偽りの掌
――なまえは己が置かれている状況を務めて冷静に理解しようした。
惨劇の夜を超えて、なまえが辿り着いた場所は彼女自身決して足を踏み入れてはいけないと決めていた西の里であった。知らず知らずの間に北の地からこのような土地にまで逃げて来てしまっていたようである。
ちらりと手当てが施された自分の体を見やる。傷はすっかり治っているようだ。総本家の鬼の治癒能力は、普通の鬼よりもずっと優れているのでそのおかげもあってだろう。
「…どうしたの?まだどこか痛む?」
黙りこくってしまったなまえを心配して、千姫が彼女の顔を覗き込んだ。突然のことですっかり驚いてしまったなまえは肩を跳ねさせた。
「え…っ、いや、平気です」
「そう?無理しなくてもいいのよ?」
「はい、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
千姫の心遣いに動揺を隠しきれないでいたなまえの表情が少し綻んだ。その表情を見て、安心したのか、千姫もまた大きく頷いた。
しかし問題は何一つ解決していないとなまえはまた顔を僅かに下げた。自分の正体を彼女らに伝えるべきか、否か。まさか関ヶ原の合戦で滅んだとされる総本家が生きていたことを知ったら、目の前の彼らを含む本土に住まう鬼達に凄まじい衝撃を与えてしまうことになるだろう。
それだけじゃない。最悪の場合、今回の騒動に彼らを巻き込んでしまいかねない。
「同胞」を巻き込むわけにはいかない。
――総本家の娘として、「同胞」は守らなければいけないのだ。
「この度はお助けいただき、ありがとうございました」
「いいえ、気になさらず。大切な同胞を見捨てるわけにはいきません」
一先ず、助けてもらった礼をと姿勢を正して頭を下げると千姫の後方で控えていた天霧が柔らかい口調で彼女にそう言った。
やさしい眼差しで自分を見やる天霧に再度礼を言うと、そのまま天霧の隣で口を結ぶ男を見やった。
美しい金の髪に燃えるような緋色を灯す双眼をもつ男。
どこか威厳を漂わせるその男となまえの視線が交わる。その男はしばらくなまえを睨みつけ、その視線を外さなかった。
「ちょっと、あんた!彼女が怯えちゃうでしょ!」
「…なにもしておらん」
「思いっきり睨んでたのでしょうが!まったく…」
千姫の一言で、ようやくその男の眼から解放された時にはなまえの背にはしっとりと汗が滲んでいた。
張りつめていた気持ちを緩めるようになまえはひっそりと息を吐いた。そして同時に思ったのだ。
――彼はとても強い、と。
「さて、と…。早速で悪いんだけどあなたのことを教えてくれる?」
千姫の優しい瞳がなまえを写す。なまえは決して心の内を悟られぬよう、慎重に口を開いた。
「はい。申し遅れました。私はなまえと申します」
「なまえ、ね。なまえ、あなたはどこから来たの?」
「私は東の地より参りました」
なまえは怪しまれることがないよう言葉を紡いでいった。
東の地で一人で生きていたこと、人間に襲撃され、この西の里まで逃げてきたこと。
千姫達は、そんな彼女の言葉に耳を傾け、彼女がここに行き着いた経緯を事細かに聞き出した。
なまえが話していることがすべて「嘘」だということには誰も気が付かなかった。
「そうだったの…。辛い思いをしたのね…」
「幕末の動乱を終えても尚そのような蛮行を…」
「これだから人間は好かねぇんだよ」
人間は哀れだと嘆く彼等の言葉になまえの心が痛んだ。自分の作り上げた話で人間が悪者にされてしまったからである。
実際になまえの先祖も人間をよく思っていなかった。絶えず争いを起こし、自らの手を血に染める彼らを嘆いたいたのである。鬼と人間が共存していた頃、人間は合戦の度に総本家に力を貸せと要求した。本来、争いを好まない総本家はその要求がなされる度に心を痛めていた。そして、ついに関ヶ原合戦を機に鬼の一族を二つに分け、自らの存在を葬ったのだ。東に雪村、西に風間。その両家にすべてを託して。
しかし時を超え、なまえは父から人間は情に厚く、あたたかい生き物だということを教えられた。実際に人里に下り、その姿を目の当りにしたこともある。
――なまえは人間が好きだった。
「もう大丈夫よ。風間が収めるこの里なら、そのようなことは二度と起きないわ」
「…風間様、というのは」
風間。それはなまえの先祖が関ヶ原合戦に向かう前に西においた風間家のことだろう。
なまえは自分の予想を確かなものにするべく、千姫にそう問いかけた。
「ほら、あそこにいる目つきの悪い男よ。あいつがこの里を治める頭領なの」
千姫が指差す方を見やれば、なまえの予想通りそこには金の髪を持つ男の姿があった。男はあからさまに眉を顰めるとすぐに千姫から視線を外した。
なまえは西の頭領である風間千景を今一度じっと見据えた。さすが頭領と言うべきか。風間が纏うその独特の雰囲気を感じ、なまえは微かに目を細めた。
すると今まで黙っていた風間がようやくその口を開いた。
「さっさと本題を聞き出せ」
「ちょっと…。物事には順序っていうものが」
「回りくどい聞き出し方をするな」
風間がなまえを見やる。なまえは息が詰まるような感覚に襲われながらも、千姫に本題とは何かと問うた。
「…こんなことあなたに聞きたくないんだけど…」
「はい」
「…あなたは純血の女鬼かしら?それとも混血?」
――鬼の一族にとって、女鬼の存在は極めて貴重である。それが純血なら尚更だ。
西の鬼達の頂点に立つ風間が世継ぎのために純血の女鬼を探し続けているということはすぐに理解できた。一族の安泰のためだ。当然のことだろう。
しかし、なまえは千姫の問いに頷くことはできなかった。
「――いいえ。残念ですが、私の母は人間です」
勿論、その答えは嘘だった。しかしなまえがこのような嘘を吐くのには当然意味があった。
――なまえは子供を成さないつもりなのだ。もう二度と今回総本家を襲った悲劇が繰り返されないように。総本家の血は自分の代で絶やす。そう固く心に決めていたのだ。
「僅かな賭けであったが、やはりそうか」
「純血の女鬼をお探しでしたか」
風間は露骨にその整った顔を歪ませた。そしてまるで興味がなくなったとでも言うようになまえに背を向け、部屋から出て行った。
「あ、こら!待ちなさい!…ごめんなさいね、あの男ったら失礼なことばかり…」
「いえ、あのお方のご期待に添えなかった私が悪いのです」
「そんなことないわ!私はあなたと出会えてとても嬉しいの!それなのにあの男ったら…」
千姫は風間の態度に深い溜息を吐いた。
なまえは風間が出て行った襖をじっと見つめていたが、すぐに目の前で肩を落とす千姫の方へ視線を移した。
「どうか、お気になさらず。えっと…」
「あ、自己紹介がまだだったわね。私は千。鈴鹿御前の血筋の者よ」
――鈴鹿御前。その言葉になまえの心臓はどきりと高鳴った。
鈴鹿御前といえば、京を統べる鬼である。その末裔が彼女ということならば、千姫もまた風間と肩を並べるくらい、否、それ以上に鬼の一族での位は上ということになる。
「千でいいわ。歳も近いだろうし、畏まらなくていいからね」
「…かしこまりました」
千姫は快活な笑みを浮かべると、次に彼女の後ろに控えていた二人の男達に紹介をするよう促した。
「私は天霧九寿と申します。どうぞよろしくお願い致します」
「俺は不知火匡だ。普段は長州にいる」
「天霧様に不知火様ですね」
「俺達にも堅苦しい言葉遣いは不要だぜ。な、天霧の旦那」
「はい。どうかお気を使わずに」
そう言うと天霧は頬を綻ばせた。
なまえの脳裏に父の姿がよぎる。なまえの父はとても優しい人だった。一人娘のなまえのことを大層可愛がり、護り続けていた。
しかしその父もなまえを守るために戦い、命を落とした。
天霧と父はどこかよく似ている。なまえは今な亡き父の姿を天霧に重ねた。
「先程は風間が無礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした。さぞご気分を悪くされたでしょう」
「いいえ。頭領として、純血の女鬼を求められることは当然のことです」
「本当に困った男で…。私からよく言っておきます」
天霧と不知火は風間の家臣なのだろうか。それとも護衛か。なにはともわれ、この天霧と不知火という男達もまたとても強いのだろう。
「先程千姫様が仰ったように先程の男が風間千景、この里を治める頭領です」
――風間千景。
なまえはその男の名をまるで独り言のように呟いた。決して必要以上に近付いてはいけない存在だと自分に強く言い聞かせるかのように。