まどろみ
山々が鮮やかな赤に染まる季節も過ぎ去り、この西の里にもすぐそばまで冬がやってきている。
庭先で洗濯を干していたなまえは吹き抜ける冷たい風に少しばかり肩をすくめた。彼女の長い漆黒の髪を冬の風が撫でる。その風に揺れる髪飾りにそっと手をやるとなまえは厚い雲がかかる空を見上げた。
この西の里でなまえはおだやかな日々を送っていた。このまま何事もなく静かに時が過ぎていくことを願わずにはいられないほどに。
「なまえ」
低い声音がなまえの名を呼ぶ。その声のほうを見やるとそこにはこの里の頭領である風間の姿があった。
風間は数日前から千姫の呼び出しで京に上っていた。屋敷の留守を預かっていたなまえは頭領の無事の帰りにほっと胸をなでおろした。
「おかえりなさいませ。予定よりも早いお戻りでしたね」
「まったくあの小娘は小うるさくてかなわん」
「千姫様は面倒見がいい方ですから、千景様のことが色々と心配なんですよ」
「ふん。余計な世話だ」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた風間は縁側に腰を下ろした。その様子になまえは苦笑いも浮かべたが、それと同時に風間のまとう雰囲気がいつもと違うことに気付いた。
京でなにかあったのだろうか。
彼女は最後の手拭いを干し終えると風間の隣へ腰を下ろした。
「京でなにかありましたか」
予想もしていなかったなまえの問いに風間は彼女を見やった。
「なぜそう思う」
「千景様のまとわれている雰囲気がいつもと違いましたので」
彼女の答えに「さすがだな」と風間は感嘆の声を漏らした。
なまえの洞察力は風間も感心するほどのものだった。些細な変化も消して彼女は見逃さない。
彼女に隠し事をするだけ無駄だということを理解している風間はその重たい口を開いた。
「…京に住まう同胞が襲撃を受けたそうだ」
――なまえは目の前が真っ暗になった。
早鐘を打つように心臓は脈打ち、指先が震え始める。呼吸をすることすらも忘れてしまうほどの衝撃になまえはきゅっと唇をかみしめた。
「何者の仕業かはまだわからぬ。だが人間の仕業ではないことは確かだ」
「なにか手がかりが?」
「襲撃された者が絶命間際に告げたそうだ」
――東にも西にも属さない鬼、奴らは我らの脅威になる――
なまえは己に待ち受ける運命の重さに目を伏せた。はやく風間の言葉に答えなければならないのだが、その言葉が見つからない。否、見つけることができなかった。
東にも西にも属さない鬼。それはおそらく最もなまえが恐れている男、絶威のことだろうと彼女はすぐに理解した。奴は少しずつ、しかし確実になまえを追い詰めていたのだ。
「今後里の者たちが人里へ降りることは禁ずる。無論、お前もだ」
「千景様は、」
「俺も暫く里に留まることになろう」
風間の表情はいつになく険しく、事態は深刻な状況なのだろう。
なまえは自分のせいで同胞が命を奪われてしまったという事実に胸が張り裂けそうだった。奴らの狙いは自分だとここで風間に告げれば、彼はどうするだろうか。
いっそのことすべてを告白してしまおうか。
しかしここでその事実を告げてしまえば、里が、一族が、大混乱に陥るだろう。そして彼らはきっと総本家が姫であるなまえを守ろうと命を懸けて戦うだろう。そうすればたくさんの同胞が血を流し、命を落とすことになる。
――同胞のことはこの命にかえてでも守りたい。けれど、今の私には同胞を守りきることができない。
なまえは己の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「千景様もお気をつけて…」
「案ずるな。直に事態は終息させる」
風間は強い。頭領としてきっと彼は里の者たちを守ってくれるだろう。
そうなまえは自分に言い聞かせた。
しかし、そこでようやくなまえは千鶴の存在を思い出し、はっと顔を上げた。
千鶴の身に危険が及ぶ。おそやく絶威はなまえを探し出すと同時に千鶴のことも探し出すだろう。そして東の雪村の最後の生き残りである彼女を…―
「千景様、千鶴様は…!」
「すでに千姫が使者を出している。土方と共に京へ上ることになるだろう」
「よかった…」
しばらくは千姫の邸に身を置くことになるのだろう。それならば安心だ。土方も風間に劣らず強いが、相手が絶威となれば一筋縄ではいかない。
――絶威。あなただけは必ずこの手で。
風間がなまえを見やる。その横顔はとても美しかった。