翡翠の檻
千姫の邸に滞在して早五日。
なまえは毎日千姫に連れられ、京のいたる名所を訪れていた。今日も千姫が贔屓にしているという呉服屋に連れて行かれ、あれよあれよと言う間に着物を新調されてしまった。千姫が贔屓にしているだけにとても高価な着物だ。なまえはとてもじゃないが、そのような上等な着物は支払うことができないと千姫に告げたのだが、そこでなまえは驚くべき返答を返された。
なんとこの着物は風間からの贈りものだというのだ。
何故頭領が着物を…と問うも千姫は、可愛らしく微笑んだだけでその問いには答えてくれなかった。
そして現在なまえは夜の蚊帳が下り、静まり返っている邸の縁側で月を眺めていた。夏の終わり、秋を知らせるしっとりと冷たい風が彼女の髪をすり抜けていく。なまえはすこし肌寒いと感じたが、心静まるこの場所から動こうとはしなかった。
ふと思い立ったかのようになまえはひらりと庭に降りた。そしてゆっくりと庭園の一角にある小さな池に近寄った。
美しく手入れされたその池には数匹の鯉が優雅に水中を泳いでいた。
しばらくその鯉を眺めていたなまえだったが、背後にある気配を感じ、迷った後に口を開いた。
「いかがなされましたか、頭領」
振り向くとそこには縁側の柱に背を預ける風間の姿があった。
なまえは着物の裾を正しながら立ち上がる。
「なにか御用でしょうか」
「用がなければお前に近寄ってはいけないのか」
月光が降り注ぐ静かなその場所に相応しくない表情を浮かべる風間になまえは、いいえ、と首を振った。
「お前は俺のことを避け続けているな。あの夜以来」
「…………」
「それに加え、必要以上に俺と接点を持たないようにしているようだな」
なまえは風間の心情を読みとろうと試みた。しかし、その試みは風間の鋭い緋色の瞳によって拒まれた。本当に侮れない男だ。
風間は黙ったまま口を開かないなまえをジッと見据えたまま、しばらく口を閉ざした。
そして数拍おいた後にゆっくりと彼女の元へ歩み寄った。
「今回は逃げないのだな」
「…今の貴方にそのような気はないでしょう?」
「…、お前のその洞察力には感服するな」
なまえの隣に立った風間は自分を見上げてくる彼女にフッと口角を緩めた。
「こんな夜更けに何をしていた」
「…なにも。ただ眠れなかっただけです」
そう告げるとなまえは再び池を覗き込むように膝を折った。風間は彼女のその様子を黙って見届ける。
――二人の間に会話はない。しかし不思議とその時間は苦痛なものではなかった。
風間はやけに小さく見えるなまえの背にひどく哀愁を感じ、手をのばそうとした。しかし、その手は彼女が振り返ったことで行き場を失ってしまった。しかしその心を覚られたくなかった風間は行き場を失くした手をそっと己の刀へと落ち着かせた。
「そんなにそれは珍しいか」
「そういうわけではありません。ただとても窮屈そうに見えたので」
「窮屈だと?」
風間はなまえの思いがけない言葉に眉を顰めた。こんなにも自由に水中を泳いでいる鯉達のどこが窮屈だというのか。風間は彼女の言葉の真意が理解できなかった。
「窮屈だと思いませんか。この子たちは自由に泳いでいるように見えて、決してこの囲いから逃れることはできない」
――まるで、私のように。
なまえはその言葉こそ口にすることなく飲みこんだが、自身に待ち構える運命を思い、瞳を伏せた。
どう足掻こうとあの男から逃げきることはできない。あの男が生きている限り、なまえは「自由」になることは許されないのだ。
「この子達は短い生涯をこの囲いの中で送っていくのです。そう考えると、とても切なくなります」
「…妙なことを言う」
「貴方には弱者の気持ちなど理解し難いものかもしれませんね」
なまえの言い草に風間は少しばかり苛立ちを覚えたが、それを咎めることはしなかった。否、できなかったのだ。
――あまりにもなまえの後姿が儚いものだったから。
「…お前は」
「はい」
「なにを考えている」
風間はなまえが理解できなかった。
西の里になまえを保護して以来、ずっと彼女についての情報を集めようと手を打った。彼女が暮らしていたという東の地に不知火を遣わせたこともある。しかし、なにひとつ、なまえに関する情報は手に入らなかったのだ。
風間の微かに怒気を含んだ声音に気付くとなまえはスッと立ち上がった。そして、彼に向き合うと曇りがない瞳を彼に向けた。
「貴方が考えていらっしゃるようなことはなにひとつ考えていませんよ」
「………」
「ただ、この平穏な毎日が続くよう、願っているだけです」
月光に照らされた彼女はとても美しいものだった。
なまえは風間の返答を待つことなく、彼に挨拶を告げるとその隣を通り過ぎた。
――残された風間はただジッと彼女が見つめていた鯉達を見据えていた。そして彼女を
照らしていた月を見上げるとその姿を夜の闇へと消した。