日盛りの紅い理由

―それが准の上着のポケットから出てきたとき、私の思考はエラーが起きたロボットみたいに急に停止し、行っていた洗濯は途中のまま、家から逃げ出してしまっていた。
え、あれ何。もっとよく見てくればよかった。いや、そんなにメンタル強くない。ただでさえ准と付き合ってることで不特定多数からSNSで言われていること知ってるし。いやいや今そんな話じゃなくて。いや、いやいや。ぐるぐると頭の中に巡る単語が思わず口に出る。

「口紅…」

准のポケットから出てきたもの―深い黒の容器と、手に残る感触とわずかな重みは、間違いなくそれだった。





「迅〜〜〜」
「あーはいはい。今度はどうしたの」

電話一本で自称エリートを呼び出し、私の奢りという名目で焼肉店に連れ込んだ。昼時ともあって店は混雑しているが迅が予約をしてくれていたのであっという間に席につくことができた。迅、偉い、出来る子。冷えたお茶が最初に出てきたので喉を潤した。
私は迅を頻繁に呼び出すけど、いつも来てくれるし、忙しいって口癖は実は嘘なんじゃないかと思ってる。あと、自称エリートってとこも。

「驚かないで聞いてほしいんだけど、准の上着から口紅出てきた」
「ブッ」
「ねぇちょっと汚いよ」
「ごめん。それは名前のじゃないんだよね?」

口元を紙で拭きながら迅は私に尋ねた。そりゃ私のだったら別に迅を呼び出すまでもないじゃん?違うから困ってんの、の意味でため息をつけば、迅もため息をついた。

「…准、浮気してんのかなあ。あんなに可愛い顔してるのに…」
「可愛い顔かどうかはともかく嵐山はそんなことする男じゃないでしょ」
「可愛い顔に決まってるじゃん馬鹿なの?」
「この流れでその話になる?」

噛みきれない謎の肉を食べながら(注文を迅に任せていたので何の肉かわからない、ホルモン?)俺は嵐山を可愛い目で見てないと一蹴された。そうかー、あんなに可愛いのにな、准。
お腹もほどほどに満たされた頃、迅は大丈夫だから帰って話をしろとやたらに頑なで、譲らなかった。それに、私の奢りの約束で焼肉に来たのに、嵐山につけとくからと奢らせてもらえなかった。確か准は午後休みらしいので、もう家にいるかもしれない。帰るのが億劫である。


私達は、准が大学を卒業して同棲を始めた。私は高校卒業と同時にひとり暮らしをし、働き始めていたから准はたまにうちに泊まりに来ていたけど、本格的な同棲になったのはつい数ヶ月前からだ。
そういえばあの口紅、放ったらかしにした洗濯と一緒に置いてきちゃったなあ。
アパートの階段を登ると、角の部屋である我が家の窓のカーテンが開いているのが見えた。もちろん開けたのは私ではないし、家を出たときも開いていなかったのでつまり―私は少しだけ息を呑んで、鍵を回した。

「おかえり」
「た、ただいま」

ドアが開いてすぐに投げかけられる大好きな声。准から言われるおかえりは何度聞いても飽きないな。家に入ると、准はいつも玄関まで出迎えてくれる。これは付き合っていた頃から変わらない、癖みたいなものなんだろう。靴を脱いでスリッパに履き替えると、二人で廊下を歩いてリビングまで移動する。テーブルに鞄を置くと、そのまま崩れるようにして近くのソファーにダイブした。

「迅とご飯行ってたんだってね」
「うん。准はもうご飯食べた?」
「軽くな」
「しっかり食べたほうがいいよ。作ろうか?」
「いや、いい。それよりさ」

おもむろに開かれた准の手を見る。ぎくり。そこには私が今の今まで悩み続けている種があったのだから。目を逸らすようにしてちらりとベランダを見ると、洗濯物が干されている。洗濯をする前に口紅を見つけて逃げ出した私が残した残骸を拾い集めて処理してくれたんだろう。朝から仕事なのに悪いことしたな。
准の手の中で艶めく容器を、改めてまじまじと見る。

「え、と。この口紅、誰の」
「俺の」
「はぁ?」
「だから、俺のだよ」

他の女の名前が出てくるかと思いきや、准のだと言われてしまえばあっという間に頭の中がハテナでいっぱいだった。そんな顔が面白かったのか、准は笑いながら話す。

「ボーダーの企画で女性向けのコスメを作ったらしいんだ。そのCMで使ったんだよ」

ほら、と手渡された口紅をよく見るとJ.Arashiyamaと刻印がある。おしゃれなブランド名の刻印かと思ってた。デパコスのような、私には手を出すのがちょっとハードル高い値段のやつ。

「使ったのは処分するって言うから貰ってきたんだ。名前に似合うと思って」

つけて見せてくれ、と言われたので小走りで洗面台に向かう。ああ、私の馬鹿!准が浮気するなんて1ミリでも考えてしまったことを地球上にいるすべての人間に謝りたい気分だ。
真っ赤な口紅は、准の隊服の色のように深くて、柔らかい。試しに少しだけ口紅を使ってみると、すぐに紅は広がった。保湿効果もあるのか、伸びが良くて唇が潤う。さすがボーダー、稼ぎに来たなと思った。
この口紅をつけたまま准と写真撮って、迅に何でもなかったよって連絡しようか。まずは准に喜んでもらうのが先だけど、と考えながら自らの紅に満足して、口紅の蓋を締めた。ごめん、准、大好き。