僕とあなたの話
※浮気の表現があります。お気をつけて。
18歳のときからアプローチを続けて、20歳目前にして名前さんと付き合えたときは嬉しすぎてラウンジで大騒ぎをしてしまったし、なんなら少し泣いてしまった。本部事務員の高嶺の花の名前さん。俺より5つ歳上だったけど、そんなのは関係なかった。ボーダー内にはライバルも多くて、嵐山さんも名前さんのことを好きだと耳に挟んだ日には失恋確定パーティーが太刀川さんによって開かれたほどだ。
本部事務員との接近は難しい。食堂で名前さんを見かける機会も少なくて、色んな人に根回しをしてもらいながらようやくこぎつけたのだ。わざと書類を提出せずに怒られたり、休憩の時間に会えることを願って本部内を探し回ったりもした。米屋には「軽いストーカーだろ」と引かれてたけど、こうでもしないと認識してもらえなかったと思う。2年があっという間だった。
付き合い始めて、ひとり暮らしの名前さんの部屋に行くことが多くなった。わざと終電がなくなるまで話して家に泊めてもらったりもした。下心はバレてたと思うけど、名前さんと居たかったのだ。何せ、付き合えると思ってもいなかった、彼女は神様のような存在だったから。
休みの日を合わせて少し良いレストランに行ったり、カフェでお互いのことを何時間も話したり、名前さんと付き合って経験することが全て初めてで新鮮だった。大人の女性を感じさせる雰囲気と、いつも綺麗な容姿がそばにあるだけで、俺も大人になった気がして、彼女に似合う人間になろうと努力した。
付き合って一年が経つと大学が忙しくなり、少しずつ名前さんとの時間が取れなくなってきた。これが倦怠期っていうのかな。休みの日はそれぞれの疲れを取るために家で過ごした。付き合った頃のように休みのたびにデートに出かけたり、良いレストランで食事をすることも少なくなったなぁとは思う。
この頃には俺は名前さんの家にほぼ転がり込むような形で生活を共にし、いわゆる半同棲をしていた。このまま同棲が続いて、いつかは結婚するのかななんて、まだ大学生の頭でぼんやり考えたりもした。
そんな折、俺と名前さんは喧嘩をした。些細な喧嘩だった。俺が名前さんの大切にしていたマグカップを割ってしまったのだ。床に散らばる破片を見ながら「新しいの買えばいいか」と言ったのがまずかったらしい。名前さんは今まで見たことのない表情で怒って、その日は口を利いてくれなかった。新しいの買えば、ってそんなに悪いか?モヤモヤした気持ちを抱えながら、セミダブルのベッドで互いに背を向けながら寝た。
この日からすれ違いが始まった。と言っても、名前さんに一方的に避けられるようになった。本部に居ても事務員には元々会おうとしなければ会えないし、連絡を無視されたら家に行っていいかもわからない。家に行ってもそっけない態度を取られるなら、いっそ男友達の家に泊まったほうが楽だった。そうして名前さんの家に行く機会が減り、実家と男友達の家と本部で過ごしながら、気づけば何週間も経っていた。
太刀川さんは頭は悪いけどこういう空気には敏感というか天才的な把握スキルを持っていると思う。「喧嘩したか?合コンいこーぜ。お前いると女ウケいいし」と言われて、普段だったら絶対断ったのに、今の状況が全てどうでもよく思えて二つ返事をした。名前さんの気持ちがわからないのも、俺がこれからどうしたいのかも、全部どうでも良かった。
合コンはそれなりに楽しかった。名前さんみたいな美人はいなかったけど、普通の顔の、まあ普通に明るい女と連絡先を交換した。その後、その子とは大学の同級生ってこともあって顔を合わせる機会が多く、食事をしたり遊びに行ったりした。なんだか名前さんと付き合うよりも気楽でよかった。高嶺の花は高嶺の花だったのか、とそのときから思うようになった。俺にはもったいない人だったと思う。人間は神様とは付き合えない。
夏が終わりかけて秋の匂いがしてくる頃には、俺の隣にいるのが名前さんではなくその子になっていた。名前さんとの喧嘩から何ヶ月も経った。きっと今隣にいる子は、俺との関係の名前を欲しがっているんだろうけど、名前さんとの関係にも名前をつけていなかったので黙っていた。もう連絡を取っていないけど、俺のことなんてどうでも良くなっちゃったかな。わからない。
もうすぐ公平の誕生日だね、とその子が言って、ああもうそんな時期になったのかと気づいた。隣にいる人が違うなんて、そんなこと考えても見なかったな。名前さんとずっと過ごしていくんだと思っていたから。
いつものようにデートの終わり、その子との別れ際のことだ。電車で帰る俺と、ホームの前で見送るその子の構図は今回も崩れない、はずだった。
改札の前、よく知っている人が立っていた。何ヶ月ぶりかに見るその姿は、少し痩せてしまったようだった。彼女は俺を見つけると、ゆっくりと歩いてきて、立ち止まる。
「お願い、公平くんを、取らないで」
か細い声だった。けれど、駅の喧騒の中でも、きっとこの声は俺と隣にいる子には聞こえていた。
名前さんが泣いていた。はらはらと目から涙を零し、震える手で俺の服の裾を握っていた。初めて見る彼女の涙だった。素直に動揺した。名前さんは神様みたいな存在だったから。神様なんだから、泣くなよ。そんな顔しちゃだめだろ。
「何この女、知り合い?」と表情を変える隣の子にごめんとだけ伝えると、名前さんの手を握って改札をくぐった。後ろから言葉が投げかけられたけど、気にしている場合じゃなかった。
名前さんの家の方面の電車に飛び乗って、名前さんちにつくまで、俺達は一言も話さなかった。いつもなら煩いと感じてしまう電車の音が、二人の間で音が止まってしまったかのようにやけに静かだった。
家について鍵を回しドアを開けると、俺が出ていって何ヶ月も経つのに、変わらない雰囲気がそこにはあった。畳まれた洗濯物も、俺が忘れていった腕時計も、位置を変えずに存在していた。
二人で暮らしていたあの時間のように、ソファーに座ると、名前さんが口を開いた。最初は、あのマグカップが、どんなに大切だったかわかってほしかっただけなの、と。名前さんは静かに泣いていた。
「付き合う前に、公平くんが、私にくれた誕生日プレゼントだったから。嬉しくて、ずっと使ってたのに、公平くんは忘れちゃったのかなって思ったら、悲しくて、思い出してほしかっただけなの」
ああ、馬鹿は俺だ。彼女は、神様でも何でもなかった。悲しくて泣いて、思い出にすがる、ただの人間だ。俺が、彼女だけが大人で、高嶺の花で、神様だと思っていたんだ。
「この部屋も、公平くんが来てくれなくなって、全部なかったことにしちゃおうかと思ったの。でも、モノを片付けるたびに、ひとつひとつ楽しいことを思い出してしまって、駄目だった」
彼女をちゃんと見ていなかったのは俺だ。良いレストランも、デートも、きっと名前さんが喜んでくれるだろうなって背伸びしてたんだ。思い出せば、忙しくてすれ違うことが多くなっても、スーパーで値引き品を見つけて喜んだり、テレビを見ながらおかしいと笑ったり、そういうのが幸せだったんだよな。そういうので笑ってくれる人だったんだよな。ただ隣にいてくれるだけでよかったんだよ。だから、泣かないで、名前さん。俺が悪かったんだ。
名前さんが泣きやんだら、二人でコンビニにでも行こう。お菓子をカゴいっぱいに買って、持ちきれないよって笑いながら帰ってきて、適当にご飯を作って、食べて、二人でお風呂に入って、今度はちゃんと向かい合って寝よう。あの背を向けて寝た日から止まったままの時間を、二人で動かそう。ごめんね、それくらいしかできないけど、俺は名前さんが大切だって、人間のあなたに知ってほしいんだ。