※ポケモンが傷付く描写あり

 ナッペ山頂を吹く風に揉まれて、雪の底に沈みゆく足の重たさに身体が支えられているのだと気が付いた。びゅうびゅうと耳の側で鳴る風の音と、どこまでも続く白い景色のせいで、私が今どの地点にいるのかさえ分からない。それがまるで、いつまで経ってもうだつのあがらない自分の社会的地位なような気がして、目の奥がカッと熱くなるが、それすらも消してしまうほどの寒冷に、涙も凍えてしまう。
(いっそのこと、この雪と一つになりたい)
 それを思ったところで、この深雪の中に透けて無くなる訳でもない。この山に汚名を残してしまうだけだと、踏み止まることで意地汚く生きる道を選ぶことになった。別にそれでもいい。何故ここに来たのかという理由さえ見つけることができるのであれば。
 ふと、ザクザクと音鳴らす自らの足の他に、向こう側にある稜線から何かが近寄ってくるような遠鳴りがした。目を凝らすと白の中を掻き分けて走る白が見える。その後ろを跡になって窪みができているのが分かり、それがちゃんとした物体なのだと認識ができた。私に向かって真っ直ぐと放たれた咆哮がこの鬱屈とした雪のちらつきを吹き飛ばし、それが生きているものだと証明し出す。
「ホエーーー!」
「ぐっ、」
 声にもならない声を出して、後ろに倒れたのは、この人懐っこいアルクジラが私にたいあたりをしたからであった。人間からしたら背の低い球体だが、それが突進してくる脂肪の塊となれば話は別だ。案の定、私はどこかを痛めたのか雪の上で起き上がることも出来ずに、凍りつく肺に怯えながら空気を入れる。それでもまだ生きているのだと、私の側を駆け回るアルクジラに視線を飛ばして落ち着かせるために口を開いた。しかし、その声に被さるようにして、雪を叩きつける音がやってくる。板の滑る音が、私とアルクジラの居る地点で止まると、二本の足となって側へと近寄ってきた。
「ぼくは忙しいんだよ」
 氷のような冷たい声が振り降ろされる。
「だ、誰?」
 上を見上げると雪の結晶が目の中に入る。薄ぼんやりとした視界の中、儚い風景画のような景色に、見目よい肖像が佇んでいるのが見えた。怪訝そうな顔をして「サムい」と一言、この地を這うような低い声で辺りを一瞥する。
「とりあえず立って」
 その機嫌の悪い顔がそっぽを向きながら声をかけたのを見て、記憶の片隅に眠っていたものが呼び覚まされた。それは幼い頃の私が、今日と同じようにして、ナッペ山の渓谷付近で彷徨っていた時のことだ。毎回、どこからともなく現れる初老の女性が、何故か私に金銭と食事と生活用品が入った一式を手渡してくれていた。あの時は何故そのような施しを受けているのか意味が分からなかったが、今思えば私を山から降ろして、パルデアで生きていくための橋渡しを担っていたのだと気が付いた。それも、今となっては遠い記憶にある一つの事実だが、幼心からその人のことをナッペ山に消えた母の亡霊だと思っていた自分が居た。しかし、ある時傍らに女の子を引き連れているのを見て、残酷な真実を突きつけられたのもまた事実であった。
「何、笑ってるのさ」
「だって、女の子だと思ってたから。あの時の私は、男の子が苦手で、きっと逃げてた」
「…そんなこと聞いてない」
 そう言いながらも、彼は私の笑う姿を見て少し言葉尻を柔らかくした調子で「早く、立って」と促した。
「あんたと話すことがある」
 その台詞は、あの時の女性を彷彿とさせる。「貴女に渡すものがあるの」と真っ直ぐと向けられた空色の瞳は、今目の前にある力強くこちらを見据える色と同じだった。一つだけ、異なる点を挙げるのであれば、置き忘れた何かを永遠と探しているような、荒んだものが奥には見える。

「あんたが、この山に居るのが分かった」
 彼が自らの名前と職業を挙げた後に、そんな言葉を言い放った。グルーシャ、ナッペ山ジムリーダー、たったそれだけの情報を述べて小屋の扉から出たり入ったりを繰り返すアルクジラに視線を移す。何が面白いのか、開閉する古ぼけた木戸をその大きなヒレを使って動かし、軋んだ音を聞いてキャッキャッと喜んでいた。その度に、外から冷たい風が入り込んで身体を冷やすが、不思議と不快には感じない。むしろ、グルーシャと同じようにその無邪気な生き物の動作をジッと眺めて落ち着いている自分が居る。そんな私の様子を察してか、「ジムは自動ドア式だから」と言い訳なのかどうかも分からない補足を付け足してその行動心理を解き明かした。その後、私の顔を覗き込むようにして向き合う。彼のきめ細かい透明感のある肌が、山小屋の不充分な灯りの下で光を放っているように見えた。
「この山には、色んな意味で惹きつけられる人が多い」
 瞳の中にある残り火のような黄色が微かに揺れた。
「アルクジラが動き出すのにもそう言った理由がある」
 確か、その話は本で見たことがあった。瞬時に何のことかを理解できた私は、ポケモンレンジャーを生業とする人たちのインタビューの内容を思い出す。活動の一つとして、ポケモンたちの力を借りてナッペ山に来た自殺志願者の救助に当たっているというものだ。そして、アルクジラにはエコーボイスを使って、物体の距離や方向、大きさなどを知覚することができる能力がある。その高らかに響く超音波を放ち、ナッペ山で動く人間を探すことができるのだとか。そうであるならば、私がアルクジラに見つかったのも納得がいく。それと同時に、もしかして私は彼らにとんでもない勘違いをさせているのではないのかと心配になった。
「あの、もしかして私って説得されているのでしょうか?」
「…違うようには見えなかったけど」
 不審な者を見るような目で私に視線を送る彼は、心底面倒臭そうに、だけれども此処で突き返すまいと、その核心に迫り出す。そうか、確かにそういう見方をされていても間違いではないのかもしれない。現に私は生きていても死んでいても、どちらでも良いと思っていた。ただ、この雪山に骨を埋めるには、あまりにも軟弱で、滑稽で、事に及ぶのには物足りなさを感じる意思だった。いつかはくたばってしまうその最中に、救われて、なんとなくの成り行きで此処に居るだけだった。それは、「死にたい」とも言えるし「生きたい」とも言える。もしかしたら、私と同じようにアルクジラに見つかった人たちも、この山に行けばどちらかの結末を迎えられるはずだと、どこまでも続く白に惹きつけられたのかもしれない。先程、彼が述べた言葉を思い出し、他人事のように感嘆を示していると、目の前の彼は片手でマフラーをずらした後また戻し、籠るように口を開いた。
「アルクジラが見つけなかったら死んでた」
 直接的な表現で私の事を嗜める。死ぬ。そんな言葉を聞いて、思い出したのはハッサク先生のことだった。私が死んだら、ハッサク先生は私のことを見てくれるのだろうか。何故、そのような行動に走ったのか、生前の一挙一動を彼に思い出してほしいと思った。私が彼に向ける欲望を、声の上擦りや震える指先を、記憶から引き摺り出してほしい。その時、初めて、私のことで頭がいっぱいになるはずだ。そんなことを考えながら滲み出す感情は、別に愉悦でも何でもない。そうでもしなければ彼を思い通りにできないという、惨めで浅はかな感情だった。しかし、現実はそう簡単にはいかない。死んでしまうのも良いかもしれないと、光を無くした私の瞳に彼の凍るような視線が突き刺さる。
「ある男の話をしてあげる」
 突然、それを口にした彼は、どこか遠い目をしだして、酷く辛い昔のことを思い出すかのように語り出した。粛々と、だけれども淡々と紡がれるその言葉たちはまるで物語のように進んでいく。
「失うことを恐れない男の話だよ。それはずっとそこにあるものだと思っていた。何も考えていなかったとも言えるし、ただ知らなかっただけとも言える。でも、たった一瞬の出来事で、その全てが雪のように白く冷たいものに変わってしまった。それまで目にしていた美しい景色が、ただの草木が枯れた山にしか見えなくなってしまう。男は、信じていた世界が、簡単に壊れてしまうほどの脆い世界だったのだと知る。揺るぎない意志、変わることのない望み、壊れることを知らない容れ物までもが、一瞬のうちに燃え尽きてしまった。目の前に降り積もる雪が灰に見えていく。そうなってしまったら最後、男は何が自分で、そうじゃないのかが分からなくなる。でも、それでも、生きていかなきゃならない。最初は辛かったさ。だって、何もやることが無くなってしまったのだから。そうしたら、男は馬鹿みたいにまた自分を探すことでしか救いは無い。どこまでも続く白銀の世界の中を、見つかるまで探すんだ」
 そこで一旦、話が止まる。アルクジラは遊び疲れたのか、彼が手にしているモンスターボールへと戻っていった。雪山の一角にあるこの山小屋に、二人ぼっちで取り残されたような、そんな静けさが私を襲う。
「その人は、見つけたの…?」
 そうであってほしいと、彼に問いかけた後に、その彼がマフラーの下でニヤリと笑ったような、そんな気がした。
「男は見つけてない」
 酷く悲しい笑みを携えて、グルーシャは目を細める。
「でも思ったんだ」
「必死になって探していたはずのこの行動は、山に縛り付けられているのに意味もなくもがいているのと同じだった」
 その言葉は私に向けられていないように感じた。彼の心の中で反響して、そこから小さくなることの無いこだまを抱えているように見えた。私はというと、そんなことを聞かされて希望も何も無いまっさらな場所に落とされたような感覚に陥る。
「なんで、私にこの話をしたの…?」
 率直な疑問として、自殺志願者には聞かす内容では無いと疑る。
「あんたも、そうだと思ったから…」
「…どういうこと、何で私のことを知ってるの。私は貴方のことは、」
 何も知らないのに。そう言葉に出す前に、ペラペラと薄い雑誌が、机の上に差し出される。その表紙は、大衆を惹きつけるような下卑た文字の羅列がごちゃごちゃと書かれていた。その中の一つに、目を見張るものがあり思考が止まる。グルーシャの名前と、マイナスな状況を示唆する言葉「失落」「怪我」「大吹雪」は彼が述べた「ある男」の話のように思えて仕方がなかった。
「別に表紙とかどうだって良い」
 私が手に取るより先に、グルーシャは雑誌をパラパラと捲ってあるページで止める。胡散臭い逸話のコーナーの、一番隅にある一つの記事だけを見るように促された。
「こんなの、人情味のない、好奇心を煽るだけの過剰な内容だけど」
 一体何のことかと、示された記事に目を凝らす。そこには、「衝撃!村里で起きた事件の真相に迫る 遺恨が眠るパルデアの森」と自分とは無関係だと言い難い見出しが書かれていた。
「な、なにこれ…」
「この事件についてはもう何百年前のことらしい。事件を起こしたその子孫がパルデアの森にいるというのが流出されたのはここ最近の新事実だよ」
 そんなの、知らない。しかし、森と言ったら一つしか無かった。私が生まれた時から今日まで、寝食を共に過ごした静かな隣人のことだ。
「…しるしの木立?」
 その言葉を初めて人前で出した気がする。それまで、私の口から他人へ渡ることは禁じられていた。それは紛れもない私に植え付けられた亡き母からの教育だった。
「あんたが此処に来たのは、自分の起源を知るためだろ」
「これが、私だっていう証拠なんて」
「アルクジラは知っている。そして、あんたの居場所が分からなくなった途端、この噂が回り始めた」
 アルクジラが探知できる範囲はしるしの木立までだ。そう言って真実に迫る彼は、怒気を孕んだ感情を落ち着かせるために息を吐く。その白い靄を見て、彼が気持ちだけではなく、身体までもを熱くしているのだと気が付いた。
「…ごめん、ぼくはあんたを怖がらせたかったわけじゃない」
 言われたところで、出生の秘密を受け入れることなどできない。その事実は、母によって隠されていた気がするし、母が消えた理由と関係がある気がする。突然与えられたそれは、消化できずに頭の中でぐるぐると回り続けた。目の前の端正な顔立ちが同情を示すように歪んだのを見て、悲しみに襲われる。何故、彼はこんなにも惨たらしい現実を突きつけてくるのか。どうせなら、知らない方が、良かったのに。そう目を伏せた私に、彼の力強い叫びが当てられた。
「…あんたは、これを聞いて、まるで独りきりの世界に引き摺り込まれたような感覚に落ちただろ」
 顔を上げた。上げるしかなかった。だって、目の前の彼はまるで火をつけられたように、熱く燃えたぎり、消えることの無い焔で私のことを見ている。それは、未だ森の中で誰かに見つけられることを願う、もう一人の自分の姿と酷似していた。
「人生の先輩として、言っておくぜ」
 儚さを携えた彼の姿はもういない。
「白銀の世界にだって、目印は沢山ある」
「その中の一つとして教えといてやる。ぼくの祖母はあんたのことを想って、眠れない夜を過ごしていたんだ」
 それだけ言って伏せられた目は、遠い記憶のどこかで、密かに私の命を繋いでくれた人のことを思っていた。そして「ぼくも、同じだから」と呟いたのを聞き、ハッとする。彼の言葉は、他の人の存在によって自分を見つけることが出来たことを謳い、そのまた彼もこの私を置き去りにしないための一人であることを意味していた。たったそれだけのことが分かり、私の凍っていた心情は、溶かされていく。それは、麓の森に恵みを与えるため、川となってパルデアの地に降り立つ。それによって咲く花々は、彼の言う色とりどりの目印であってほしいと願わずにはいられなかった。

「この子って、貴方のじゃないの」
 先程の、ナッペ山を揺るがす凄まじい吹雪が嘘のようにして止んでいた。雲間から太陽が光を差して、この雪上をキラキラと輝かせる。彼から手渡されたのは、私をこの白銀の世界から探し出してくれたアルクジラのモンスターボールだった。
「祖母のアルクジラだよ」
「それなら…」
「もうこの世には居ない」
 その言葉を聞いて、悲しみに嘆く自分がいる。私の目の前にフッと現れ、消えていったその人は、確かに私を形成する大事な一人だった。
「そんな顔をするのなら、この子と生きて」
 彼の力のある言葉が、私の心に染み渡っていく。
「それに、アルクジラのエコーボイスはずっと独りきりで居るあんたのことを探していた。あんたの手に渡るのは、当然だよ」
「…なんで、私のことを」
「祖母が死んでから、すぐに孵化したアルクジラなんだ」
 その柔らかに微笑む彼の言葉を耳にしたとき、私の手のひらの中でモンスターボールが小さく揺れた。まるで、私と手を繋いでくれているような温かさを感じ、ぐっと込み上げてくる何かを堪えるのに必死になる。
「もう、ここへは来てはいけない」
「だけど、ジムリーダーとして、あんたのことを待ってる」
 その時までには、自分はこの境遇から脱することができるのであろうか。先に待ち構えている不安に苛まれていないわけではなかった。
「今じゃこんなだけど、ぼくは相当熱い男なんだぜ」
「あんたも、きっと…」
 そう言って雪の果てに消えていく彼の背中を見送る。心底楽しそうに「サムい」と言った彼は、この山に縛りつけられているという話の男に見えた。

 昨日の奔走から、いつもの日常に帰れたことに未だ不思議な気持ちでいる。ふわふわと浮かび上がる私の意識は、アカデミーのグラウンドに放ったアルクジラを目にして現実に引き戻された。両手を翼にして、二本の足で地面を飛び回るアルクジラは、初めて目にする場所だというのに楽しそうにしている。
「(人間の子供みたい)」
 その無邪気にはしゃぐ姿を見て、力を無くしていた表情に自然と笑顔が浮かんできた。アルクジラの走った後の空気がひんやりとしていて、気持ちが良い。彼は、私の心に穏やかな静寂を引き連れてくれた。
「ナッペ山に帰りたいと思う?」
 ふと声に出したその言葉は、私自身にも向けられている問いかけだった。しるしの木立に帰りたいと思う?その答えは、私の明るくなった顔を見て、嬉しそうに笑うアルクジラと同じ気持ちだった。
「うん、私も好きな人がいるから戻らない。貴方のことも好きだけど、もっともっと大好きな人…」
 いつも脳裏に浮かぶのはハッサク先生のこと。私はいつだって、彼に見合う人になりたかった。そのためなら、私はなんだってしてきた。確固たる地位を築き上げるため身分を偽り、経験を積むために好きでもない人と寝た。例えそれが、不正行為だとしても、自分を傷付ける行為だとしても、森の中で息を潜めていた私を、貴方が見つけてくれたから、無駄なことではなかった。彼がいつだって目印になって、私という存在を形成してくれた。そして、彼を軸として広がるその目印は、いずれ彼の目が見えないところでも広がり続けるであろう。そうであってほしい。
 そう願ったのは、その時初めて、彼と隣に並び合える気がしたからだった。

「おい、お前」
 ふと、聞き覚えのある声に呼び止められる。敵意を向けられたその抑揚と、忌まわしい記憶が蘇る異質な姿に、私の目は見開かれた。なすがまま、強い力で手を引かれて彼女の思い通りにしてあげたのは、先日の感情とは違う穏やかな心情に自分でも驚いたからだった。彼女の姿を目にしても訳も分からぬ感情に左右されない。それどころか、私は私が誰だか分かり、進むべき道を示されたかのような気がしてならない。それが例え茨の道であろうとも、心に深い森を抱えていようとも、どこへだって飛び立っていける。
「ハッサク様の周りをコソコソと嗅ぎ回るな」
 私を人の居ない後庭に連れ出した彼女は、悠長に自己紹介などする訳もなく、開口一番にそんなことを言いのけた。
「あのお方は、お前みたいな人間にも優しい」
 お前みたいな人間。何故、彼女からそんなことを言われなければならないのか。一瞬、疑問に思ったが、彼女が私の存在を知っている人間の一人だと分かり、納得がいった。グルーシャが教えてくれた、私の出生の秘密。ある村里を襲ったという、子孫の生き残り。彼女は、犯罪者にも似た女が、大事な人の周りにいるのが許せないのだ。
「だからと言って、お前なんかに靡くお方では無いのは百も承知だが言っておく」
 だが、彼女の次の言葉を聞いて、自分の耳を疑ってしまう。
「お前のしていることは復讐だ」
「その証拠に、ハッサク様に恋をしている」
 先祖と同じだ。忌まわしい血め。我らが一族に混ざろうだなんて甚だしい。そう言って彼女がモンスターボールから呼び出したのは、禍々しい配色で顔が三つあるドラゴンタイプのポケモンだった。攻撃をされる。そう身構えた私の後ろを、長いしっぽで地面に叩きつけたのは、私の身体ではなかった。
「やはり、氷タイプを引き連れていたか」
「まだ弱いな」
「これも私が処理しておかなければ」
「里のために」
 その言葉を聞き、後ろを振り向く。私のことをグラウンドから追いかけてきたアルクジラが地面に倒れていた。白い表面には赤い傷が惨たらしく浮かび上がっている。私はそれを見たとき、酷い悲しみに襲われたと同時に、すべての細胞が逆立つような感覚に陥った。どうして、私なのか。どうして、この子なのか。どうして、こんな目に合わないといけないのか。そう考えるよりも先に、身体が動く。爪を立てて、手を振りかざす。彼女の頬にそれが食い込んで、赤い線を深く刻んだのを、彼、ハッサク先生は見ていた。
「何を、何をしているのですか」
 声を張り上げない。代わりに重くのしかかるような抑揚に、震えが止まらなくなった。アルクジラは既にモンスターボールに戻っている。目の前には、頬を引っ叩いた勢いで地面に投げ出された彼女の姿があるだけだった。彼女のポケモンは、私の気に押されて同じくモンスターボールに引っ込んでしまったらしい。はたまた、私の背後に恐ろしい過去のトラウマを見出したのか。真相は分からないが、この状況は誰からどう見ても、私の暴走にしか見えない。「ハ、ハッサク様」と震えた声で、彼の名を呼んだ彼女の恐怖が、この場の時を動かす。
「保健室で手当をしてもらい、すぐさま里に帰りなさい。この事は他言無用です」
「っ…! しかし、ハッサク様」
「アカデミーという場所で、危険かつ勝手な行為をした事を小生が許すとでも」
 その目は明らかに怒気を孕んでおり、今にも拳を振りかざしそうな勢いだった。彼女の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせる。「消えなさい」という冷たい言葉を放ったのを見て、彼女は顔を青くして走り出す。そして、彼は、残された私に向き直った。
「小生との、約束を破りましたね」
「貴女は、此処から立ち去るべきです」
 その言葉は、永遠にアカデミーと関わるべきではないという意味だった。断定的な口ぶりは、すべてを知っている上で決められていた。私の生い立ちも、どうやって此処に就職できたのかも、すべてを知っていて、アカデミーで子供たちを育てていくのには相応しくない存在だと、そう私を否定する。
「先生も、そう思っているのですね」
 しかし、一つだけ彼が知らないことがある。全員、まるで私が忌み嫌われる重罪人のように話すけれど、私は何もしていない。それなのに、同じ血だからという理由で、深い森の中で身を潜めて生きていたんだ。そんな私を見つけたのは、紛れもないハッサク先生なのに。私を焚き付けたのも、ハッサク先生なのに。その動機は、彼の村里を襲ったという私の先祖による復讐なんかではない、ただの純粋な恋心だったのだと、彼は知らない。そうであるならば、私は、彼だけには教えたくないと思った。それは少しの恨み言のようにも聞こえる。「お前のしていることは復讐だ」先程の、彼女の言葉を思い出した。
「確かに、そうかもしれません」
 そう言い残して、私は彼の元を立ち去る。すんなりと承諾した後、彼がどんな表情をしていたかなんて分からなかった。最後に「ナマエ」と名前を呼ばれたが、聞こえなかったふりをして、無視をした。あんなにも好きだった彼からの呼びかけだというのに、私は一度も振り向く事はなかった。
 そして、彼の言う通り、その日のうちにアカデミーを退職する。手の中で震えるアルクジラのモンスターボールを抱きしめて、彼という目印を見失った今、またこの深い森の中に投げ出されたような感覚に陥るが、不思議と、怖いとは感じなかった。
「大丈夫だよ、まずはポケモンセンターに行こう」
 彼の見えない所で広がり続ける目印がある。誰かが私を見つけてくれるんだ。その時初めて、彼と隣に並び合えるんだ。
「そ、うだよ、ね? アルクジラっ…」
 いつの間にか空には満天の星が広がっていた。私はその中で一層輝く一つの星の他に、同じく光を放っている星たちを見る。涙で歪んだ視界の中、一生懸命に捉える。嗚咽を上げて泣き喚く私のことを、何も言わずに受け入れてくれたのは、いつだってしるしの木立からも見える、この夜空だけだった。
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