悩めるマニキュア

朝出かける前に洗濯機を回したのに、準備にバタついて干すのをすっかり忘れ、帰ってきて死んでいる洗濯物を見つけたときにはすべてのやる気が消失していた。少し手のかかる料理をしようと思ってスーパーに寄ってきたのに、その元気はどこへ行ってしまったのか。馬鹿だ。洗い直すんの面倒くさいな。でも嫌な匂いしたら今後何日か後悔するしなぁ。大好きな柔軟剤の香りは既に飛んでしまっていて、息をしていない洗濯物を再度水に埋める。足元に置いたいつもより大きいスーパーの袋が傾いてグシャリと音を立てた。

高校卒業してすぐに就職しひとり暮らしを始めた。働きながら慣れないひとり暮らしをするのは想像の何倍も大変だった。残業しても家でご飯がひとりでに出来上がっているわけではないし、朝うるさく起こしてくる親もいないからちゃんと目覚ましをセットしなきゃいけない。自由は増えたけど、比例して寂しさもあった。はぁ、とため息をついても勝手に消えることはなく、空間にもやもやと残ったままで、幸先の不安をすでに感じ始めている。

洗濯機の前に座り込んだまま、上着のポケットからスマホを取り出して操作する。夜の19時。もうこんな時間かぁ。今から連絡する彼は、夕食を食べている頃だろうか。

うまくいかないことがあると、幼馴染の篤に電話をしてしまう。一種の癖だ。変な癖とは思うけれど、きっと篤は私が電話することに何も言わないし、どう思っているかはわからないけれど、篤にとってさほど重要ではないのを知っている。電話帳から篤の名前を見つけて、発信する。数回のコール音の後に応答があった。

「…もしもーし」
『どうした?名前』
「いやー、何かあったわけじゃないんだけどさぁ」

話聞いてほしくて。
そういうと篤はいつものように突然だなって言うのだ。立ち上がってスーパーの袋をキッチンにおいてからリビングへ向かう。

「今日さ、朝天気が良かったから洗濯してから会社に行こうとしたのに洗濯物干すの忘れちゃってさぁ。仕事も凡ミスして怒られて落ち込むし、せっかくご飯作ろうと思ってスーパーで買い物したのに、帰ってきて洗濯物見つけて最悪な気分。泣きたいよ」
『大変だな、それは』
「そうだよ、大変なんだよ」

通勤服のままドサッとベッドに体を投げる。ワンルームの部屋の天井に手を伸ばしながら電話越しの篤の言葉を待った。オフィス用のネイルが伸びてきていて、またサロンに行かなきゃなあとぼんやり思った。大人って面倒くさい。

『何を作るつもりなんだ、ちなみに』
「えー、ビーフストロガノフ」
『いいな』

いいでしょ。絶対美味しいよ。私が作るんだもん。
篤との電話は楽だ。何を話しても聞いて相槌をくれる。それだけでいいんだ。話を聞いていてもいなくても、適当に相槌を返してくれるだけで、私はこの世界にたったひとりじゃないんだなあと気づかせてくれる。

『行こうか、家』
「へ?」
『作んだろ、料理』
「あーうん、電話終わったら作る」

まだ飯食ってないから、俺。低く落ち着いた声が耳を擽る。それいいね、篤がうちに来るなら面倒くさかった料理にも取りかかれるだろう。洗濯物も忘れずに干せるし、篤はお腹を満たせる。双方にメリットがある。

じゃあまた後で。
そう言って電話を切って、私はベッドから体を起こした。部屋着に着替えて、少しだけ掃除をして、料理の仕込みをしながら篤を待とう。何気ない一日に色を付けてくれる彼にとっておきの手料理を振る舞ってやるのだと腕まくりをした。