2、寝ぐずる


「じぃじ〜・・・・・・む〜ぅ〜・・・!」

「よきかな、よきかな」


久しぶりに寝ぐずるべにを抱きかかえて、ぽん、ぽん、と背中を一定のリズムで叩く。
ぐりぐりと肩口に額を押し付けてくるたびに、柔らかい髪が頬をくすぐる。
小さい手がぎゅう、と袖を握り込むのを感じながら、静かに微笑んだ。

―――全てが愛しい、小さな主。

ここ数日の突然の春の陽気、そして続く雨で湿気と暖気のこもった寝室は、子どもには寝苦しい暑さだったらしい。
熱があるようにすら感じる身体を抱えなおして立ち上がり、外に通じる障子を開ける。
冷えた、しかし数週間前までの冷たさはない空気を感じてそのまま上着も着ずに庭に足を踏み出せば、べにがふぅ、と小さく息をつくのが聞こえた。


「暑いな・・・どれ、少し涼んでいくか」


パタパタと夜着の背中の布をはためかせて新しい空気を入れれば、気持ちよかったのかべにも「もっと」と言うようにぎゅ、と縋りついてくる。
その小さくも力強い腕に再び愛しさを覚えながら、ふと視線を空に向けた。


「おぉ・・・見事なものだ」


思わずそう呟けば、興味をそそられたのかうつらうつらとしていたべにが肩から顔を上げる。
けれど俺が見上げた先を見ても、特に何も気付けなかったのか、それとも眠気の方が戻ってきたのか。
一度こちらに視線を向けた後、再びポス、と肩に頭を預けるのを感じた。
それでも首を無理に捻る様子からして、決して心動かされていないわけではないようだが。
べににも見やすい角度になるように向きを調整して、自分も首を横に捻るようにしてその景色を目に収めた。
二つの視線の先、真円には少し足りないが、美しく輝く月。
そしてその冷たい光に淡く照らされる桜は、薄い桜色を夜空に浮かべる。


「・・・夜の桜と月ほど、美しいものはないな」


少なくとも今この瞬間、俺はこの景色から目を逸らす気になれない。
昼も見た桜だが、曇天にはけぶるように霞んでいた。
しとしとと降る雨に打たれる姿もまた美しかったが、月光に照らされ、夜闇に浮かぶように光る美しさには勝るはずもない。

―――三日月であれば、なお一層よかったのに。

雲間から照らす月は、三日月と呼ぶには太りすぎている。
今年は咲くのが遅かったからな、あと一週間早ければそれと呼べたろうに、まぁ、べにの幼さも考えればこの差も愛しいというものだが。


「・・・・・・」


そこまでつらつらと考えて、月を自分に、花をべにに置き換えて、悦に浸る自分がいることにはたと気付く。
―――だがそれもまた良し。


「・・・俺とお前も、この月と桜のように素晴らしいものでありたいな」


涼しさで眠気が戻ったのか、それとも俺がそれほどその場に立ち尽くしていたのか。
小さく呟いた言葉は、すぴすぴと小さな寝息を立てるべにの耳には届かなかったようだ。
それもいい、と静かに揺らしながら再び夜空を見上げる。
桜の花弁には昼間の雨が飾り付けられ、月光を浴びてキラキラと輝いているのがまた美しい。
ほぅ、と恍惚としたため息をついて、べにを抱く腕に少しだけ力を込めた。
あの月のように、べにをより一層美しく輝かせることのできる、彼女を引き立たせるものになれたのなら―――。
その幸福な想像は、だがそれほど長くは続けられなかった。


「こらーみかづきっ。こんなじかんまでべにさまをつれまわすなんて、なにをかんがえているんですかっ」


後ろから突然飛んできた、抑えながらも怒る声に振り返れば、夜着の今剣が縁側で腰に手を当てて仁王立ちをしている。
見つかってしまったか、と微笑んで、こちらもべにを起こさぬよう声を抑えて返事をした。


「何、昼寝の時も抱き上げても起きんのだ。これだけ静かなのだから、気にすることもないぞ」

「そういうことじゃないでしょうっ。よるはしっかりねないと、おおきくならないんですよっ」

「ふむ・・・。このまま、小さいままでもいいとも思わんか」

「・・・ばかなこといわないでください」


呆れたように諫める今剣が腕を伸ばしてきて、その意味を察して少し渋る。
まだ、この温かさを感じていたい。静かな寝息に愛しさを覚えていたい。
けれど下ろす気配のない腕と、睨み付けてくる今剣の視線にそれも無駄なあがきと察した。
しぶしぶとべにをその細腕に預けて、苦労なく抱き上がる小さな身体を見送る。
ここでぐずればもう一度引き受ける口実もできようものを、と念じても、小さな主にそんな邪念が通じるわけもなく。
温かさのなくなった胸元がひどく寂しくて、掻き合わせるように袖に手を差し込んだ。


「みかづきももうねましょう。あしたもしゅつじんですよ」

「おぉ、そうだっな」

「・・・ひさしぶりのよるとうばんで、まいあがるのはわかりますけど」


太刀は夜目が効かない。自然、夜当番・・・べにと寝る権利は打刀以下に偏ってくる。
今回この権利を勝ち取れたのは、誉を取った者の特権というやつだ。
全員が狙うそれを勝ち取るのは至難の業だが、それでも、夜の間中べにを独占できると思えば後悔はない。
今回はこうして、思わぬ役得も得られたわけだしな。
今剣のため息などどこ吹く風で部屋に上がり、主がいなくなったことで冷えた布団に再び潜り込む。
隣に降ろされたべにはもう完全に寝付いたようで、今剣が布団をかけても瞼をぴくりと動かすこともない。
「おやすみなさい、」と小さく呟いて部屋を出る今剣の気配が遠くなるのを感じてから、布団から腕を出してそっとべにの前髪を払った。


「・・・確かに、もう少し大きくなったほうがより美しく咲くか」


今はまだ、稚い。“美しい”には足りない。
あの満開の桜のように。雨粒を着こなす気品をもって。


「・・・早う育て、愛しの子よ」


閉められた障子の向こう、再び降り始めた雨に、花弁が一枚、はらりと流れる音には気付かずに。
いつしかとろりと、幸せな夢へ落ちていった。


**********
back