誰かのためのうそ


「なにかありましたか」


その優しい声音になまえは伏せていた瞼を薄らと開けた。すると目の前には眦を下げ、緩やかに唇を結ぶ天霧の姿があった。


「こんにちは。天霧様」


なまえは立ち上がろうとしたが、天霧に手でそれを制された。
天霧が彼女の隣に腰を下ろす。

麗らかな日差しが差し込む縁側で休んでいたなまえの傍らには一振の太刀が柱に立て掛けられていた。
この太刀はなまえが西の里で保護される際に天霧が持ち帰ったものだ。傷だらけで倒れていた彼女の唯一の持ち物だった。保護されたばかりの頃は風間が太刀を預かっていたのだが、現在は持ち主である彼女に返還されている。

なまえは明かしていないが、この太刀は代々総本家に伝わる代物である。
美しい刀身が納められている漆黒の鞘は太陽の光で美しく反射し、その存在を一層神々しく見せた。


「元気がありませんね」

「そんなことありませんよ。私は元気です」


そう言って笑みを浮かべるなまえの瞳に陰が差していることに天霧は気付いていた。彼女がこのようになってしまったのは三日ほど前からだ。なにかあったのだろうかと暫く様子を窺っていた天霧であったが、一向に彼女の表情が晴れることがないので、こうして直々に彼女の元を訪ねてきたのだ。


「里の者となにかありましたか」

「いいえ。皆様には、よくしてもらっています」

「では、風間となにかありましたか」


天霧の言葉になまえの瞳が微かに揺れた。しかしそれを隠すように彼女はやんわりと頭を振った。


「頭領にも、とてもよくしてもらっています」


――なまえの脳内にあの夜の出来事が蘇る。
風間はなまえを抱こうとその体を押し倒したのだ。「混血」の女鬼と偽ってまで、風間との接触を避けようと努めていた彼女にとって、風間のその行動は信じがたいものであった。そして、同時に、とても悲しいことであった。
本土の鬼と関わらぬようにひっそりと北の地で暮らしてきた総本家の一族。
そして、一族を襲った悲劇。

最愛の人の手によって生かされたなまえはこの悲劇に本土の鬼達を関わらせてはいけないと固く心に誓っていたのだ。
それなのに。危うく本土の、それも西の頭領である風間と契りを結びそうになったのである。滅んだとされている総本家の血が本土の鬼と交わっていいわけがない。

――なにより、愛する男を裏切るような過ちを犯すわけにはいかないのだ。


目の前で物言いたげに眉を下げる天霧には申し訳ないが、今回の件を口外するつもりはない。なまえは心配いらないとばかりに天霧の手をとった。


「心配させてしまい、申し訳ございません。しかし、本当になにもないのです」

「本当ですか」

「はい。天霧様に余計な心労をかけさせてしまいましたね」

「そんなことありません。私が勝手に心配しているだけです」


なまえは天霧の優しさに心が痛んだ。こんなに自分を気にかけてくれている彼に嘘ばかり吐いてしまっている、と。
しかし彼を含む、本土に住まう鬼達を守りたいからこそ、吐かなければいけない嘘なのだ。そう自分に言い聞かせた。


「そういえば、明日のことは聞かれましたか」

「明日ですか?」

「ええ。千姫様より京にお招きいただいているのですよ」


そんなこと初耳だとばかりに目を見開くと天霧もまた驚いたような表情を見せた。


「風間に伝えておくように言っておいたのですが…。すみません…」

「いいえ。頭領もお忙しい身です」


風間とはあの夜以来接触していない。したがって今回の伝達が行き届いていないことも当然である。


「急なことで申し訳ないのですが、明日から私達と共に京へ上っていただきたいのです」

「私もですか?」

「ええ。千姫様から是非、なまえもご一緒にと」


なまえはこの里から外へ出ることは極力避けたかった。なぜなら、いつどこで、奴等に見つかってしまうかわからないからである。現在、西の里に身を置いていることですら戸惑っているほどなのだ。

しかし鈴鹿御前の末裔である千姫からの誘いを無下にすることもできない。
なまえは暫く悩んだ後、京へ上ることを決心した。


「承知しました。道中ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、よろしくお願い致します」