※影山くんの息子視点

 祖母や親戚の他に、幼い頃から面倒を見てくれたのは、両親の共通の知り合いである――とりわけ母と仲の良い及川さんだった。
 皮肉をいう割に、自分の子どもでもない俺を一番に甘やかしたのは彼だろう。欲しいと思った物は必ず買ってくれたし、遊んでほしいと言えばどんなに忙しくても時間を割いて会いに来てくれた。父には頑なに拒んだバレーの技術すら、教授してもらった。まるで、本当の息子のように。

 一度だけ、どうしても気になって、及川さんに聞いたことがある。結婚しないのは何故か。疑問だった。年齢も年齢だ。彼ほどの人物ならば、特定の相手がいたって不思議ではない。
 形の良い唇が弧を描き、それから一呼吸おいて、及川さんは言った。
「結婚する必要がないからだよ」
 当時、まだ小学生だった俺は、その言葉の意味が分からなかった。だから、いつものようにからかわれているだけなのだと、勝手に思い込んでいた。
 あからさまに気に食わないという表情をしていたらしい。飲みかけのカフェオレを持ち上げて、
「マセガキになったねえ、お前」
 やっぱりそう言って馬鹿にするのだった。

 あれから十年以上経った。
 言葉をゆっくり咀嚼して、考えてみる。及川さんが、結婚をしない理由。する必要がないのだと、断言する理由。
 今なら、分かる気がした。
 色素の薄い、穏やかなブラウンの底に秘められた感情が。決して綺麗とは言えない渦巻いたものの、正体が。

 けれど、気づいたとしても、俺が出来ることは何一つないというのもまた事実だった。結局は、見て見ぬ振りをするしか、道は残されていないのだ。

「結婚する必要がないからだよ」
 あのときの及川さんは、いまだに瞼の裏に焼き付いている。それはきっと、一生涯忘れることのできないものだろう。
 彼の瞳の中にくすぶっていた、行き場をなくした熱のせいだ、と思った。


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