ねがいのいと


千姫の邸から西の里へ戻った明くる日の早朝。なまえは里の外れにある燦や同胞達の墓に参るために静かに風間の邸から抜け出した。朝焼けに包まれた里はどこか幻想的だ。
秋の冷え込みに身を縮ませていると背後に気配を感じ、彼女は素早く振り返った。


「どちらへ行かれるのですか、なまえ」

「天霧様…」


姿を現したのは風間の家臣の一人である天霧でだった。なまえは「敵」でなかったことに安堵したが、同時に自分の失態を悔いた。まだまだ早朝で人気もないだろうと油断していたため、天霧の気配に気が付かなかった。
いつもの彼女ならば、このようなことは有り得ないことだ。西の里に保護されてから、なまえは常に周囲の気配に敏感であったのだから。


「こんな早朝に何用ですか?」

「外の空気を吸いに来ただけですよ」

「ならばその花はどうされるのです」


墓に供えるはずであった花を目聡く見つけた天霧は彼女に問う。なまえはどうにかこの場をやり過ごす手段はないかと思考を巡らせる。
しかし天霧の曇りのない瞳を前に下手な嘘は意味がないとすぐに悟った。


「…里の外れにお墓を作ったのです。しばらく留守にしていましたから、お参りに行こうかと」

「そうでしたか」

「ごめんなさい。隠すような真似をして」

「いいえ。…もしよろしかったら、ご一緒しても?」


天霧の思いがけない言葉になまえは驚いた。しかしすぐに天霧の優しい表情に小さく頷いた。




数日ぶりに訪れたそこになまえは僅かに頬を綻ばせた。膝を折ったなまえは優しく墓石を撫で、やわらかく瞳を細める。持参した花を手向ける彼女に続いて、天霧も自宅の庭で摘んだ花を同じく墓に手向けた。


「ありがとうございます」


墓に手をあわせていたなまえがぽつりと呟いた。天霧はその声に導かれるように彼女を見やる。


「きっと喜んでいると思います」

「いいえ。…なまえ、差支えなければ教えていただいきたいのですが、ここに眠っておられる方は…」


その問いになまえは一度天霧を見た後、スッと瞳を閉じた。
――ここには、なにもない。燦も同胞達もここには眠ってはいない。彼等が眠っているのは遠く離れた北の地だ。本当はすぐにでも北の地へ赴き、燦達を葬ってやりたかった。しかしなまえにはその北の地に赴くことができなかった。

天霧は瞳を閉ざしてしまったなまえの姿に心を痛めた。どこか儚げなその背中を見ていられずに優しく彼女の背に手をやった。


「…とても大切な方でした」

「…風間から聞いております。なまえにはとても大切な方がいらっしゃったと」


ほろりとなまえの頬から涙が一筋伝った。彼女が天霧達の前で涙を見せることはこれが初めてだった。なまえはいつも気丈に振る舞っていたからだ。


「なまえ、私は貴方がとても心配でした」

「心配…?」

「はい。貴方は私達の前では決して涙を見せなかったからです」


愛する人も何もかもを奪われた惨劇の夜からなまえは一人で待ち受ける運命と戦い続けてきた。「強くあれ」という父の言葉、そして「生き抜け」という燦の言葉を胸に不安な毎日を送ってきたのだ。
その不安な気持ちを抱くなまえに天霧は気付いていた。


「泣いていいのです。貴方は一人じゃない」

「…っ、私は…」

「私も不知火も千姫様も…、そして風間も貴方のことが心配で仕方がないのです」

「頭領も…?」


涙を溜めた瞳で見上げてきたなまえに天霧は優しく微笑んで、頷いた。


「なまえに大切な人がいると私に言ったのは風間です。風間は京で貴方と出掛けた日からずっと貴方のことを気にかけているのですよ」


涙で濡れるなまえの頬を天霧は懐から取り出した手拭で拭ってやった。そうして涙を拭ってやると今度は自分の言葉に僅かに動揺している彼女を落ち着かせるかのようにその頭を撫でてやった。


「貴方は風間のことをよく思っておられないみたいですね」

「いえ…そんなこと…」

「いいのです、今はそうであっても。しかし私はもっと風間のことを貴方に知ってほしい」


――思い返せば、風間のことを知ろうとしたことがあっただろうか。
交わってはいけない、巻き込んではいけない。その考えが先行してしまっていて、風間という男を知ろうとしていなかった。


「もう少し、風間に心を開いてやってほしいのです。あの男は決して貴方を裏切ったりしない」


そう告げた天霧は再びなまえにやさしく微笑みかけた。