あれをもう一度…。ハッとして、そのような不埒な思考をするのを止めた。今、自分は何を望んだのだろう。彼女とは、そのような関係では無い。そう自分を嗜め、美術室の中で自習に励む生徒たちに目を向けた。
「(このような場で、小生は一体何を考えて…)」
アカデミーと彼女。いくら煩悩から生まれる感情では無いにしても、この二つの聖域を穢すことは、それがいくら自分だとして許せるわけがなかった。溜息をついて、一旦落ち着こうとコルサのように頭を手で押さえた、そのとき。
「せんせー、そのポーズのまま動かないで!」
向かい側でイーゼルを立ててデッサンをしている一人の生徒が、ハッサクにそのままの姿勢でいるよう促した。
「あ、動かないでください!」
「あぁ! すみません」
その生徒は先程まで、次のデッサンの対象について悩んでいた生徒だった。どうやら、ハッサクの頭を押さえる姿を見て決めたらしい。正直に言うと、この姿勢のままでいるのは結構辛いが、この生徒のインスピレーションを壊すわけにはいかない。先程の罪滅ぼしも兼ねて、ここは生徒の言う通りにすることにした。
「…!」
ふと、ハッサクはあることを思いついた。この生徒がハッサクからインスピレーションを受けたように、ハッサクもそうであった。
「諸刃の剣のような、アイデアですね…」
ハッサクは、自身のことをまったくもって仕方のない大人だと戒める。これほどまでに、彼女のことを欲していたとは思いもしなかった。生徒はそんなハッサクの姿を見てか、「喋らないでください!」と怒った。それは、人物モデルをデッサンするときに普段から生徒へ言っている自分自身の言葉だった。
「え? わたしを絵のモデルに、ですか?」
「はい、と言ってもポーズをとってもらい、人物画のデッサンをしたいのです」
ハッサクは昨日思いついたことを、早速彼女に伝えていた。一瞬たじろいだ彼女の顔に、ハッサクは気を悪くしてしまったかと不安を感じたが、それは彼女の恥ずかしさからくるものだった。
「わ、わたしで良いのでしょうか?」
「はい! むしろ、あなたでなければ…、ええと」
「はい! 嬉しいです! 恥ずかしいですけど、先生にそういってもらえるなら、喜んでお受けします!」
先生のお手伝いができるなんて…。と嬉しそうにクルクル回る彼女の姿を見て、ハッサクは微笑んだ。彼女の嬉しそうな姿を見るのは、ハッサクにとっても喜ばしいこと、早速彼女との約束を取り決めようと話を進めた。
「先生のアトリエでやるんですよね!」
「ええ、…え? いえ、違いますですよ。美術室の放課後の時間を使って描かせてもらおうかなと」
「あ…、そうなんですね! いえ! そんな、先生のアトリエにお邪魔できるのかなあと、欲をかいちゃいました!」
アハハと笑う彼女の顔がどこか残念そうである。
「…いいですよ。しかし、」
「先生?」
彼女の鈴を転がすような声が耳を撫でた。
「アトリエということは、小生の家に行くということですよ。大丈夫でしょうか?」
何が、とは言わなかった。もちろん、そんな間違いは起きない。ハッサク自身はそう思うが、彼女は嫌がるかもしれない。そう思い、念の為聞くことにした。そのようは心配なんて不要とばかりに、顔をパァッと明るくさせて、先程よりも大いに喜ぶ。やったぁ!と声を上げた。そんな彼女を見てハッサクは笑みを浮かべたが、自身の欲望のために彼女の絵を手元に置きたいという目的を思い出し、罪悪感を胸に抱く。しかし、そんな自分を思いながらも、その手に抱かれて褒められたいという欲求に抗えない自分もいた。
約束の当日、その空間には厳粛な雰囲気が漂っていた。ハッサクの家、アトリエの一室、白いロングワンピースを着た彼女は何かに見立てた大きな袋を胸に抱いて目を伏せ微笑んでいる。ソファにもたれかかる彼女の向かい側でハッサクは、その姿を脳裏に焼き付けながら一瞬でも見逃さないとばかりに鉛筆を走らせていた。
この数時間前、彼女は到着するなり、家の外装や内装、家具に関心を抱いて、周りを見渡し、どうやら落ち着きがない様子だった。それもそのはず、オージャの湖北側にあるハッサクの別荘は、パルデアの中でも1、2を争うほどの一等地に建つ美しい建物だった。そのような場所だからか、いつもと違い少し緊張した面持ちをしていたが、ハッサクが彼女のためにピアノを弾くと拍手をして喜び、料理を振る舞うと頬に手を当て幸せそうに食事を楽しんだ。そのおかげか、いつものようにリラックスした状態でモデルに移行することができた。それでも、彼女の天性を感じさせる慈愛に満ちたその表情は、誰にも真似する事はできない、厳粛な雰囲気で美しい姿を成していた。
「…終わりましたですよ」
まだその姿を見ていたかった。それでも、彼女のためになるべく早めに終わらせることにした。いや、これは自分のためでもある。ハッサクは、完成した絵だけに目を伏せてそう言い放った。
「先生、見せてください」
ふっと静かに微笑みのままそう囁いた。ソファを立ち、裸の足がこちらに向かう音が聞こえる。
「先生? 大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。どうでしょうか」
彼女は難しい顔をして未だ絵に向き合うハッサクのことを心配したが、その手元を見て目を見開く。
「素晴らしいです。先生…」
イーゼルの縁に軽く手をかけて、さらに近付いて見ようと身を引き寄せる。しばらく静かな時間が、二人の間を流れた。
「でも、先生…ここが描かれてません」
彼女がそう言って指を差した箇所は、胸元にある空間だった。そこには大きな袋が抱えられていたはず。そう思っていたが、彼女はある事に気付いて、息を潜めた。
「これ…、まるで…、」
「宗教画のよう、ですかね…」
不気味だと思うだろうか。ハッサクは嘘を伝えても意味がないと思った。なんせ彼女の姿は聖母マリアを彷彿とさせた。初めて出会ったときから、美術室で起きたことまで、その全てが忘れられなかった。そんなもの、手に入れることができないなら、こうして描かざるを得ない。これは彼女に知ってもらうためでもあった。先人が聖書を読むことができない人々のため、絵を残したように。彼女は自身が与える影響について客観的に見ることができない。それを伝えることで、もうこんなことは止めようとハッサクは考えていた。
「先生」
「あの…、すみません」
「嬉しいです」
彼女の口からは意外にも好印象のような言葉が発せられた。ハッサクは彼女の顔を見る。彼女の頬には涙が流れている。
「あ、あの!?」
「先生! わたし、嬉しいです!」
「大丈夫ですか!? すみません! 気持ち悪い、そうですよね」
「いいえ! そんなことあり得ません! 嬉しいんです! わたしのことをこのように描いてくださって、ありがとうございます」
彼女は目を潤ませながら笑うと、ハッサクをふわりと抱きしめた。ハッサクは椅子に座っていて、彼女は立っている。だからなのか、自然とあの絵のように胸元に抱かれるような形となっていた。あまりの突然な出来事にハッサクの息が止まる。
「先生! わたし先生にお礼がしたい…! 何が良いでしょうか? ああ、でも、わたしにできることとしたら栞作りしか…」
ハッサクは甘い匂いの中で、大いに狼狽えた。これ以上は、危険を孕む結果になるのではないか。そう、理解しているのに、彼女の言葉が頭を駆け巡る。ぐるぐるぐるぐる回っているだけで、何も答えが出てこない。そうしていると、勝手に口が開いてしまっていた。
「小生を、撫でていただけないでしょうか…」
「えっ、先生をですか? こうですか?」
一言述べただけで、彼女は意図も簡単にそれを与えてくれた。彼女の柔らかい手が、頭を1回、2回3回と毛流れに沿って優しく滑り降りていく。
「まさか! これだけですか?」
彼女がフフッと笑った。息がつむじにかかり、くすぐったい。
「膝の上に頭を抱えて…」
「え!?」
彼女は言葉の通りにそれをしようと試みたが、ハッサクの首が変な方向へ曲がってしまうことを懸念した。あぁ、そうか!と何かに気付いた彼女はハッサクの手を引き、先程の自身が座っていたソファへ引き入れる。先にそこへ座ると、それが合図だとでも言うようにハッサクも片膝を乗せ、そのまま彼女の膝の上に無言で頭をなだれ込ませた。自分よりひと回りも小さい、いたいけな女のなすがままだった。彼女はというと、大の大人の男が自分の膝の上で縮こまっているというのに、臆することなくすかさず頭に手を乗せる。そして、先ほどのように優しく優しく壊れ物を扱うかのように撫で始めた。ハッサクは混乱する頭の片隅で、どこもかしこも柔らかく、こんなに心地のいいものなのか、とその感触に意識が飛びそうになるのを感じた。
「今の先生って、赤ちゃんみたいですよ」
「嫌い、ですか…?」
そう小さく子守唄のように囁いた彼女の言葉に、ハッサクは上半身をゆっくりと起き上がらせた。
「まさか!」
彼女は優しい顔で微笑んでいる。彼女の両手が再度差し出されて、ハッサクを包み込むように全身を抱きしめた。華奢で細いその肩に、頭を乗せると、その重さの弾みで後ろ方へ共に倒れ込む。
「大好きですよ、先生」
彼女の頬が自分の頬に引き寄せられた。すり、と頬擦りをする。頭を撫でる。その繰り返しの中、彼女はハッサクに褒める言葉ばかりを与えた。先生はすごい、先生は偉い、よしよし、いいこ。彼女の声と滑りの良い肌が気持ちよくて、夢中になってしまう。2人の気分が高揚してきたのか、互いに、はぁ、と切なく息を漏らすのが聞こえた。ハッサクもワンピースから伸びる彼女の足に自分の足を絡ませて、その感覚を全身で味わっている。体は発汗していて、どちらの熱が身体を押し付けているのかもう分からなかった。先生、そう一言発した彼女の声でハッサクは我に帰る。自分が彼女を押し倒して馬乗りなっているこの状況を客観的に見て青褪めた。彼女の髪が乱れて、ワンピースも捲れてシワを成していた。
「いけません!」
「えっ?」
ハッサクは瞬時に飛び起きる。彼女は息を上げて目をとろんとさせソファの上からハッサクのことを見ていた。その姿はあまりにも官能的で、ハッサクの心を自制するには充分な材料だった。
「今日はありがとうございましたですよ! もう遅い時間です!さあ、空飛ぶタクシーをお呼びしますので、お帰りの準備を」
ハッサクは自身の乱れたネクタイと髪を整えながら、何事もなかったかのように口を走らせた。
「えっ? でも、先生まだ…」
「お願いしますですよ!」
声を張り上げて相手を促そうなんて、あまりにも大人気ない。ハッサクはそう思ったが、そうしなければいけなかった。しかし、そんなハッサクを目にしながらも、特段気にすることなく彼女はまたもやにこやかな笑顔で返事をした。しばらくして、遠くの方から複数のイキリンコの羽ばたく音が聞こえ、こちらに近づいてくるのを感じた。
「先生! 今日はありがとうございました」
「いえ! こちらこそ、ありがとうございますですよ」
「ピアノも、お料理もとてもお上手で、絵も…幸せなひとときでした」
そう褒めた彼女の言葉を聞いて、先ほどの行為を思い出す。言葉で自身の頭を撫でられている。そんな気がして、ハッサクはその思い上がりな思考に甚だ呆れた。ハッサクにとって、今日のことは、もう充分すぎたはずだ。そう言い聞かせて、もう来ることは無い、いやもうここには来させないと誓い、名残惜しそうに彼女を最後まで見送った。彼女が何かを抱くあの絵だけは、今日の思い出と共に、額縁に入れて大切に取っておこう。そう思い、オージャの湖上を吹く冷たい風から逃げるように、その場を後にした。
そんな出来事から1週間が経過した。あれから彼女の方からハッサクを求めて、美術室に来ることはなくなった。それは、ハッサクもそうだった。彼女のことを校内で見かけても、以前のように話しかけに行くことはしなかった。やはり、あの時の行動について、改めて謝罪した方がいいのか。そうこう考えているうちに気付けば、疎遠になっていた。もうこれ以上は、関わるのを止めておこう。そう胸に言い聞かせて、ハッサクは朝の準備のために、美術室の扉のカギを開けた。ドアに手をかけたその時、後ろの廊下の方から「先生」と、よく聞き慣れた声がして、頭の中を響かせた。ハッサクは喉を鳴らす。いつものように、何ら変わりはないという態度で振り向いて、彼女の名を呼んだ。そこには、いつものように笑顔を携えた彼女の姿はない。表情は固いままで、ハッサクの横を通り過ぎ、先ほど鍵を開けた美術室の中へ入っていく。ハッサクもそれに、引き込まれていくかのように足を進めた。そんなハッサクの姿を見て、彼女は部屋の奥の方で立ち止まると、こちらに向き合い、いつものように優しく微笑んだ。
「先生、一緒に暮らしましょう。そうすれば、わたしも先生も、それを手に入れることができます」
何が、とは言わなくてもすぐに分かった。彼女の気持ちも、ハッサクの気持ちも、お互いが手に取るかのようにその感情を理解していた。眩しい朝日が美術室に入り込んで、柔らかい光が部屋の中を満たした。廊下から流れ込んだ風が2人の間を駆け巡り、充満した絵の具の匂いを掻き乱した。ハッサクはただその光景に頷いて、目の前の、腕を伸ばし両手を広げたその行動の思うまま、彼女の背の高さにまで頭を下げた。
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