安寧
天霧の本音を聞いて以来、なまえは風間のことを知ろうとするようになった。
そして知ったことがある。
まず一つ。風間は意外と子供のような一面があるということである。喜怒哀楽の感情表現がはっきりとしているのだ。といっても、大抵、仏頂面なのではあるが…。しかしなまえは僅かな風間の感情の変化を読みとることに成功して以来、ひそかに風間を観察し続けていた。
二つ。使命感が非常に強いということ。西の里の頭領、否、事実上、本土の鬼達の頂点に君臨している彼は常日頃、同胞達のことを気にかけているようであった。彼なりに同胞達を守っているのだ。
最後に三つ。風間は厳しさ中に優しさを持ち合わせている男だということ。傲慢で仕方のない男だとばかり思っていたなまえは、彼のそのような一面にとても驚いた。
――なまえは少しずつ、風間千景という男を理解し始めていた。
夜も更けた時刻。なまえは明日の朝餉の下ごしらえを済ませ、与えられた私室に戻ろうと縁側を歩いていた。見上げた紺の空には大きな月がぽっかりと浮かんでいる。
ふと先を見やるとそこに一人の男の姿があることに気が付いた。
その男は縁側に腰を下ろし、見事な満月を肴に酒を嗜んでいるようだ。
「頭領。そのような格好でおられましたら、風邪を引かれてしまいます」
「この俺が風邪なんぞ引くものか」
猪口を片手に振り返った風間は不満げに眉を下げるなまえを見やるといつもの如く傲慢な口調でそう答えた。これまでのなまえならば、風間を見かけても声をかけるようなことはせず、むしろ気配を消していたことだろう。しかしなまえはそうしなかった。
なまえは尚も酒を煽る風間の隣に腰を据えるとまだまだ酒が残っている徳利を手にとった。
「ほぅ。珍しいこともあるのだな」
「不要ならば、部屋に戻りますが」
「誰もそのようなことは言っていないだろう。酌をしろ」
とても穏やかな時間が二人の間に流れる。鈴虫たちの鳴き声に耳を傾けながら、秋の訪れを感じる。すぐに冬がやってくることだろう。
夜の冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
なまえが僅かに肩をすくめる。するとそれに気付いた風間が黙って自分が羽織っていた羽織りを彼女の肩にかけた。
「いけません、これは頭領が」
「黙って羽織っておけ」
「しかし…」
「命令だ」
慌てて羽織りを返そうとするなまえにそう告げると風間は酒を催促した。なまえは納得いかないと眉を下げていたが、直に諦め、自分の方へ差しだされた猪口に酒を注いだ。
「里の暮らしには慣れたか」
「はい。皆様にとても良くしていただいております」
本当に里の者達はなまえによくしてくれていた。里の者達は数少ない同胞が見つかったことを喜び、彼女を歓迎したのだ。
――そしていつしか、なまえは西の里が好きだと感じるようになっていた。それは自分の故郷に抱くそれと同じ感情であった。
庭園に設けられている池にひらりと落ち葉が落ちる。
なまえは夜風に吹かれて波打つその水面を見つめていたが、隣から視線を感じ、そちらを見やった。
「どうかなされましたか」
その視線は他でもない、風間のものだった。
闇夜を照らす月光に浮かぶ風間の緋色の瞳はとても美しい。なまえはそう素直に思った。
「お前が、俺の目を見たのはこれが初めてだな」
「…、そうかもしれません。私は貴方の瞳を恐れていましたから」
「恐れるだと」
風間が訝しげに眉を顰める様子に、頭領の瞳はなにもかもを見透かしてしまいそうだと、なまえは困ったように笑った。
それきり、二人の会話は途切れてしまった。風間は注がれる酒を煽り、なまえは風間の持つ猪口が空になるのを待って、酒を注いだ。
そして徳利の中身が無くなる頃になまえは静かに口を開いた。
「頭領は里を守る覚悟をお持ちですか」
――なまえの風間への問いは、過去の自分への問いかけでもあった。
――ずっと平穏が続くと思っていた。ずっと北の地で、愛すべき人、そして同胞達と暮らしていくのだと、そう思っていた。しかしその平穏は呆気なく奪い去られてしまったのだ。
彼女からの思いがけない問いに風間は酒を仰ぐ手を止めた。
「頭領、私はこの里が好きです。だから…」
だから、もう失いたくない。
そう告げようとしたが、なまえは故郷を思い出し、言葉を詰まらせた。
「…申し訳ございません。今のことは…」
「俺はこの里を決して絶やすことはせん」
ぽたりと徳利を持つなまえの手に涙が落ちた。月光に照らされた彼女の細い手に形容しがたい不安を感じた風間はその手をとり、自分の方へと引き寄せた。
「なまえ」
頭上から降ってきた声はとても優しいものだった。その声音に強張っていた心が解れていくと同時に初めて風間に名前を呼ばれたことになまえは気が付いた。
恐る恐る風間を見上げる。するとそこには、出会ったあの日から変わらない意志の強い瞳が彼女を見つめていた。
「俺のことは頭領と呼ばず、名で呼べ」
涙の残滓を風間が優しく拭ってやる。なまえはその指先を甘受し、次は自ら風間の手をそっととった。
「かしこまりました。千景様」
眦を下げるなまえの瞳にもう涙はなかった。