※シリーズ「No Forest」読み切り版みたいなやつ

「やはり、ここに居ましたか」
 そう優しく鎮めながらも、腹の底に莫大な怒りを抱え込み立つハッサクの姿がそこにはあった。「ここ」とは、しるしの木立に置き去りにしたまま、随分と灯りをつけていない古巣の一軒家だ。その錆びた蝶番に支えられているだけの扉の前で、彼は表情も変えずに、何を思って、待っていたのだろうか。もう、今の自分には何も分からなかった。
「無断で居なくなるなんて…」
 次に出た言葉は、呆れを通り越して、最早見切りをつけたように冷たい感情を晒していた。いつもなら、その後に続くであろう教誡も出てこない。ここ最近のわたしの動向を見るべく、彼の冷えた目が手元の紙袋———ハッコウシティで調達してきた数日分の冷凍食品に向けられた。それを感じたとき、今の自分がこの世の何よりも劣っていて、何も生み出せずに存在していることに激しい羞恥心と怒りを感じた。馬鹿みたい。彼は、わたしの卑しくも自分勝手な振る舞いのせいで、左手首に怪我を負ったというのに。両手が使えるわたしは何も努力せず、文明の発展に甘えて今日も生き永らえようとしている。そして、見捨てもせずにここへ来る彼が、どんなに眩しい存在なのかを嫌でも知らしめられる。何も勝てない、知ることができない、その地位、その人格、その体格、その年齢、性別さえも、わたしが手に入れることができない。全ての優性を携えている。なお、底に這いつくばって息をしているわたしというものに、何をしようと言うのだろうか。怖かった。それが手に入らないのなら、もう、捨て置いてほしい。わたしは、彼に反抗することで初めて彼の目の前で息ができるというのに。彼はただそこに居るだけで、わたしに呼吸を強要させる。
 何も言わずに、直立しているわたしのことを見て、眉を顰めた。人差し指をこめかみに当て、トントンと叩く。その仕草が好きで、よく目に焼き付けてたっけ。彼のことを支配する、ソレをしたい、ソレになりたい。しかし、それも今では、すべて崩れてしまったのだけれど。
「…こうしましょうか」
 光の螺旋が突き刺さる。
「まずは、貴女が普通の生活を送れるように。あの放置状態の家に戻るか、ここに住むか、そのどちらかを選んで小生に示しなさい」
 要は、どこに拠点を置くのかを明確にしろ、という意味だった。今のわたしは、誰にも告げないで、向こうの家をそのままにし、出て行ったきりである。仕事も一方的に辞めた。誰かが捜索に駆り出されるとき、それは自然と彼になったのだろう。それとも、わたしに関する事柄の当事者だから、自発的に手を上げたのか。すでに無関係な彼に示さなければならないほど、後片付けを妥協した覚えはない。
「とりあえず、落ち着いて話をしなければなりません、貴女に伝えなけれはいけないことが沢山あるので」
 ハッサクは、わたしの右手に力なく握られている家の鍵を奪い取ると、扉の鍵穴にそれを差し込んで回した。が、扉は開くどころか頑丈に施錠されていた。溜息が漏れる音が聞こえる。
「貴女…、自分の家の鍵さえも、締めていくことすらできないのですか」
 わたしの居る場所を振り返って、こう言った。当たり前のことを告げられただけなのに、今のわたしは過剰に反応せざるを得なかった。そうなんです、何もできないんです!あなたに、出会って、全てを知りたくて、全てになりたくて、同じ場所に立ちたくて、近くで息をさせてもらったけれども、生徒に向ける愛情が、強者と投合する情熱が、わたしには与えられなかった。怪我をさせても、突き放されずに、こうやって細い系の一本を握って、結び直すような行為はもう止めてほしいんです。頭には血が昇っていた。激しい怒りに涙が出そうになった。今にも破裂しそうな心情を吐露したとて、虚しい想いは変わらない。与えられないのは、わたしがつまらない、何もない人間だからだということも知っている。それなら、いっそ嫌われたい。この無力で惨めな女に対して、せめて嫌悪感を示してほしい。そう思い、できる限りの嫌味を込めようとした。
「ここに全てを戻します。きっと、誰もがそれを望んでいますから。ハッサクさんも、わざわざ直接会いに来なくても、スマホロトムくらい使えるでしょう」
 それは、何もかもを捨てる、という意味に近かった。なんて最悪な人間なのか。彼を貶した。その連絡を受けてもきっと無視していただろうに。このような言葉を言い慣れてないせいか、彼の目を見ることができなかった。声も震えていた。でも、もう、これで終われる。そう願って、唇が、手が、足が、彼の言葉を待って震えていた。が、何も言われなかった。この薄暗い森の中で、息を吐いて、吸って、彼は鍵を回して、その扉を開けただけだった。なんだ、つまらない。そう思った。その時、突然、手首をつかまれて、強い力で家の中へ引き摺り込まれる。突然の衝撃に、足が追い付かなくて、体勢が崩れた、適当に手にした馬鹿みたいなメニューの馬鹿みたいな冷凍食品が、床に散らばった。それと同じように、わたしも床に両手を付いて、腰を抜かして、動けないで居る。叫ぼうとして、口を開いたが言葉を被せられた。
「痛いのですよ」
 目の前に彼の左手が、示し出された。包帯。ふと、あの時のことが思い起こされる。
 わたしのこの歪んだ感情について、まだ隠すことができていた頃。嘘偽りで溢れた精一杯の笑顔で、いつものように彼に話しかけた。給湯室で珈琲を淹れてあげた。彼が居るであろうその場所に戻ると、チリも居て、同じ土俵に立ち、同じ言葉で雑談をしていた。それを見たときに、少し惨めな気持ちになっていたのがバレたのかもしれない。彼はわたしの名前を呼んで、わたしをその輪に引き入れた。チリが、彼のために淹れた珈琲を見て、その贔屓を受ける男性(ひと)のなんたる幸せなことかを説いた。もちろん、冗談に近い冷やかしだ。それに対して彼はこう断る。彼女は妥協しているのですよ。そのおこぼれを与えられているのです。彼のその言葉は説教だった。わたしの一方的で、献身的で、独占的なその自傷行為に、区切りを付けるには充分すぎる力を発していた。思えば、その時からもう限界を感じていたのかもしれない。
「まったく、こんなことをして」
 熱い珈琲の入ったカップを彼の方へ傾けてしまった。わたしはただの「何もない」普通の女で、貴方は「手に入れている」側の人間。それに変わりはないから、昔も今もこの場に臥しているというのに。酷い。
「貴方も、こんなことをして」
 ふと悔しさで溢れ、オウムのように言い返す。語気を強める。こんなこと、とは、彼のに比べてなんて事はない。床に倒れたときに、叩きつけられた両膝のことだった。そして、妥協の件。ただ、彼と張り合えるような要素を並べただけだった。
「貴方、とは」
「ハッサク先生、貴方のことですよ」
 それは教師として呼ばれている、彼の名前だった。わざと距離を取るような呼び方をした。わたしのことを、導くべきものとしか見ていないのでしょう。そう、自分で取り決めた関係性を言葉にし、酷く突きつけられた感覚になるのも、もう止めたい。彼にも突きつけることで、もう終わりにしたい。こんな自分を見られるのも、もう我慢ならないのだ。
 そして、彼はわたしを導くことはできないでしょう。わたしの師にもなれないでしょう。わたしが何が欲しいのかを、わたしは貴方に教えることはないでしょう。こうして、何も育たない罪悪感を彼に与えて、わたしはわたしを惨めにさせた。それでも、結局、彼は無言のまま、わたしを立たせた。年下の女が、年嵩の地位ある男に対して言う態度ではないのは、彼も知っているだろう。しかし、職業柄、反抗的な人には慣れているのか、床に散らばった冷凍食品を余裕で片付けるその姿に、眩暈がした。

「いつも、そうして接してくれると助かるのです」
 そう言葉に出したとき、わたしは椅子に座らされて、ここには氷が無いからと、買ってきた冷凍食品を膝に充てられていた。彼はわたしの目の前に膝を付き、穏やかな表情で佇んでいる。大きな手、筋張った長い指が、似つかわしくないチープな袋を掴んでいる。そんな光景を見て、落ち着く自分がいた。
「小生のことが、どのように見えているのかは分かりませんが」
 彼の傷付いた左手が、わたしの右手をすっぽりと包んだ。それだけで、わたしの冷たさが彼の熱によって血色を取り戻すかのように生き返る。こんなところでも絆されている。わたしは彼には勝てない。
「この目の前の状況は、貴女にとってさぞ魅力的なことでしょう」
 黄金色の渦がこちらを探るように見た。目の前の状況?わたしに献身的な、その姿だろうか。
「貴女のことは、最初から何も分からなかった、でも、今は、貴女のことが手に取るように分かる気がします」
 これ以上、何も知りたくない。それを具体化するように、彼は膝に唇を当てた。今思えば、それは接吻ではなく、鎖なので無いかと思う。わたしは彼から離れられない。わたしは、彼が与えるそんな光景が、心底好きで堪らなくて、
「嫌い、嫌いです」
「はい」
「…もう、ここにも、どこにも居たくありません」
「はい」
 いいんですよ。それでも。何がいいのか。なんにも良くない。彼はわたしの膝裏に腕を入れて、もう片方の手で上半身を引き寄せた。そのまま身体を軽々と持ち上げられて、なす術もない。何も勝てない。何も知れない。抵抗できない。逃げようかな、そう思う。
「今度こそ暴れたら、怪我をしますよ」
 脅しのように聞こえたその言葉を聞いて、身を捩る。
「どこへ行くのですか」
「少し傷付きましたからね…」
 どこの誰が。
「あなたが納得するまで、好きになさい」
 そうしたら、まずはチリから謝ってもらいます。彼女にも、珈琲の飛沫が飛んだのですよ。それを聞いて、どこにも居ないわたしの姿が思い浮かんだ。彼の中には沢山の人が居るのだな。でもわたしはそこには居ない方がいい。ここでも虚しくなる自分に嫌気が差す。

 そして、寝室の、ベッドの上に投げ出されたその体躯を、わたしが組み敷いている。
「妥協をしないように」
 そう指示した。好きになさいとは、そういうこと。ここでも、導かれている気がして、本当に勝てないな。そう思った。貴方は教師のように、その身を削る。それがわたしを惨めなものにさせるというのに、何も知らないのだな。だったら、それだけは、絶対に教えてあげない。
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