寝苦しい夜のことでした。

遠くの梢が耳元で揺れている。

聞こえるはずのないそのざわめきが耳を占領しているのを他人事のように認識して。ざりざりとした感触を伴っていつまでも落ち着かない胸の内に、いい加減耐えかねて瞼を上げた。

視界の端で浮かび上がる灯りに手を伸ばす。
彼に関する通知の有無を無意識に確認している自分に気づいて、唇に乗った苦い笑いを吐息で誤魔化した。

網戸越しに流れ込んでくる空気が思考を奪う熱気を運んで来る。
何度も寝返りを打ったせいで脚に絡まったタオルケットを蹴飛ばしてから、背中に張り付くTシャツの不快感に今になって気づいた。

シャツを換えている間に思い至って、慣れたスポーツウェアに着替えスニーカーを履く。
最低限開けた自室の扉に身体を滑り込ませると、暗い廊下の静けさに 今が本当に真夜中なのだと実感した。

外に出ると肌に纏わりつく空気はさらに粘度を増して、 運動すれば疲れてすぐに眠れるだろう… なんて安易に考えた5分前の自分を恨む。
いつもなら任務や訓練で溜まった疲労がすぐに意識を連れ去るのに、今夜は冴えた目を無理矢理瞼に閉じ込めても睡魔はやって来なかったのだ。

後悔したって既に寮の外に出てしまったのだから、大人しく疲れようと割り切って玄関のコンクリートを蹴った。



高専の敷地に点在する森林は一見自然のままのようでいて、実際には隅々まで丁寧に手が入れられている。山奥故に日没後は真っ暗になるが、強固な結界に守られた森は意外にも安全だ。
特に寮の裏手のこの一画は、月が明るい今日のような夜にひとりで鍛錬するにはうってつけで、1年生の頃から私のお気に入りだった。

先程まで耳について離れなかった葉擦れの騒めきは いざ森に入ってしまえばむしろ気にならなくて、ざわざわと煩いのは自分の内側だけになる。

木々の間を抜け 枝々を飛び移り、ひたすら呪力を練り、術式を展開し、駆け続ける。
時折動く小動物を避けるのさえ頭より先に体が動くほど無心でのめり込んで、どれほど経っただろう。
ふと、向かいの枝にいる梟の、金色に光る双眸とかち合って足が止まる。
ぱたりと集中が切れたのを自覚して、脱力した身体に抗わず地面に降りた。

荒くなっていた息を整えながら、煌々と輝く月を見上げる。
空っぽの頭でぼうっと眺めているうちに段々と現実に引き戻されて、また胸の内側の梢が騒ぎ始めた。

…運動して疲れたら寝れるかも、なんて。そんなのは建前だ。
本当は無心になりたかっただけ。
鍛錬に集中してしまえば、この逆撫でされる胸中の感覚を一時でも忘れることができるから。


彼――恋人の棘が傍にいない夜、時折自分はどうしようもなく弱くなる。
これといって嫌な出来事があったわけでも、任務で負傷したわけでもないのに。ただ漠然とした不安に、孤独に、焦燥に侵されて、眠れなくなる。

今回の彼の出張は1週間。今日で5日目が終わった。
出張中の連絡はまちまちだ。もちろん彼は出来得る限りのタイミングと頻度で連絡をくれる。
しかし多くの任務は期間の長さに比例して内容の複雑さや難易度は上がるもの。今回の出張も例に漏れないようで、最後に連絡が来たのは2日前の昼。

過去、丸3日連絡がなかったことや 2週間離れていたことだってあった。その時は平気だったのだ。
連絡がないことが悪い知らせとは限らないし、予定の延長はよくあること。分かっている、けれど。 ――どうしようもなく不安で、落ち着かない夜がある。



ため息に成り損なった呼気が周囲に馴染んだ時、ざわりと一際強い風が吹いた。
急に視界が奪われて真っ暗闇に埋もれる。同時に瞼に感じる熱い温度。
極めつけに、都合のいい幻聴まで聞こえてきた。


「しゃーけ」


ありえないことだから、暑さでやられた頭が起こした幻覚だと思った。
…だって彼は今出張中だ。帰りは明後日のはず。でも目元を覆うのは自分のものではない掌で。
まさか、と期待しながら振り向けば、焦がれた最愛の彼がいた。

「幻覚かとおもった、」

思わず呟けばくすくすと笑われ、腰に手が回される。
引き寄せられるのに任せて、制服の胸板にすり寄った。

「…明後日までじゃなかったの?」
「しゃけ。ツナツナ、明太子!」
「早く終わらせたって… 連絡くれればよかったのに」
「こんぶ。おかか…?」
「怒ってないよ、心配したけど。…でも今うれしいから、だいじょぶ」
「たーかな」

じめじめとした暑さなんて頭の中から抜け去って、彼の香りに混ざる互いの汗の匂いにどっと安心感が押し寄せる。
ひっついて離れなくなった私の頭をゆるゆると撫でながら、溶けそうなくらい甘い声で彼は言うのだ。

――華鈴が、眠れてないような気がして。

俺がぎゅってしたかった、と付け加えた彼の笑みに心臓を掴まれる。
見透かされていたことに対する驚きはない。むしろ、離れていようと思考も行動もなぞれてしまう関係性を実感して、制服の背を強く抱き締めた。

腕を緩めて、彼の顔を見上げる。
紫の瞳は暗い森の中でも不思議と透き通って見えて、その双眸が「会いたかった」と熱を籠めて語るから、私も同じ視線を返した。



手を繋いで寮へと歩きながら、斜め上で揺れる淡い色の髪を眺める。

同級生として彼のおにぎりの語彙をだんだんと理解できるようになって、恋人として更に会話を重ねて。
今や声に出さずとも視線を交わすだけで相手の考えが読み取れるようになった私たちは、同期や後輩から"ふたりは特別だ" なんて言われたりする。
相手のことがなんでも分かるとか、目で会話できるとか、色々言われているけれど、本当のところ、私自身は特別でもすごくもなんともなかった。
…もちろん、彼の言葉や想いを理解するための努力は重ねたけれど。それは彼のためでは決してなくて、エゴと打算とで固められた私自身のための努力だ。
――彼の隣を誰にも譲りたくないという、私の我儘のための。


だって、忘れてはならない。
私たちがこの深い関係性を維持できるのは、"運命の紅い糸で結ばれた相手だから"なんて非科学的な理由――そうだったらいいなとは思うけれども――ではないし、まして千里眼や読心術なんていう超能力のおかげではないのだから。

それはもっと地味で堅実で、目立たないもの。
彼と私が出会って共に過ごした1年数ヶ月の時間と空間、そこで作り上げた信頼関係、重ねた身体と潜った死線と絡めた視線の数という、確かな事実の積み重ねの結果。それが真相だ。

互いの眼差しから意図を汲み取れてしまうその原理は、どうしたって単純で、複雑で。
言葉にすれば味気ない真相を支えているのは、互いに対する思いやりと労り。時折見え隠れする苛烈な熱情と種々の欲。心身を御する理性と慈しみ。そしていつだって底に潜む細やかな配慮。
――つまるところ、彼と私が"目で会話できる"のは、彼の徹底的で途方もない優しさの凝集が為せる業なのだ。


(そーゆーのをまとめて "愛"って呼ぶのかな、)

なんて、ちょっと背伸びしたことを考えてみたりして。
繋いだ手を大きく揺らすと、彼は透けた瞳で「どうしたの?」と尋ねてくる。

運命という陰惨なシステムを認めることは嫌なくせに、愛というロマンスには夢見る自分がなんだか可笑しい。
自己矛盾しているようにも思えるけれど、これまで挙げたどれもこれも本当は似たようなもので、人々の呼び方が違うだけなのかもしれない。

ただ言えることがあるとすれば、それを愛だと仮定したとき、狗巻棘という呪言師は言葉を紡ぐ場所に牙を持ちながら、その実、誰よりも愛に溢れた人であるということ。
そして、自惚れでも過信でもなく、私は彼に"愛されている" ということ。
――その揺るがぬ事実が、何よりも私の存在を安定させている。


どこまでもこちらを労わってくれる彼の眼差しに応えて、愛おしい蛇の目にキスを贈る。
絡めた指先をぎゅっと強めて感謝を声に乗せれば、これ以上ないくらいに心地好い"しゃけ"が返ってきた。


肌に貼りつく空気は変わらないのに、梢は穏やかに凪いでいる。
眠気はもうすぐそこまで来ていた。




※企画『アイの形を教えてよ』参加作品
※title by icca / 20題の箱『罪に罰』