グラスに浮かべた藍

ほんのちょっとムシャクシャすることが続いて、あっと思ったときには目の前の人物に当たり散らかしていた。彼はいつもみたいに茶化すことなく、何も言わずにじっと私の顔を見て、平然と「別れるか」と言ってのけたのだ。





「やってしまった」
「常日ごろからやらかしてないことあるのか」
「辛辣」

年老いたマスターが一人で切り盛りしているこじんまりとしたバーでぐっと酒を呷る。可愛らしいカクテル―なんてことはなく、私の手に握られたショットグラスにはウォッカが入っていた。続いてライムを囓ると、隣に座っていた二宮が「荒れてんな」と言う。おお、そうだよ、こちとら荒れてんだよ。

オレンジの照明がぼんやりとカウンターの向こうの酒瓶を照らしている。薄暗い店内にはマスターの他に私と二宮しかいない。
まあ、ムシャクシャしたことで八つ当たりをしたのは私が悪いわ。財布を落としたのも、死ぬ気で書き上げたレポートを家に忘れて提出できなかったのも、まあ私が悪い。それでも。

「太刀川が告られてる場面に出くわして、アイツまんざらでもない顔してたのは、ムカつくじゃん」

マスター、次はバーボン!と空になったショットグラスをかかげる。もうとことん飲んでやろ。二宮の金で。
二宮は少しだけ嫌そうな顔をして、自分のお代わりを頼んだ。





「だーっ!飲んだ!めっちゃ飲んだ」
「足元覚束ないくらい飲むな馬鹿」

あれから2時間、同じバーで飲み続けた。強い酒を頼みまくったのは手っ取り早く酔いたかったからだ。ふわふわとした足元も、目の前も、好きだ。酔えば目先のこと考えなくていいから、幸せな気分になれるし。
でも流石に飲みすぎたのか足に力が入らず、二宮に縋るようにして歩く。

「太刀川に告ってた子さあ、高校生だけどさあ、すっごいかわいかったんだよ。アイツ付き合うのかな。わたしに別れるっていったんだもんね。未成年いんこーやろーって茶化していいのかな。ボーダー本部内でふたりとすれ違ったときどんな風に無視したら印象わるくなんない?」
「あんまり喋るな。うるさい」
「へーい」

夜の帳はすっかり落ちきって、月は見えなかった。等間隔の街頭が歪んで見える。二宮にずるずると引きずられながら、このまま家に帰って、死ぬように眠って、目が覚めたらまた明日かぁなんて考えた。嫌だなあ、明日。なんて顔して生きていけばいいんだ。振られただけで「名前」馬鹿みたいだな……ん?

聞き慣れた声に顔をあげると、狭まった視界のなかに見慣れた男を見つける。

「たちかわ、なんでいんの」
「遅え」
「悪いな。じゃ、引き取るわ」
「貸し1な」
「え、え、まってまって、何の話?」

二宮の腕から剥がされて背中を押されれば、力の入らない足も相まって太刀川にぶつかってしまう。「二宮ぁ」と情けない声を出しても、やつはさっさと私をおいて帰ってしまった。非常な男だ。飲み代は全部出してくれたけど。

「遅えよ、お前。男と二人っきりでこんな時間まで飲んでんじゃねえよ」
「おとこって、二宮じゃん」
「それでもだ。考えろ」

は?何だコイツ。いや私お前のこと相談してたんですけど。一方的に聞いてもらってた感はあるけど。

「いやアンタに言われる筋合いないんですけどぉ?」
「まだ拗ねてんのかよ」
「だって、」

別れるって言ったじゃん。言ったよね?あれ?酔ってるからわかんなくなってきた。太刀川の態度もわかんないし、何だこれ。

「あんた、私に別れるって言った?」

わからなくなって尋ねた。目の前の男は髭の感触を確かめるように顎を触って、まあ、と言った。まあ、って、そうですか。夢じゃないじゃん。

「言ったけど撤回しようと思って、迎えに来た」
「は、ん?」
「俺も拗ねてお前に八つ当たりのつもりで別れるって言った。だってお前さ、俺が告られてるときに遠くで見てるだけで、何もしないし言わなかったろ」
「えっあの場面で私堂々と出ていかなきゃだめだったの?彼女ですって?」

太刀川は私の言葉を聞いてそうだと言わんばかりに頷いた。無理にもほどがある。馬鹿でしょ。流石に、仮にもボーダーの1位のやつに告ってる高校生の気持ちを考えたら、邪魔をしようなんて思わない。

「それは私には無理…あと飲みすぎて気持ち悪くなってきた」
「おぶってやろうか」
「揺れでもっと気持ち悪くなりそ…」

体に入る力がどんどん弱くなってきて、ずるずるとしゃがみこんだ。太刀川が擦ってくれる背中の感触だけがいま私の意識をかろうじて繋ぎ止めている。飲みすぎた。だってそうだ、どこにやり場のない気持ちをぶつけていいかわかんなかったから、飲み込んだのに。

「ちょっと我慢しろよ」
「う、」
「吐いてもいいから、家まで頑張れ」
「うう…」

横抱きにされたので、お腹の前で鞄を抱きしめて少しでも吐き気を堪らえようする。情けない。好きな男に介抱されるなんて。ん?あれ?
そうか、私まだ太刀川のこと好きなのか。
太刀川の足は、確実に私の家に向かっている。

「…わたしさあ、笑ってほしいんだけど、まだ太刀川のこと好きみたい」
「そっか。じゃあ家ついて名前が元気になったらセックスな」
「話が急すぎる…」
「仲直りしたいときはセックスって決まってんだよ」
「はじめて聞いた」
「マジか?じゃあ俺が決めた。今」

私のことを支えてくれる腕は力強い。あー、もう、当たってごめんね。これからも度々あるかもしれないけど、別れるだけは心臓止まりそうになるから、避けてほしいかな。

いいよの意味で太刀川の胸に顔を埋めると、太刀川が小さく笑った気がした。