君が一人で傷付きませんように
夜が怖くなって、眠れなくなったときには、きっと心が壊れ始めていたんだと思う。一人の家に帰るたびに、寂しくて、虚しくて、なぜ私はここにいるのだろうと問う。一人で暮らすには広い部屋の中、物音がしないのが怖くてテレビやラジオから少しでも音を集め、部屋中の電気をつけて過ごした。眠るのが、怖かった。
そんな中、寝不足による体調不良が相次ぎ病院に行くと、不眠症と診断された。可愛らしい名前の睡眠導入剤を処方され飲むと、私は暫くしてから、すとん、と意識を失うように眠ってしまった。あんなに寝ようとしても、眠れなかったのに、だ。
私はこれが怖かった。眠くないのに、いきなり脳のスイッチをオフにされたかのような気持ち悪い感覚で、気付くと朝になっている。一種のタイムスリップだとさえ思う。「ああ、よく眠った」なんて思えず、体にとっていい休息になっていたのかどうかはわからないけれど、気分がいいものではなかった。だって寝たら、大切な人がいない一日をまた過ごさなくてはいけない。
私は第一次大規模侵攻で両親を失い、第二次大規模侵攻で妹を失った。両親が死んで、たった一人残された家族を守ろうとボーダーに入隊し、がむしゃらに働いて、A級3位の隊のポジションまで登りつめた。第二次大規模侵攻は、そんな私に憧れて、妹が入隊したばかりのときに起きた。「C級隊員」が敵の目的だと聞いて、本当はすぐに妹のもとへ駆けつけたかったが叶わなかった。A級3位の隊にはそれ相応の責任があるのだから。
拐われたC級隊員のリストを見て、妹の名前が乗っていたときに、膝から崩れ落ちた。私は、大切な人を、また守ることができなかった。
あの日から、私は上手く息ができない。
開けっ放しのカーテンが意味を成さず、空が白んできたころ、動かない体を無理やり起こし、任務へ向かう。トリオン体になれば楽に体が動くのだ、本部にさえ行ければ何も問題はないのだけれど、たどり着くまでが億劫だった。いつご飯食べたっけ。洗濯を、掃除を最後にしたのはいつだろう。そんなことをぼんやりと考え、力の入らない体で服に袖を通していく。ここ最近の私は連日遅刻をしていて、風間さんも、菊地原くんも、言わないけれど歌川くんもきっと、私のことを厄介に思っているはずだった。けれど、自分が今どうやって生きているのかさえわからないいっぱいいっぱいの私には、そんなことを考える余裕はない。ごめん、みんな。ごめんなさい。
「名字、いいか?」
任務終わりのことだった。そそくさと隊室を出ようとしていた私に、風間さんが神妙な面持ちで言う。何を言いたいかはわかっていた。この場には菊地原くんも歌川くんも歌歩ちゃんも居て、三人もじっと風間さんの言葉を聞いている。隊室の空気がじっとりと重くて、すぐにでも逃げ出したかった。怖くて、風間さんの目を見ることができずに俯く。
「最近遅刻が続いている原因は、自分でわかっているな?」
「…すみません」
「謝罪を求めているわけじゃない。任務中もそうだ、上の空で連携が上手く出来ていないだろう」
「…はい」
「このままじゃお前を任務に参加させることはできない」
「……っ、はい」
ぐ、と唇を噛み締める。情けない、情けない、情けない。ちゃんとしたいのに、ちゃんとするって何だろう?難しくてわからない。心だけがはらはらと溶けて消えてしまったかのようだ。今ここにいるのは、抜け殻の体だけ。
「ねえ、最近あんた寝れてる?本部入ってすぐトリオン体になってるけど、隈酷いの知ってるよ。心音も荒れてる」
菊地原くんは、いつも人をよく見ている、と思う。トリオン体で隠しても、本当の私までは隠せない。じわ、と冷や汗が滲む私を見て、「心臓うるさい、図星でしょ」と菊地原くんが冷静に告げた。
「体調が悪いなら、休むことも仕事だろう。暫くは任務に参加するな」
「…い、嫌です」
「隊長命令だ」
「駄目なんです、休んじゃ、」
遠く離れた世界に連れて行かれた妹のことを思って、目の前がチカチカする。休んでる暇はない、私は、妹を助けに行くための遠征部隊の一員にならなくては。掴めなかったあの小さくて優しい手を、今度は絶対に離してはいけない。
「ちゃんとします。最近腑抜けていてすみませんでした。お願いだから、辞めさせないで、」
これ以上、私の生きる理由を殺さないで。
「ね、眠れないんです。最近。妹が拐われてから心ばかりが焦ってしまって、病院で不眠症って診断されても、私は立ち止まってはいけなくて、」
言い訳のように言葉がぐらぐらと揺れる。
「こ、これから任務のときは本部に泊まるようにします!そうしたら、遅刻もしないし、いつでも訓練できるし、だから、」
お願い、いらないって言わないで。
風間さんがゆっくりと言葉を紡ぐ。「そうだな、これからは本部にいるといい」。辞めさせられないのか、と顔を上げると風間さんはいつもの涼やかな表情で私を見ていた。少しだけほっとしながら、次に続く言葉は心底私の心を揺さぶった。
「名字が眠れないと言うなら、俺も任務の日は付き合って寝ないでいよう」
「え、でも、それは」
「眠れないときは無理に寝なくてもいい。俺はそれを悪いことだとは思わない」
お前は一人じゃない。一人の想いは、皆で背負うんだ。
からからになった心に、風間さんの言葉が、吸い込まれた。
両親が死んだときも妹が拐われたときも出なかった涙が、ぼろりと両目から溢れた。どくん、どくんと心臓に呼応するかのように内側からこみ上げる感情を抑えきれない。「ちょっと、泣かないでよ」。菊地原くんの声が聞こえたが、一度堰を切ったものを、堪えることができなかった。涙と同時に、言葉もぽろぽろと溢れだす。ああ、もしかしたら私、誰かにずっと聞いて欲しかったのかもしれない。
「こわ、怖くて。夜になると、家に帰ると、両親も、妹もいないのに。明日を過ごすために、ひとりで、今日を生きるのが、辛くて、」
「…」
「妹と、毎日、手を繋いで寝てたんです。どこにも行かないように、私が、この手を繋いで、導くからって。それなのに、私、お姉ちゃんなのに、守れなかった」
「名字さん、」
「薬、飲むと眠れるけど、すごい怖くて、飲まなきゃいけないのに、一人だけ闇に落ちるっていうか、深い沼の底を、光もなく歩いてるような感覚が、気持ち悪くて、」
嗚咽が漏れ、涙が隊室の床を濡らした。ごめんなさい、ごめんなさい。壊れてしまったかのように繰り返し吐き出される言葉を止められない。
崩れ落ちた体を、支えてくれたのは菊地原くんだった。歌川くんは背中を擦り、歌歩ちゃんがハンカチを差し出し、頭を撫でてくれたのは風間さんだ。
「しっかりしてよ。そんなんじゃ妹のこと助けられないでしょ」
「名字さんが泣かなくていいように、俺達がいるんです」
「名字さん、"私達"は強いんですよ、頼ってください」
それぞれの色を持った言葉に、私は肩を震わせる。ごめんなさいがありがとうに変わった頃には涙は乾いていた。ああ、なんて強い人たち。一人の不幸を当たり前に背負おうとする。どうしたら、こんなに強くなれるの。私にもなれるかな。まだ弱虫だけど、ついて行っても、いいのかな。
その日、あれよと言う間に本部に泊まることになり、隊室に5つの布団が並んだ。布団は仮眠室の換えを借りてきたらしい。「面倒くさい」と文句を言いながら布団を引く菊地原くん、諌める歌川くん、それを見て歌歩ちゃんがくすっと笑う。風間さんに指摘されるまで、私は自分が笑っていたのに気付かなかった。消灯すると、少しだけ他愛のない会話をした。睡眠導入剤は必要なくて、皆と居ると不思議と夜が怖くなかった。
せめて、せめて、不幸を背負わせてしまう手前、皆の未来が明るくありますよう。風間さんの「おやすみ」を聞いて、祈るように瞼を閉じた。