例外の彩度

カラフルなものが好き。

パステルカラーのマカロンとか、路肩までバケツを並べたお花屋さんとか。
味の分からないアメリカのお菓子も、原宿の女の子たちのお洋服も、文房具屋さんのボールペン売り場も。
見てるだけで明るい気持ちになれるから、カラフルなものは素敵で大好き。


雨は嫌い。

靴はびしゃびしゃに濡れるし、愛用のルーズソックスもどろどろになるし。
低気圧は理不尽な頭痛を連れてくるし、重く垂れ込めた雲のせいで景色は灰色に色褪せちゃう。
だから梅雨のしとしと続く雨も、台風みたいな強い暴風雨も、雨はぜんぶ大嫌い。


――でもね、ひとつだけ例外があるの。




1年生の夏。まだ私と棘が恋人になる前。

その日も朝から運動場に集合して特訓に明け暮れていた。
夕方に差し掛かっても一向に衰えないカンカン照りにいい加減嫌気がさした頃、真希が言い出したアイスの買い出し。
そのジャンケンで見事一発負けした私と棘は高専の最寄りのコンビニに来ていた。

最寄りが最寄ってないせいで汗の上から汗をかいている状態だけどそれに怒る気力も無く。みんなのアイスをきっちりリクエストどおりに買ってお店の外に出たその時。
ぽつり、空から雫がひとつ落ちてくる。
その一滴を皮切りに、どざぁ とまるで漫画みたいな音を立てて雨が降り始めて、思わずふたりで顔を見合わせた。

「こんぶ…」
「うわあ、すごい…」
「めんたいこ」
「ね、待つしかなさそ」

雨が嫌いな私としてはただでさえ元気が吸い取られていく心地なのに、運動場からそのまま来たから傘なんて当然持っていなくて、あまりの雨量に怯んでしまった。

どうしようもなくて上を見上げれば、雲の隙間から幾つもの光の帯が溢れていて土砂降りのわりには空が明るい。この時期らしい、典型的な通り雨の様子。
これならすぐにでも止みそうだね、なんて期待を共有しながら、涼しい店内に戻ればいいのに何故だかふたりしてずっと軒下に立ちつくしていた。

数分前まで権威を振りかざしていた太陽はすっかり鳴りを潜めているくせに、まったく下がらない気温に身体がじりじりと灼かれていく。
…でも多分、触れそうな肩がいちばん、熱くて溶けそうだった。


案の定、1、2分もしないで雨脚は弱まって、ゆるやかな霧雨と蒸発した水分で靄がかっている。
いまこの瞬間、空気中の何パーセントが水分なんだろうと意味のないことを真面目に考えて、ああどうしたことかと思案。
決して気まずいわけでも、嫌な沈黙というわけでもない。けれど、頭の中で考えているくだらない考察をそのまま口にする、たったそれだけのことができないのがほんのちょっと怖くて。どうにか喋ろうと焦っているのにひと欠片の理性だけは冷静で、不思議だった。

それに、背を預けたガラス窓の内側、見えないだけでそこにはさっきの店員さんが確かにいるはず。なのに、まるで世界に取り残されたみたいな異様な感覚がどこから来るのか――人気のない山のコンビニ、明るい夕方、それとも厄介なお天気のせいか、よく分からなかった。


視界の端にあった棘の横顔の輪郭がふいに崩れて、つんと尖った鼻先がこちらを向いた。
つられて私の鼻も隣を向く。真っ直ぐ通った鼻梁につい視線が釘付けになって、どきりとした衝動を慌てて隠していれば、手首に熱い拘束。

「っ、え?」
「しゃけ!」

ぐん と引っ張られてたたらを踏む。
軒下から抜け出し小さな駐車場を駆け抜けて、道路に出たところでやっと濡れる感覚がないことに気づく。雨は上がっていた。


もう、どこもかしこも感覚が追いつかなかった。
気づけば雲の群れは去っていたし、止まった足元を見ればきっと水溜りを踏んだんだろう、スニーカーは少し水が染みている。
強く引っ張られたわりには手首を掴んでいる手の力は緩くて。私の手首と棘の手のひら、その僅かな隙間を通る風が仄甘い疼きを伴っていた。

ようやっと脳みそが状況に追いつく。
たかだか十メートル走ったくらいなのに肺が苦しくて、きっと頬は赤い。どれだけ酸素を吸ったって心臓は落ち着かないし、ずっと手首から目が離せなかった。
その時の私がもしロボットだったら、大事なネジがすべて溶け落ちて、身体全部がばらばらに崩れていたに違いない。

「ツナツナ」
「へ…?あ…」

路側帯で立ち止まっていた私たち。ぼーっとしていた私に声をかけて、しゃがみ込んだ棘は脇の草むらを指さした。

目を引いたのは綺麗なライムグリーン。
少し大きな葉っぱの上に、小さな背中をつるりと光らせたアマガエルがいた。思わず一緒にしゃがんで観察。

「おぉ、カエルさんだ…」
「しゃけしゃけ」
「これ見つけたから走ったの?」
「すじこ」

――こんな小さいのを遠くから見つけるなんてすごく目が良いんだね。
跳ねたのが見えたから。
どのくらい跳んでた?
…このくらいかな。
わっ、行っちゃった――

知らなかった彼のことをひとつ知った。
嬉しくて話に夢中になっていたから、気づかなかったのだ。
とん、とぶつかった膝。謝ろうとして横を向いたら、目の前、本当に目と鼻の先に棘の顔があった。

驚いたけどそれよりも、波が押し寄せるみたいに彼の顔がぶわっと赤く染まる瞬間を見てしまった。白い肌に血が通っていく、その滑らかな薔薇色。

「ごっ…ごめん…!」
「おおか、おかか」

慌てて立ち上がって服の裾を直す。耳の裏がどくどく鳴ってうるさい。
まだ引いていなかった自分の頬の熱がもう一度じわじわ昇ってくるのが分かってたまらなく恥ずかしかった。


西に傾き始めた太陽は意地悪で、まだ世界を茜色に染めてはくれない。
だから私の脳裏には、全てがありのまま、録画されたように焼き付いてしまった。今でも鮮明に思い出せる。

奥の森に続いていく木々の爽やかなサマーグリーン。
その斜面に隠れてひっそり咲く山百合の透けるような白。
カエルがいなくなった草むらで揺れる野薊の紫色。
水溜まりが映す空の突き抜けたスカイブルー。

…それから、背を向けた彼の耳にまだ残る、淡い薄紅色も。


目に飛び込んでくる景色はあまねく色味を増して、雨が降る前よりも俄然鮮やかにそこに在った。

雨が置いていった水玉がきらきら光って、空気ごとぜんぶが輝いて見えるからだ、とその理由に気づいた時。
色に溢れたカラフルなこの景色が、彼の目にも同じだけの鮮やかさで映っていてほしい―― そう願って、もうひとつの理由に行き当たった。

存外単純な理屈に、けれどこれでもかと振り回されて。それすらも嬉しいと思うのはどうしてだろう?
その疑問は、跳ねたベージュから覗く薄紅色を追いかけたら、答えが分かる予感がしたのだ。




あの時、君が雨粒に輝く色彩を教えてくれたから。
――だから夏の夕立だけは、愛おしくて、ちょっと好きなの。