雑踏の中、楽しそうにころころと笑う幼子と、その母親だと思われる女性の会話が鮮明に聞こえ、足を止めた。その小さな手に握られた氷菓子を中心に二人は顔を寄せ合い、どこから口をつけるべきかを考えている。ふと、その何も穢れを知らないキラキラとした瞳がこちらの視線に気付き、その目に私の姿を捕らえた。目と目が合い、ほんの数秒の間そうしていたが、私の方から歩みを再開することで視線を外し、その僅かな時間は終わりを告げる。後ろから子供の余所見をたしなめる母親の声が聞こえ、また人混みの一部分として戻って行った私の背中を、未だその幼子は目に入れているのだと感じた。心のどこかでその光景を懐かしみながらも、何も無い暗闇の底を探るように見る二つの眼から、逃げるように立ち去る自分が居たのだった。
 此処、ハッコウシティは久しぶりの快晴に見舞われ、鬱々とした気分で部屋に篭りきりだった人たちの憂さ晴らしと化していた。そんな私も例外ではなかったが、ここ数週間の間に切らしていた生活用品を買い足した後、カフェで寛ごうと思っていたのも束の間、あまりの人の数に圧倒され、押し出されるようにこのにぎやかな街を後にしたのだった。それでも、この青空の下、開放感に溢れた私の心は、数日前の雷雨が嘘のようだと、その自然の切り替わりの早さに感心する。私と自然との関係は、この世に生を受けてから今に至るまで、野生として暮らすポケモンのように密接だった。特にしるしの木立のような鬱蒼と木々が生い茂っている場所では、より一層に自然と隣り合うことができる。其処では、どのポケモンもお互いを主張し蠱惑的な見た目をして居るのにも関わらず、ひっそりと暮らすことを楽しんでいるようだった。そんな場所に家を持ち、そこに帰る私も同類なのだと思う。しかし、そんな彼らと私には決定的な違いがあった。彼ら、ポケモンには寝食を共にする仲間が居るということだった。私にも、かつては共に暮らす「家族」という存在が居たが、今はもうこの世に存在自体を消してしまった。だからといって、以前の生活と違ったのかと問われればそうでもない。良くも悪くも、私の帰る場所は其処しか無いのだと、先程ハッコウシティで目にした親子から目を背け、逃げるように「森へ帰りたい」と願った自分を思い出す。しるしの木立には、森があり、私が居る。その関係は、これから先も崩れることはない。そう、思っていた。

 それは、ハッコウシティを出た先の急な坂を携えた草原を抜け、東3番エリアに到達したときだった。相変わらず、ここには何もない。そう思い、辺りを見回し、かろうじて存在を主張する物見塔に目をやる。すると、そこに、ある人物を中心に人の群れが広がっているのを、遠くからでも確認することができた。もちろん、何をしているのか、あの人たちは何なのか、という率直な疑問もあったが、それよりもあの群れの中心に居る人物のことで頭がいっぱいになる。今思えば、それは普段ならありえない行動だったのかもしれない。私は、どちらかと言えば社交的ではないこと。その群れに飛び込もうという勇気は出ないこと。もう、人が沢山いるところは懲り懲りだったこと。その全ての要因を経ても尚、私の心情には躍動する「何か」を根源に、錆びついた歯車に油が差され、それに惹き寄せられるかの如く、回転を始めていたのだった。この胸を高鳴らせるものは一体なんなのか。それも、群れとの距離が次第に縮まるにつれて、その正体が明らかになる。
(この、人…?)
 真っ直ぐとぶれの無い、強い意志を携えたような凛々しい男性。その身体から、おもむろに腕を離すと、大きな手からスラリと骨張った長い指を順番に開いて、手を差し出すように物見塔を示した。
「こちらの物見塔は、パルデア帝国時代に使用されていたとされていますですよ。しかし、その役割は諸説あり…」
 喉仏から発せられる低いけれどはっきりとした声が、私の耳に入り意識を集中させる。それは、彼の周りに居る人たちも同様だった。突然に湧いて出た私には目もくれず、力強く紡ぎ出される彼の言葉に耳を傾けている。私は未だ此処に居ることを許されたような、そんな様子に付け上がり、彼の姿をこっそりと、何かを確認するかのように眺めた。見た目はポロシャツにスラックスといった軽微な格好と、その首には職員の名札がかけられている。壮年の男性ならではの活き活きとした力強さを感じさせながらも、黄金に光る瞳はどこか威厳を放ち近寄り難い雰囲気を醸し出していた。岩肌を削るような力強い風がびゅうと吹き、彼の肩上までの金糸を束ねたような髪を大きく揺らす。それでも足りないと言わんばかりに悪戯な風はハーフアップの一つ結びを撫でた。私は、その一瞬の出来事に息をするのも忘れていたらしい。彼の一挙一動とそれを取り巻く自然の現象、目の前で繰り広げられるその全てに気を取られ、とても長い時間が流れているような、そんな気がしていた。だからか、そんな私を彼が見つけて、此方に歩みを進めていることに気が付くのが遅くなった。
「こんにちは、パルデア観光です。研究員の視察調査として此方のご案内をしておりますですよ。地元の方でいらっしゃいますか」
 しまった、と思った。気が付けば周りにいた人たちは各々自由に行動を開始しており、その彼から離れて、周辺に散らばっていた。今、私の目の前には「彼」だけしか居ない。その逆も然り、彼の目の前には「私」しか居なかった。それにも気付かずに、彼を凝視していたなんて。彼が気を使って明らかに怪しい部外者の私に話しかけるのは無理も無い。しかし、そんなことなど気にもしていないかのように、彼は私が手にしている、大きく膨れ上がった買い物袋を目にして、和かに笑う。それに気付いた私は途端に向けられた彼からの温情に恥ずかしくなり口籠ることしか出来なかった。勝手に此処へやって来て、彼の話を、彼の事を見ていたのにも関わらず、その意味を伝えるための言葉が出てこない。私のジワジワと湧き上がる羞恥という感情は、さらに酷いものへと進化していく。そんな私を気にかけたのか、彼は「よくこの付近をお通りになるのですか?」という質問をしてくれた。またもや、それに対しどう答えたら良いのか気を揉む。此処、東3番エリアはいくら地元民だからと言っても、日常的に通り道に使うことはしない。何故なら、この先にはしるしの木立しか無いからだ。さらに、その先には崖、雪山。到底、其処に住居を確保して、人が住んでいるなんてことは、社会から断絶した生活を好む人間以外にはあり得ないことだろう。そんなことを知ってか知らずか、彼の私の見る目はより一層、色を深くして、探るように私の存在を確かめるのだった。どうやら、彼は純粋に私が何者であり、こんなところで何をしているかということを知りたいような気がする。雲の隙間から陽光が伸び、彼と私を交互に照らした。私に向けられた、彼の細められた目と微笑む口元を、より一層に際立たせる。彼を目の前に油断をしていると、足元を掬われるような、そんな気分にさせられる。
「毎日、こちらをお通りになるのは、とても大変なことでしょう」
「は、い…あの、はい。私、これで失礼します」
 沈黙を肯定として捉えられた。その言葉に、ハッとして、眼を伏せて、そう言ってしまう。視線を下ろした先には「ハッサク」と、そう名札に書いてあることに気付く。その使い古された名札の端、そこには少し泥が付いていた。このように、彼の親しみやすさは充分だというのに、それなのに、私はこれ以上、彼との会話を広げようとは思わない。この地形に特段詳しい訳でも無いし、このエリアに立つ塔の意味など私は知らない。そして何より、彼とこれ以上の対人関係を続けることが怖かった。何故かはわからない。彼を認識して、彼に近付いて、彼の名前を知って…。私にとって、他人をこれ以上知りたいだなんて、そんな感情は、こんなことは馴染めていない。そして多分、何も与えられない。気の利いた言葉も思い付かなければ、感情を表すための動作の用意もしていない。とにかく、早くこの場所から離れなければいけないと、そう思った。そんな私のおかしな言動に、彼は気付いていないのか、その彼の口からなんてことない言葉が紡ぎ出される。
「…おや、お急ぎでしたか。それは失礼しましたですよ。あの、小生は」
 その最後の詞が、私の足を呼び止める。彼が私を離すことに、あまり良しとしていないような、心残りを感じているかのような目が、私を捉えていた。
「ハッサクと、申しますですよ」
 彼は、私の記憶に刻み込むかのように、ゆっくりと、その名札に書いてある通りの名前を述べた。その瞬間だけ、その目の中の螺旋が私を貫いて、体の僅かな動きすらも止めてしまう。
(ハッサク、ハッサクさん)
 彼の口から紡ぎ出された彼の名前。私に、その名前を、頭の中で何度も何度も、繰り返し言わせる。ハッサク。彼の姿によく似合う、聞いたことのない響き。溢れ出してしまいそうな感情の昂りを感じた。それから彼は、最後に私の警戒心を解いていくかのように、優しく微笑む。遠くの方で、人々の声がするのを鼓膜は捉えていたが、目の前の彼から目を離すことなど出来なかった。それでも、私は、この場を去りあの森へ帰ることを選ぶ。教えてくれた彼の名前にお返しをするように、私も自分の名前を述べてから、元の帰路を歩み進めるのだった。

 気が付けば、既に昼下がりの大半が過ぎており、あとは夕方が来て夜を迎えるだけだった。未だ晴天から変わらない気持ちの良い空にワシボシの群れが現れ、西の方面を飛んでいくのが見えた。きっとプルピケ山道に移動するのだろう。私も、しるしの木立にある自分の家を目指すために、足早に歩みを進める。隔たりが無く多方向から風が吹き、石と土埃でいっぱいだった場所から、更に入り組んだ場所へ入ると、周囲は突然木々が増え、薄暗いひんやりとした静かな場所に変化していった。
「…違う」
 ここでは誰にも聞こえないからと、その木立の中で、そうぽつりと声を出す。その言葉は、彼の前での失態を思い出して、その戒めという意味での言葉ではなかった。彼に対する避けようは、彼との会話が面倒という訳でもなければ、警戒しているという訳でもない。違う。これは彼に言った言い訳である。これ以上の関わりは「知らない私を受け入れなければいけない」ことへの恐れを感じていた。こんな根源の分からない感情に囚われるのは初めてだ。これは一体なんなのだろう。しるしの木立の奥深く、更に木々が生い茂る先に佇む一軒家にたどり着いたあとも、この気持ちを抑え込むことは出来なかった。帰宅して早々、この感情について知りたくなって、辞書を開くなどしていたが、案の定、そんな物を調べてみても何も当てはまらず。私が産まれる前からずっと置いてあるという古びた本棚の前で疲弊することしか出来なかった。ふと、本棚に置かれている言葉の羅列たちを目で追えば「大穴の恋人」という恋愛小説に視線が止まる。これは、恋慕の情なのだろうか。でも、何かが違うような。そんな容れ物にはきっと入りきらない。大きくて深いこの森のように、私自身をも飲み込むこの得体の知れない感情。これは、この先どうすればいいのか。永遠にそれに囚われてしまう未来の自分を想像し、ゾッとした。反対に、私をこの森から解放してくれるかもしれない。そんな期待が溢れて止まらない、もう一人の自分が居たのだった。最後に、物見塔を去る時に見た、彼の姿を思い出す。彼は私を見送った後、しばらく俯いていたのか、その視線の先を凝視し何かに気づいた。自身の首にかけている名札を手に取り、何かを払う。私にはその行動の意味が分かった。きっと名札に付いていた泥を落としたのだろう。それから、ゆっくりと名札を降ろすわけでもなく、そのままの場所から手を離す。私の視線に気付いて、反射的に顔を上げた。それから、彼も、私も、どんどんと離れていくお互いの距離など気にしないとでもいうように、いつまでも其処に「居る」ことを確かめ合っていた。
「…」
 その様子を、ソファで仰向けになりながら、繰り返し繰り返し頭の中で再生していると、気付いたら夕暮れどきまでそうしていたらしい。部屋の奥の方から、どこからともなく現れたミミッキュが、玄関に置かれたままの買い物袋を目にし無言で私に目をやってから、諦めたように森へと帰っていった。
「また、勝手に出入りをして…」
 当たり前のように扉を押し開けて出ていったその小さな背中を見て、溜息が漏れる。此処、しるしの木立には、もうすぐ夜がやってくる。この森に住む、ポケモンの存在をより一層に際立たせるかのような、静かな時間。真っ暗闇の中、草木を掻き分ける音と、隣り合うもの同士へ向けられた鳴き声。毎夜、そういった感じだったので、何も違和感などなかった。しかし、今日は「この森には私しか居ない」という当たり前のことが酷く胸に響く。いつものように、静かな空間だけが私を包み込み、誰にも邪魔されることは無い。それは、この感情に取り憑かれる私を誰も引き戻すことが出来ないことと同義であった。そう思うと、独りで居るこの現状が、初めて耐えきれないものだったのだと、酷く胸に突きつけられたような感覚に襲われる。
「ハッサクさん…」
 初めて彼の名前を声に出した私は、この深い森の中、人同士で身を寄せ合うかのような温かさに、身体が包まれていくのを感じたのだった。
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