『行雲流水』(2年目)

それから。アスヒはクロコダイルに夕食前までは屋敷にいることを許され、身支度を整えたのち、バナナワニの水槽のもとへとやってきていた。

バナナワニの餌やり当番としてここに暫く通っていたアスヒ。バナナワニ達も、アスヒを餌をくれる人物だとして認識しているらしく、彼女が現れると共に嬉しそうな声をあげた。

「……お前達、明日からは違う人から餌を貰うんですよ」

アスヒは擦り寄ってきたバナナワニに笑いかける。
大きな彼らに腕を伸ばすと、バナナワニはその鼻先を押し当てるようにして寄ってきた。

「ちゃんとわかっているんだか」

頬を寄せてくるバナナワニに苦笑を零しながら、アスヒはギブスで包まれた足を見下ろす。小さく溜息をついてアスヒは水槽の淵に腰掛けて、足を水につけた。
バシャバシャと動く方の足を動かして水を跳ねさせる。ギブスは水に濡らしてもよかったものだったか。と一瞬だけ思考するが、それすらもどうでもよくなって、足を水につけたまま後ろに倒れ込んだ。

眩しすぎる太陽が見える。アスヒは目を閉じて、何度目かわからない溜息をついた。

そのまま意識が眠りに落ちてしまいそうになる一瞬、水槽から飛んできた飛沫がアスヒの頬にかかった。
バナナワニが乱暴に水に浸かって飛沫が上がったのだろう、と、アスヒは身を起こす。こんな水槽淵で眠って落ちたら洒落にならない。

身を起こして、松葉杖に手を伸ばそうとした瞬間。そこでやっと彼女は自分の前に、謎の水の塊が現れていることに気がついた。

「……水…?」

直径50cm程の水の球体はアスヒの前で浮遊している。ここが漫画の世界だと知っているアスヒも、急に現れた不思議なものに目を奪われた。
目の前の水の塊は、何をするでもなく軽く上下しながら漂っている。漂う水の塊に興味を示したアスヒは恐る恐る手を伸ばして、その塊に触れてみた。

途端に弾ける水。飛んできた水に顔をしかめていると、次の瞬間にはアスヒの手になにか果物のようなものが乗っていた。

「え?」

急に現れた水の塊の中から、急に現れた果物のような何か。
その果物に描かれてる渦巻きのような模様に、アスヒの目は見開かれた。

「……悪魔の実…?」

アスヒの手には悪魔の実が乗っていた。

「どうしてここに」

アスヒは困惑顔でその実を見つめる。
悪魔の実は無機物らしく何も答えることなく、動くことなく、アスヒの手の上に乗ったままだった。

(…これは…、クロコダイルに持っていくのが妥当なんでしょうね)

そうは思いながらも、アスヒは初めて見る悪魔の実が気になって仕方がない。
両手の上に乗るくらいの大きさの実は、形状的には大きめの林檎のようにも見える。
ぐるぐる模様の入った実を掌に乗せて見つめていたアスヒは、やがて静かに実を口元へと寄せた。

ひとくち。口の中に特徴的な味が広がった。

「……………まずい」

あまりの不味さに顔を顰めるアスヒ。広がる悪寒に肩をすくめ、なんとか口に含んだものを嚥下する。

嚥下してから、食べちゃった。と思わず笑みを零すアスヒ。

これから屋敷を出て暮らしていくんだろうし、能力者になってみても許されるだろう。
せっかく漫画の世界に来たのだから、アスヒにももっと楽しめる要素がないと――。

「え」

急激に視界が変わった。背中に蹴られたような痛みを感じた瞬間、クロコダイルの顔と、憎い程天気の良すぎる青空が一瞬だけ見えて、次にはアスヒの身体は水槽の中にいた。

(あんの、砂鰐…!!)

いつから見ていたのかは分からないが、アスヒが悪魔の実を口にする所は確実に見ていたのだろう。
何のためらいもなく水槽に叩き落としたであろうクロコダイルに、アスヒは悪態もつきたくなる。

悪魔の実の能力者は泳げないカナヅチになってしまう。このままアスヒは溺れ死ぬのを覚悟した。

その時、身体を水の膜が覆った。

何事かと水中で目を丸くするアスヒだが、答えは得られない。

水の膜はアスヒを中心に円状に広がり、そして次の瞬間にはその中には空気で満たされていた。
目を丸くしつつも、肺へと流れ込む空気。彼女は咳き込みつつも呼吸を繰り返した。

突如として水の中に出来た空気の球体。その中でアスヒは不思議なことに浮かんでいた。

「なに…これ。なんの、実だったのよ…」

呆然と言葉を零すアスヒ。水の中で能力が使える悪魔の実だなんて、漫画の中では出てこなかったはずだ。
そもそも能力者は海に嫌われるのではなかっただろうか。

訳もわからないまま、意識を空気の球体に向けると、その球体は徐々に上昇し始めた。そして水面から顔を出すと、きっと全てを見ていたであろうクロコダイルが驚きの表情で出迎えた。
あまりの気まずさに無言になるアスヒ。クロコダイルはアスヒを鋭く睨みつけたまま、小さく言葉を紡いだ。

「『ミズミズの実』」
「ミズミズ?」
「水を操り、唯一カナヅチにならねぇ悪魔の実だ。実在しねぇ実だとも言われてる」

なんというチート能力。アスヒは驚きの表情のまま自身の手を見つめる。
そのまま浮かぶようにして地面に降り立った水の膜を張った球体は、地面に着くと同時にシャボン玉のように割れ、片足しか正常に機能しないアスヒはぐしゃりとその場に転んだ。

その瞬間。

再び見上げることとなった青空。クロコダイルの顔。
アスヒは首筋に当てられる鉤爪の感触を味わいながら、一瞬だけ詰まった呼吸をゆっくりと再開しはじめた。

「なんで実を食った?」
「好、奇心で」

殺気の篭ったクロコダイルの視線を真っ直ぐに受けながら、途切れ途切れながらにも返事をするアスヒ。
じわじわと鉤爪が首に食い込んでいく。そして耐え切れなかったかのように皮膚が切れ、血が一筋流れた。

「…クロコダイル様に、」

アスヒが言葉を紡ぐたびに動く喉で、鉤爪がより深く食い込んで血が流れる。
それでもアスヒは真っ直ぐにクロコダイルを見上げ、誤解しているであろうクロコダイルに言う。

「貴方に、反逆する気は毛頭ございませんよ」

無理無理。だって勝てる気がしないんだもの。

そこまでは言わないが、アスヒはただそれだけを言って、クロコダイルの言葉を待つ。
言葉ではクロコダイルを信用させることは出来ないし、何らかの行動を起こしてもクロコダイルは他人を信用しないだろう。

それを知っているが故のアスヒの無言。
アスヒに話す気がない分、沈黙を破ったのはクロコダイルであった。

「…その実なら義足も自分で作れるだろう」

右手に鉤爪を持つクロコダイルがニヤリと笑みを浮かべる。
アスヒはその笑みを見つめながら、悪寒に身体を震わす。

クロコダイルは自分の手元にいる獲物に強者の笑みを投げかけたままだった。

「俺に逆らう気がねぇってんなら、その使えねぇ足は切り落として、自分で使える足を作ってみろ」
「………」
「出来ねぇってか?」

意地悪そうに、どこか楽しそうな笑みを浮かべるクロコダイルに、アスヒはムッと表情を変える。
クロコダイルは、アスヒがそんなこと出来るわけがないと鷹をくくっているのだろう。

そして出来ないと言ったアスヒをこのまま殺すのであろう。

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