春を匂わせる風がクモの手の甲を撫で次のページをめくろうとしている。紙が擦れる音は読書をやめたクモを責めているようだ。テーブルに置かれた青い栞は本来の仕事を放棄させられたようで、冷えた紅茶を乗せたソーサーの横で不貞腐れている。進まない物語に主人公たちはやきもきしているだろうが、別の場所に意識を向けるクモには届かない。
 膨らむカーテンの向こうにいるウルキオラをクモは見ていた。
 仮面のない男の髪を風が均等に揺らしていく。その春風を吸い取ったかのように、肌は以前と比べて色味がある。服に冬を思わせる色がないのも血色の良さに手を貸しているのだろう。規則正しくページを送る指は、変わらない性格の表れか。

「現世には、本がたくさんありますね」

 ページに詰められた文字をなぞりつつクモは自身が好きなジャンルとウルキオラが気に入っているジャンルを思い浮かべる。虚夜宮に留まっていたままではそれらを知ることも、こうして手に取ることも無かっただろうなと、現世に来ることを決意した自身にクモは拍手したくなる衝動に駆られた。

「ああ。虚圏は存外、小さな世界だったようだな」
「存外、現世は、世界は広いですね」

 ウルキオラが文字の海から顔を引き上げてみれば、机に置かれた栞とクモの膝に乗せられた本に目がとまる。そこでクモが何と無しに文字ではなくページをなぞるのを見て、つり上がりそうになる口角を抑えながらウルキオラは栞を挟み、机に置いた。
 クモの言葉数が増え、手に触れる物を何度もなぞるときは、話したい事があるときの兆候だとウルキオラは知っている。こうやって人間味のある行動が、鎖骨の辺りをむず痒くさせる事も、また知っている。

「広い世界を見て回りたいです」
「パスポート、とやらがなければこの国から出られないのだろう」
「一緒に巡ってくださるのですか、ウルキオラ様」

 操る言葉のやりとりが人間らしくて、それを何と無しに共有し合うのが新鮮だ。そして何よりもうれしい。クモは本で口元を隠すが目尻から笑みが溢れてしまい、表情を隠しきれない。笑顔になるクモと反対に、怪訝そうな表情を浮かべたウルキオラ。クモは笑い声を零しながら置きっ放しだった栞を目次のページに挟む。こじんまりと本から頭を出す栞はクモを応援しているようだ。

「ウルキオラでいい。俺とお前の間にあった上下関係はもう通用しない」

 そういう世界に連れて来てくれたのだろう。言葉の意味を計るように堪えるようにクモは本を強く握った。
 虚圏からウルキオラを助け出したというのは聞こえが良いが、ウルキオラからすれば何の断りもなく現世に連れてこられた。その事実はクモの中で蟠りとなって居座り、ふとした時にクモの首を絞める。ここに来てよかったと思っているのはお前だけだと、クモを責める。

「クモ」
「……はい、ウルキオラ」

 しかし、その凝りを簡単に払拭するほどの力がウルキオラの言葉にはあった。それをクモは受け止める。
 春の風が頬を撫でた、少し湿った春の風。冷たくなった紅茶を笑顔で飲み干して、新しい一ページをウルキオラとクモは進もうとしている。他人にペースを乱されることなく、ウルキオラとクモの二人で物語を進めて行くのだ。

栞の代わりに



2014/08/13

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