若しも、この歪んだ時が止まったのなら
5秒以上6秒未満の未来を察知する"天衣無縫"
敵が接近することや銃撃が突如襲ってくることなどを察知しそれを回避する。
しかし、そんな能力にも欠点がある。
それは現状からは逃げられぬ事。
譬えば山道を歩いていた時、珍しいキノコが生えていたとしよう。その者は何も知らずに口にすると突如脳裏にそのキノコを食べた数秒後死に苦しむ己の姿が映った。この場合、既にその者はキノコを口にしている為手遅れである。
このように、"天衣無縫"は5秒以上6秒未満の未来を察知するも現実で既に起こっている身の危険からは逃れられないのだ。
▽
「
来るな!!」
身を潜めていた倉庫から織田を救おうと飛び出した瞬間、織田の叫声が耳に轟かせた。
しかし、織田の懇願にも似た叫声は紫琴には届かず彼女は飛び出した。
無力だと分かっている筈なのに…人一番人情深い小娘は頭で考えるより先に肉体が動いていた。
そして、その瞬間の出来事の一秒一秒の動作を織田は決して見逃す事はなかった。
彼の叫声と共に勢い付いた駆け足は突如減速しそのまま立ち止まってしまい狼狽えた姿の紫琴も、彼の横目で捉えた冷酷で極めて残忍なーー数多の尊い生をその手で奪って来た幹部殿の口角が数粍だけ上方に上がった事も。
恐らく、彼は彼女の行方が消えたと分かった瞬間から策を張っていたのかもしれない。否、いたのだ。彼はそこら辺に居るような生意気な小僧ではない事は分かっていた。それも天才学者でさえ下を巻く程の超脳を携えた、若き天才児。
つまり、逃走者の彼等は脱出不可能な監獄である彼から逃げようとした筈が逆に彼等がまるで人形遣いの繊細な指遣いと連動する吊り糸によって誘導されるがまま彼が最も理想とする場所へと自らがやって来てしまったのだ。
逃亡劇と称した人形劇の脚本、演出は太宰、出演は織田と紫琴。
結局の処、天才児の彼によって設定された世界で放し飼いをされていただけなのだ。
この上ない程の屈辱感と絶望感で、自分が情け過ぎて笑えてくる。
簡単な言葉で片付けるのであればーー"嵌められた。"が相応しいだろう。
今、彼女は一体如何いう表情かを伺うことすら己には許されない気がした。
嗚呼…何もかも最悪だ。
自嘲混じりに目を伏せ溜息を吐けば再び開いた時己の横目で捉えたのはここまで見事なまでに物語を描いた幹部が初めてこちらに足を歩んで来る姿だった。
ーー幹部……幹部か。成る程、今となっては"幹部"という重大な肩書きをその齢で背負う事となった意味も理由も明確になった。
If this distorted time has stopped
▽
「やァ、数日振りだね紫琴。流石に君が急に居なくなった時は私も驚いたよ。…当初ではまた芥川君の仕業かと思ったけど何せ彼は私がボッコボコにしちゃったからねェ…真面に動けるとは思えないし…どんな方法で脱出したのかと思えばーー」
そうしたら、部下から本部の出入り口から"赤髪の男と年齢、性別共に不詳の紳士外套を頭から被った二人が出て行った"という情報が入ってねェ。
ちらりと織田を見た後、彼は飄々とした様子で言葉を紡いだ。
この余裕な表情。普段の酒場で見る軽口を叩く様子とはかなり違う、青年なんていう健全な言葉では不相応な程凍てついた瞳を持ったそれは、ポートマフィアとしての幹部としての顔をして居たのだ。
「あ、織田作、君はもう戻っていいよ。"脱獄犯"については私が対応しよう。何、君が脱獄の助力を添えた事については私が上手く云い絡めておくよ、君はーー部下である前に、私の大切な友人だからねェ」
御役御免とばかりな物云いに腹を立てる以前に一人の人間として実に惨めな扱いに只々己に影を落とす。
ーーそして彼から次々に紡がれる言葉を聞いた後彼に対して目を見張った。
己の失態は免れる。だが、彼女に救済は与えられない。寧ろ今迄より強化した檻の中で過ごす事となってしまう。
止めろ、これ以上彼女を苦しめないでくれ。もうーー、自由にさせてあげてくれ。
こんな人生を送るために彼女は何処までも自由な場所で暖かな瞳で見守られる中で産声を上げながら生まれ出た訳ではないのに…
父親は気の毒だが、母親は只この男の身勝手さで唐突にその命と…愛する娘を手放す事となってしまったのだ。
総て…この男が狂わせた。
せめて、せめて…最後の悪足掻きとして邪の道を進む太宰から逃がさなければ…
そう思ったが最後、己は頭で考えるよりも先に本能で彼女を兎に角この男から遠ざける事だけを考えていた。
しかし、向かう足が進むよりも先に太宰が己の腕を掴みそのまま地に伏せられた。
だが、彼女の逃走経路が途絶えた訳ではない。
織田は今度はしかと彼女の耳まで轟く様に
声帯を潰す勢いで全身全霊を持ってして叫んだ。それは何処までも悲痛で誠実なそれでいて懇願じみたものだった。
「
逃げろ清水、俺の事は構うな!兎に角逃げろッ」
今迄呆然と立ち尽くしていた彼女は今の叫声でやっと我に返った。
未だよく状況把握出来ずに狼狽えているが、兎に角織田の云われた通りに彼女も本能で動いたのだ。
「…成る程、この逃亡劇は総て織田作だけで導いた事じゃないンだねェ、少なからず彼女の意思もある…まァ当然か」
「ぅぐッ、太宰!彼女を自由にしろ!彼女はこんな人生を歩む為に」
「織田作…悪いけど少しだけ黙ってくれ。ーー幾ら私でも、友人を殺したくない」
太宰の一段と声色が低くなったことに瞬発的に顔を振り向いた時、ふと彼と目が合った。
先程の凍てつかせる瞳とは打って変わり瞳は不安気に歪められ、口角は微かに震えている。
その言葉が本心だという理解に然程時間は掛からなかった。
思わず言葉を失う織田に太宰は視線を彼から黒づくめの集団に追われる一人の哀れな少女に目を向ける。
「まァ、どの道…彼女は逃げられない」
その、小さく紡がれた言葉が何を示しているのか織田には分からなかった。
「ゴホッ…ゴホッ」
ーーふと耳を澄ませば聞こえる喉の粘膜が刺激された時に生じる音と何処からともなく現れた全てを破壊する漆黒の獣が現れ、彼女に襲いかかるまでは。