※微人外設定、生徒夢主
担任に嘘を吐いて、一日の終わりにあるホームルームを抜け出した。これなら、最後のチャイムが鳴り終わる前に、誰よりも先に美術準備室へと向かうことができる。
理由は、絵の具の匂いとホコリが立ち込める薄暗いあの部屋で、ハッサク先生が窓際で西陽を浴びているという話を聞いたからだった。
「だからなんなの」
ぶっきらぼうな言葉が私の心情を表すかのように口から滑る。相反して逸る気持ちが廊下を駆けていくのは、美術部員の中で絵が一番上手な生徒に先生を取られた気分に陥ったからであった。
その部員が発信源だからと言って、ハッサク先生は誰の物にもならない。そんなことは分かっているのに、毎日夜遅くまでキャンバスに向き合って、褒められることだけが生き甲斐だったこの私に、その秘密は魅力的で眩しすぎた。
だから、私は"西陽を浴びているハッサク先生"に会いにいく。別にハッサク先生の全てを知ることなんて望んでいない。ただ、ひとつ私の中の野望を満たすことができるのは確かだった。
本当ならば、その第一発見者でありたかったのだけども、何も知らない赤子のように準備室の扉に触れることで、嫉妬も喜びもその稚拙さでぼやかしていく。今この感情を曝け出すのは、彼の見ている「模範生」には不必要だったからだ。
「失礼します……あれ?」
ハッサク先生?早速、件の人物を見つけた私は彼の名前の後に疑問符を付けた。そう声を掛ければ、その大きな背中はいつも「おや」と動いてこちらを振り向くのに、今日はそれが成されなかった。それどころか、その体躯が窓際の横の壁に項垂れて、まるで椅子の背もたれに掛けられる彼の上着のように、命を感じることができない。
窓から西陽がモルタルの床を伸びて、地面に投げ出された先生の足を責めるように照らしていた。
「ハッサク先生!!」
先生が、倒れている。何か病気なのかもしれないし、誰かの仕業かもしれないが、そんなことより彼を助けなければと側に駆け寄った。
「先生、先生! 大丈夫ですか!?」
声を掛けても反応は無い。そうして「まずはどうすればいいのか」と問うように、力無く置かれていたその手を握った。そんなことをしても、意識の無い彼が、いつものように私の迷いごとの答えを教えてくれるわけが無いのに。
「手が、冷たい」
そして気がつく。大きくて太陽のように温かいはずの彼の手は、血の巡りが無い石膏像のように冷えていた。突然、暗闇に放り出されたかのように行方を見失う。その事実が、私に彼の"死"そのものを突き付け、彼の居ない未来など想像したことのない未熟な人間に、惨たらしく酷い出来事のようなものを植え付けていく。
「せん、せい、消えないで」
その体躯の横で、折り曲げられた私の足が力無く床にへたばる。早く人を呼ばなければならないのに、私は自分本位な絶望から動けないでいた。
「消えないで、消えないでっ……」
私、ハッサク先生が居ないと、朝起きて学校に行く理由が無くなってしまう。
ハッサク先生という存在が今までの私を動かしていたのは確かだった。友達よりも、親よりも、大事にしていたのはハッサク先生との日常だった。
「ハッサクせんせえ」
そうして、同じ言葉を繰り返すことしかできなくなった私の後に、数秒の間を空けて「……はい」と消え入りそうな声で返事がされた。その一瞬が永遠のような感覚で、私の中に舞い戻ってくる。紛れもないハッサク先生の声だった。
ハッとして顔を上げる。涙で溢れるその歪んだ視界の中で、僅かだが彼のネクタイがゆっくりと隆起しているのを目にした。ハッサク先生は、ちゃんと生きている。その事実が私の足を動かそうとしたが、
「……先生! すぐに誰かを呼んできま、わっ」
弾けるように飛び起きた私の手を掴んで引き寄せられる。目の前には、ひし形の赤い模様。
放課後、キャンバスに向き合う私は、いつもこのニットベストの模様としか目を合わせられなかった。それなのに今は、
「……あたたかい、ですよ」先生がぼんやりと呟いた。
上へ上へと引き寄せられて、頬を頬で擦られる。生きているのだろうか。そう思うほど、異常に冷たい皮膚が塗りつけられるように押し当てられた。
「ひっ……」
ハッサク先生のまつ毛が私のおでこを、触れて離れて、そこからまたじわじわと熱が帯びていく。
恥ずかしい、こんなことして良いのだろうか。何故だか私が彼に対して負い目を感じている。しかし、今もこうして彼に身を委ねているように、私は先生を拒絶することはしない。それどころか、弄るように彼の高い鼻が温度を探し求めているのを、嬉々として体の表面を差し出している。それに食い付くように先生は、私の内から体温を奪い取った。
「う、んっ」
絆され敏感になっている首筋に、自分のとは違ったかたい男の人の唇が合わせられ、つい、よく分からない声が漏れてしまう。
「くすぐったい」
でも、そうすれば不思議と、凍えるようなほどに冷たい彼の肌は温かさを取り戻していった。いつもの、太陽のような温もりを携えている、血流の良い肌色が目の前に現れる。
「……先生、」
呼びかけても、彼の瞼は一向に開かない。それをいいことに、その容貌をまじまじと眺めた。皺の深く刻まれた目元口元、いつもよりも下がった眉、高い鼻は静かに呼吸をしている。
それから、人間に必要な温度まで上げることができたのか、彼は膝の上に私の体を抱え直して温存の姿勢に入るような素振りを見せた。
その大きな背中には、この短い手では回しきれないほどの遥かな距離がある。
「……やっぱり、先生は"そっち側"なの」
美術準備室の静けさの中、ひとり呟いた。
学舎という場所は、無意識に奪う者と奪われる者に別れてしまう社会の縮図のような場所。それを正すために、先生が居る。役割を与えられる。個性を磨かれる。そうして、本当の社会に放たれる。でも、私は、
「先生に全てを奪われたい」
ハッサク先生は奪う者で、私は奪われる者。他人を使ってでも命を繋ぐ強者による搾取は、誰にでも分け隔てなく優しいハッサク"先生"には無かった。
私は此処の"生徒"である以上、彼はいつまでも"先生"、でも、それも今日で終わりだった。
いつの間にか放課後のチャイムが鳴っていたのか、廊下には忙しなく動く複数の足音が響いていた。私は、この光景が誰にも見つからないように、名残惜しいが彼から体を離す。先生は眠っているのにも関わらず不思議と、力を弱めて手を離してくれた。
「ハッサク"先生"」
彼のために与えらた役割を強調して、その名を呼ぶ。そうすれば、その眉がピクリと動いた。
「……?」
ハッサク先生が瞼を開く頃には、私は美術準備室を去っていた。
「ハッサク先生って、なんかいつも窓際にいるよね」
次の日、いつものように普段を装って美術室に入れば、あの部員の大きな声が聴こえてきた。それに同調するように他の部員が「たしかに! おじいちゃんだから日向ぼっこが好きなのかも」とクスクス笑っていた。
それを遠くで聴いていたであろうハッサク先生は、特に反応を示さずに、入り口付近の椅子に座って道具を取り出した私に目を遣る。
「おや、ナマエくん。昨日はいらっしゃらなかったようですが、どこか体調が優れなかったのですか」
昨日の出来事などすっかりと忘れたような様子で、ハッサク先生は私に話しかける。きっと、私が美術準備室に訪れたことすら彼は知らないのであろう。良くも悪くも、いつもはホームルームをサボらずに、終わったあとは、寄り道せずに誰とも話さずに美術室へと向かうから。
「……いえ、用事がありました」
数秒の間に違和感があったのか、少し気掛かりではあったが、普段の私の出席率からして特に気にする事項でもないと判断したように微笑んだ。
「そうですか。良かったです。ナマエくんにしては、珍しいと思いましたですよ」
そうして、「今日も頑張っていきましょうね」と拳を掲げられる。それに、「はい」と答えた。いつもと違って、目と目がよく合う。
「そういえば、ドラゴンは気温によって体温が変化する"変温動物"が多いんだって!」
ふと、あの部員が声を張り上げて先生を意識しているような言葉をどこかしらに投げかけた。「それ、知ってる!」それに同調する他の部員。それでも未だ、私の目と彼の目は合ったままだった。それに、気を悪くしたあの部員が「ねえ、先生ー!」と乱雑に呼ぶ。
ハッサク先生は「バトルの勉強も良いのですが、今は部活動の時間ですよ」とあの部員の雑談を終わらせた。
「さあ、ナマエくんも、たった一日筆を握らなかっただけですが、早く手を慣らしていきますですよ」
なんてことは無い。そんな言葉で私たちを促すけれど、私だけはその様子の意味を知っていた。
"変温動物"とは外部の温度によって体温が変化する、体温調節機能が無い動物のこと。だから、寒さに弱い。ドラゴンは氷に弱い。そんなこと、私でも知っている。昨日はこの季節にしては珍しく気温の低い日だった。
「そうなんだ、知らなかった、よく知ってるね」
でも私は、そう言ってあの部員を褒め称えてあげる。珍しく感嘆を示した私に、あの部員は何も知らない顔で誇らしげになっていた。
あの子は先生のことをひけらかすことで、先生を私から奪い取った気になっていた。しかし、"西陽を浴びているハッサク先生"しか知らない。知らないから、本当の意味でも奪えないし、先生に奪われないのだ。
一日部活動を休んだ私のために、ハッサク先生は絵を描くのを手伝ってくれた。少し絵の具が薄付きになっている箇所に色を足して遠くから眺める。私の横で彼の大きな体躯が動くたびに、あの美術準備室での出来事が蘇った。
ふと、描き足す箇所を見つけた私の手と、彼の手がキャンバスの上で触れる。
「……すみませんですよ」
昨日ほどではないが、ハッサク先生の手はひんやりとしていた。それに比べて、私の手はいつまでも熱いらしい。火照っているのだろうか。背中に汗が滲み出てきた。先生は、何事もなかったようにキャンバスに色を描き足す。
違う色の絵の具が混ざり合って、丁度良い色味になる惑星の絵を、私と先生は上から眺めていた。
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