ミルクティーがほどけるまで
物音で目が覚めた。ドアの閉まる音、シャワーの水音、ああ、彼が帰ってきたんだな。置き時計を見ると4時半を示していて、朝焼けが窓の外を支配しようとしていた。
ゆっくりとベッドから起き上がって、サイドテーブルに置いていたペットボトルから水を飲む。染み渡る水分はぼんやりした頭を幾らか起こしてくれた。エアコンで冷えた体が、痛い。
寝室のドアを開けて、リビングのソファーに腰を沈めた。夜の任務についていた彼は、帰ってきてすぐシャワーを浴びて寝るのがいつもの流れだ。ここで待っていれば、話せるから。ソファーと同じ柄のクッションを枕にして、横になった。
「あれ、起こしちゃったかな」
「ううん、勝手に目が覚めたの」
少ししてリビングに来た春秋の髪はまだ濡れていた。水が滴るほどでは無いものの、乾くにはまだ遠い。立ち上がり春秋のもとに向かうと、背伸びをして、春秋が肩にかけていたタオルで髪の毛をわしわしと拭いた。身長が高い彼は、私にあわせて屈んでくれる。
「随分早起きだな。今日仕事休み?」
「うん。休み」
「二度寝は?」
「するつもり。でも、久しぶりだから、少し春秋とお話する」
更けた空は室内の電気をつけずとも充分明るく照らしていた。朝焼けは、雲が多くないと綺麗に見えないんだっけ。そんなことを考えた。
春秋がこの部屋に帰ってくるのは実に3日ぶりだ。ボーダーに、研究室に、人から信頼される彼は毎日がとても多忙だ。連絡は取っているから、何も心配になることはないんだけれど、それでもこの3日間はとても私にとって長い3日間だった。
粗方水分が取れたので、タオルを外した。瞬間に、目があって底知れぬ優しい眼差しに、とことん溺れたくなる。少しだけ息を呑んで、口を開いた。
「…春秋に、言わなきゃいけないことあって、聞いてほしくて」
「…何かあった?」
「うん、とびっきり最悪で、糸引く話」
本当は疲れきっているはずなのに、春秋はこういうときにちゃんと付き合って話を聞いてくれる。彼の好きなところだ。春秋は温かい飲み物淹れてくるよ、とキッチンへ向かった。戻ってきた彼の手には無糖のミルクティー。マグカップから伝わる温かさが染みていく。
ソファーに二人で腰掛ける。形は春秋が選んで、色は私が選んだソファーは二人の拠り所のようだ。
「それで、話って」
「うん。私ね、仕事辞めたの」
春秋が居なかった3日間で決意して。まだ荷物整理してないから会社には行かなきゃいけないんだけど、と付け加えた。春秋は驚いて、それでも私の話を優先させてくれるかのように黙っていた。
「前にさあ、新人の美人の女の子が入社してきたって言ったじゃない?その子がさあ、本当に酷くてさあ」
誰かに―いや、誰にでもじゃない、春秋に。聞いて欲しかった思いがぽろぽろと溢れていく。
2ヶ月前に入った新人の女の子が、私の陰口を上司の前で言っていたこと。後輩の残業をするのは先輩の仕事ですよね、と言ってきたので私が残業を肩代わりしていたこと。雑用を押し付けられていると上司に嘘をついていたこと。
「私5年も働いたのにさ、上司に呼び出されて『事実確認をする』だとか、『謝罪をしなさい』だとか言われて、あっ私の働いてきた5年って何だったの?って我に返っちゃって。年下にいびられてたときは意地でも辞めないって思ってたのに、上司の話聞いたら糸が切れたかのように駄目になっちゃった」
そこまでほとんど息をつく間もなく話して、手元のマグカップに口をつけた。エアコンのせいだけじゃない、嫌な喉の乾きはまだ治らない。冷えた体も、戻らない。
マグカップをテーブルに置くと、春秋が口を開いた。
「…馬鹿だなあ」
「馬鹿?私のこと?」
「違うよ、名前の上司たち」
きっと、名前が辞めて漸く嘘に気付くんだよ。気付いたときにはもう遅いんだけれど。
春秋の声は恐ろしいくらいに優しかった。これは、内心怒っているな。それがわかるくらいには長い付き合いをしている。
「5年も頑張ったんだから、たくさん休むといいよ。会社に荷物取りに行くときは教えて。手伝う」
「…なんで彼氏と一緒に荷物引き取りに行くの」
「興味本位なんだけど、見る目がない人間の顔を拝んでみたいと思って」
「おー怖」
二人して笑みが溢れた。春秋が、私のことをちゃんと知ってくれているだけで、満足だった。
「…とまあ、つまり、しばらく仕事をしないでゆっくりしたいので家に居ても嫌がらないでね。貯金は少しあるし、ちょっと休んだら仕事探すから」
「俺としては、このままずっと家に居てくれてもいいんだけど」
「それ、プロポーズみたいだね」
どちらともなく顔を見合わせて笑った。すっかり明るくなった空は春秋の表情を柔らかく照らしている。春秋の髪の毛はすっかり乾いて、彼は肩からタオルを外した。立ち上がり、洗面所へ向かうらしい。
テーブルに置いたマグカップに手を伸ばそうとして―横からカップが攫われてしまった。彼を見上げると、視線が絡む。
「ミルクティーはまた明日淹れなおしてあげるから、ひとまず黙って俺に愛されてみない?」
「…いいね、のってあげよう」
「そうこなくちゃな」
春秋がまぶたにキスを落としてくれる。散々泣きはらしたまぶただってわかっているから。もう今日はとことん、君と眠って優しい夢に浸りたいんだ、お願い。