水龍イベとユーハン

「お帰りなさい、ユーハン」
「ただいま帰りました。主様たちも既にお戻りのようですね」

 間に合いませんでした、とやわく微笑むユーハンをざっと見るが、目立つ怪我や不調はなさそうだった。無意識のうちに詰まっていた息をそっとはき出した。

「お疲れ様でした。……無事で良かった、心配していたんです」

 悪魔執事への依頼は様々だが、単独でかつ危険を伴うものになることはさほど多くない。執事たちのなかでもしっかりしているし、元少佐という経歴もあるので大丈夫だとは思っていたが、それでも、一人かつ東の大地での依頼など、大変なことも多かっただろう。特にユーハンはこちらに来た事情のこともあったから、いつも以上に気を揉む主様と二人で心配だ、早く戻ってこないか、と何度も話していたから。

「一先ずべリアンへ報告を。主様は……先ほどお帰りになられたのでしばらくいらっしゃらないかもしれません」
「あらら。タイミングが合いませんでしたね」
「ふふ、ずっとユーハンを心配していましたよ。それから、ハナマルも」
「ハナマルさんが?」
「ええ。なんでも渡すものがあるとか」

 ハナマルの名を聞いた途端、怪訝そうになったユーハンについ口元が緩んでしまう。こちらの表情に気付き、さらに訝しげになる視線に慌ててキュッと引き締めた。あれは、わたしから明かすべきものではない。
 シャンロンでの出来事を語ってくれた主様は勿論だが、ハナマルは何度も「まだ帰ってこないのかねえ」と呟いていたし、バスティンやナック、ラトまでもがユーハンの帰りを待っていた。彼らが戻ってきたときにみせてくれた『ユーハンに渡すもの』。それを早く渡したくてソワソワしてしまう気持ちは、なんとなくわかるので。

「ロノもシャンロンの料理についていろいろと聞いてからずっとソワソワしているんです。きっとユーハンに食べさせたくて準備してると思うので顔を出してあげてください」
「わかりました」

 そう返答するもとくに動こうとしないユーハンに、おやと首をかしげる。まだ何かあっただろうか。わたしには特に心当たりがないのだけれど。

「……お疲れでしょうし、服は出しておいてくれれば後でフルーレまで回しておきますから」
「はい。ありがとうございます」
「…………。ええと?」

 にこり。微笑まれても困ってしまう。何かを待っている、もしくは期待している……ということまではわかるのだが、どうやら希望を満たせてはいないらしい。
 依頼から帰ってきたばかりの人をこれ以上玄関で立ち話させ続けるわけにもいかず、素直に両手を上げた。降参である。

「……ごめんなさい、これ以上心当たりがなくて」

 なにか忘れているなら教えてほしい。あと疲れているのだからできれば早めに休んでほしい。そう告げれば、ユーハンは綺麗な微笑みをさらに深めてくつくつと笑い出すものだから、今度はわたしが怪訝な顔になるしかなかった。

「……もしかして、からかってます?」
「フフッ。……いえ、申し訳ありません。依頼中はやはり気を張っていたので……戻ってきて真っ先にナマエさんとお会いできて少々浮かれてしまったようです」
「はい?」
「主様がいらっしゃらないのは残念ですが……こうしてナマエさんと二人きりでお話できる機会などなかなかないものですから。素敵な方に出迎えていただいたうえに気にかけていただけるなんて、頑張った甲斐があったというものです」

 その言葉は主様に言うべきものではないだろうか。そんな気持ちが表情に出ていたのか、「ナマエさんと、お話したかったのです」と追い打ちが入りぐっ……と喉が詰まる。ニコニコと美しく微笑みながら見つめられているものだから、だんだんと顔に熱が集まってくるのが止められない。アモンやルカスのように普段から冗談を言うわけでなく、真面目な……特にこの屋敷で執事になってからというものより真面目さに拍車がかかったようなユーハンに言われるのは、なんというか、こう、威力が高い。

「おや……照れてくださってます?」
「ま、まぁ……どうしたんですかいきなり」
「いきなりではありませんよ。ナマエさんは主様と一緒に居ることが多いですし、それ以外でも他の方々と話していることが多いので。私もお近づきになりたいと思っていたんです」
「は、え、」
「フフ、照れた顔も素敵でいらっしゃる。そんなお顔が見られるならもっと早くお話していなかったことが悔やまれますね」
「なにを、」

 なにを言っているのかと窘めるための言葉は喉の奥で引っかかって出てこないし、突然の出来事に思考が追い付かない。ユーハンってもうちょっと距離感なかったっけ、どうしてこうなった。

「これからは、ぜひ私とも一緒に居てくだださいますか。」

それでは報告に行ってきますね、とまた涼やかに微笑んで颯爽と立ち去る姿を見送るしかできなかった。彼の姿が視界から消えてしばらく、漸くずるずるとしゃがみこむ。手で顔を覆ったところで顔の熱さを実感するだけだし、視界を遮断しても先ほどの笑みが瞼の裏から離れない。
しばらく誰も通りかからないことを祈りながら、意味を成さない声を出すことしかできなかった。