あたたかな月光


その晩、なまえは微かな胸騒ぎを感じていた。風間から与えられた部屋の障子を開け、月の光が差し込む外をじっと睨んだ。なにかが、すぐ傍まで近づいていている。じっとりと蛇に絡みつかれたかのように体が重く、また、息苦しい。
浅く息を吐くとなまえは自分の心を落ち着かせようと努めた。


「なまえ、入るぞ」

「どうなさいましたか。こんな夜更けに珍しいですね」

「やはりまだ起きていたのか」


風間はこちらを振り返りもせずに外を見つめるなまえの姿にどこか違和感を覚えた。彼女の纏う空気がいつものものではなかったのだ。
後ろ手に襖を閉め、足早になまえの元へと向かう。


「なにを考えている」

「…あなたと同じことですよ」


ようやく自分を映したなまえのそれに風間は一瞬息を止めた。射貫くかのような強い意志を持った、しかし、どこか悲哀を含んだその瞳。
なにもかもを見透かしたかのようななまえの返答に風間は彼女と同じように外を見やった。


「なにかが、動いている」


重たい口を開いた風間から出た言葉になまえは目を伏せた。

「なにか」が動いている。「誰か」を探すかのように「なにか」が確実にこちらに向かって近づいてきているのだ。なまえが、その「なにか」の正体に気付かないはずがない。

――絶威の気配が確実にそこまでやってきていた。


「明日京へ上る。なまえ、お前も連れていく」

「いいえ、私は…」

「これは命令だ」


風間は語気を強めた。緋色の瞳にとらえられたなまえは思わず口を噤んだ。さすがは西の統領というべきだろう。これ以上は何も言わせまいとばかりに、纏う雰囲気を圧倒的なものへと変えた。

二人の間に静寂が訪れる。夜の冷たい風がまるで宥めるかのように二人の間を吹き抜けた。


「私も連れてくるよう千姫様が?」

「なぜ俺が奴の命令に従わねばならない。これは俺の意思だ」


なまえは風間の返答に返す言葉が見つからなかった。それは風間となまえの関係性が以前のものより変化しているからだった。
自身から逃げるかのように視線を逸らしたなまえに風間はどこか寂しさを覚えた。

ふと彼女の傍らに月光を浴びながら横たわる太刀を見やる。なまえがその太刀を抜刀している姿を風間が目にしたことはない。しかし彼女のことだ。恐らく自身が不在の間に里になにかがあれば、その太刀を抜刀し、里のために戦うだろう。

――もし、自分の手の届かないところでなまえを失ってしまったら。

気が付けば風間はなまえを抱きしめていた。


「千景様…?」


予想もしなかった風間の行動になまえはひどく驚いた様子だった。
しかし、その腕を振り払うことはしなかった。


「どこにもいくな」

「突然なにを…」

「いつか俺の前から消えてしまう気がしてならんのだ」


西の国の頭領とは思えない弱々しい声音だった。頬を掠める黄金の髪はなまえの愛した燦のものではない。しかしなまえはこみ上げる涙を堪えるのに必死だった。

どこにもいかない。

そう風間に告げることは許されないとわかっていたからだ。


「なにを仰いますか。そのようなことを千景様が仰るなんてどうされたのです」

「誤魔化すことは許さぬぞ」

「誤魔化すだなんて…。いらぬ心配だと言っているのですよ」


やんわりと風間の肩を押して距離をとると、そっと彼の顔を覗き込んだ。眉根に皺を寄せ訝しげな表情を浮かべる風間の頬になまえは手を重ねる。


「約束しろ」

「約束ですか」

「そうだ。俺の前から消えることは許さん」


頬に添えられたなまえの手を風間は自身の大きな手で包み込むかのよう取った。二人の体温が溶け合う。それはとてもあたたかく、やさしいものだった。

なまえが僅かに眉を下げる。そして数拍おいた後に風間の手を自身の頬に添えると困ったかのように頬を緩めた。


「千景様は困った方ですね」


それが今の彼女ができる精一杯の返答だった。